太田ものがたりHISTORY

少年時代

昭和20年10月

7人きょうだいの3男として、疎開先の愛知県新城市に生まれる。
幼いころに兄や姉を亡くし、実質的に長男として、下駄屋を営み、手袋編みの内職などもしていた両親の苦労を見て育つ。
それでついたあだ名が「下駄アキ(=下駄屋の昭宏)」「ナイショク」。
父母の誕生日には、何も贈り物ができない分、肩をもんであげたという。

昭和31年4月

小学5年生の時、一家で豊橋市へ転居。新城小学校から豊橋市立東田小学校へ転校する。
小学校時代の得意科目は「算数」。ツルカメ算などが、とにかくおもしろかったとか。昆虫採集など、遊びにも夢中な元気な子どもだった。
両親が仕事で忙しかったので、食事のしたく、お風呂、掃除は、きょうだいで分担して手伝っていた。

昭和33年4月

青陵中学校に入学。成績は常に学年一番だった。生徒会長となり、国道に「夏みかん並木」の植樹を提案。この夏みかん並木は、後に詩人のサトウ・ハチロー氏が長編詩で讃え、今でも大きな実をつけている。松平健さんも青陵中学校卒業生の一人。

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昭和36年4月

愛知県立時習館高校に進学。素晴らしい先生たちに恵まれる。
中には、何十年もたった今もなお、年賀状のやり取りが続いている先生も。

青年時代

昭和39年4月

京都大学の工学部土木工学科に進学。直後の6月に起こった新潟地震で、完成したばかりの昭和大橋が崩落。これに衝撃を受け、「日本は地震国。やみくもに造っても、壊れては意味がない」と耐震工学を専攻する。同大学院(工学研究科)の修士論文は「土木構造物の非線型振動論」。

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大学時代は相撲にも熱中した。最初は、自分の腕が上げられなくなるほど、しごかれたという。得意技は「ぶちかまし」からの一気の「寄り」。上級生になると、主将として大いに活躍した。
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オフシーズンには、1日1冊の読書を欠かさなかった。学生時代の読書は約800冊にも。読書家として知られる。
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今も合間を見つけては読書にいそしむ。
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昭和46年4月

京都大学大学院修士課程を修了後、公明新聞に。1年半の印刷工場勤務。「仕事の空き時間に、インクで黒く汚れた指で、難しそうな本を読んでいた」とは、当時を知る人の証言。
その後、国会担当記者、論説記者として、福祉・平和問題等で健筆を振るう。
当時の、自民党と社会党による不毛なイデオロギー対立の政治「55年体制」を評して、「パー(自民)とグー(社会)しかない、勝負の決まったジャンケンポン政治」と一刀両断。「チョキを出す中道の公明党によって、政治が活性化する」と論じた。これは、テレビでも広く紹介された。

衆議院議員初当選~

平成5年9月

初当選後1カ月余りで、いきなり、NHKの実況も入った衆院政治改革特別委員会にて党を代表して質問に立ち、「政治改革は政治家改革」と主張。その後も「政治とカネ」「政治改革」の先頭に立ってきた。
それが、画期的な「あっせん利得処罰法」の制定(12年11月)、「官制談合防止法」(14年7月)、さらに議員表彰などの議員特権の廃止(14年、15年)として結実した。

平成7年1月

阪神・淡路大震災が発生。1月20日をはじめとして現場に急行。1週間後には薬等も持参。救済・復旧・復興に力を注いだ。
京都大学土木工学科・同大学院で耐震工学を研究した地震対策のエキスパートとして、震度観測点や震度計の大幅な設置拡充を推進、地震・耐震について最も力を注いできた。
学校の耐震化は当初、推進状況のデータすらなかったが、この10年で、40%前半から80.3%(東北3県を除く全国公立小中学校の23年4月現在)を超えるところまでもってきた。

平成9年2月

衆院予算委で徳島県の細川内ダムをはじめとする公共事業の中止・休止、ムダ削減を要求。これがきっかけとなり、公共事業272事業がストップ、2兆8000億円の削減に結びついた。

平成10年9月

拓銀等の銀行が倒れるなど大変な不況が中小企業に襲いかかった。中小企業の資金繰りを支援する「信用保証協会の特別保証制度(=5000万円まで無担保で借りることができる)」の創設を推進、中小企業を守った。
その後も、「返済の弾力的適用」や、「資金繰り円滑化借換保証制度」(15年2月)を実現して、中小企業を救った。

平成12年1月

国会に衆・参憲法調査会が設置された。その後、5年間、毎週、欠かすことなく委員会が開かれ、5年間にわたり委員会に所属したのは中山太郎委員長と太田の2人のみ。党の憲法調査会座長を続け、「加憲」を公明党として定め、論戦の軸となった。加憲の考えが入っている憲法改正の手続きを定める「国民投票法」が19年5月に成立した。

平成12年3月

小渕総理の悲願であった民間有識者でつくる「教育改革国民会議」(江崎玲於奈座長)にオブザーバーとして参加。教育に力を注いだ。この提言を受けて、教育の憲法たる「教育基本法」の与党検討委員会の中心の一人として、3年にわたって激論を交わし、現在の教育基本法成立を実現した(18年12月)。

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平成15年6月

戦争終結後のイラクを視察。与党を代表して衆院本会議で、「民生の安定こそ平和の礎」「生活支援を急げ」と主張した。
また阪神・淡路大震災の後も、日本国内で災害が頻発。12年9月、三宅島噴火の現地視察と全島避難に同行。また新潟県中越地震(16年10月23日)、福岡県西方沖の地震(17年3月20日)、能登半島地震(19年3月25日)、新潟中越沖地震(19年7月16日)、岩手・宮城内陸地震(20年6月14日)などの大地震が続発。太田は必ず真っ先に、その日か、翌日には現地に飛んだ。そして救命・救援を現場から政府に求めた。

平成18年4月

児童手当の支給対象が小学6年生まで拡充された(10年間で5度の改正・拡充)。さらに、待機児童ゼロへ保育所の増設、難病への支援を大幅拡充。また、若者雇用支援へ向けジョブカフェ、若者支援センターの設立などに力を注いだ。

平成20年10月

リーマン・ショックで急激な景気悪化。国民の暮らしと雇用を守るために、定額給付金の実現をはじめ、中小企業への緊急保証制度や雇用調整助成金の大幅拡充、さらにはエコポイント、エコカーなど景気・雇用対策に間断なく手を打ち続けた。景気は翌21年夏に至って、ようやく回復傾向となった。

現在~そして未来

そして現在

的確な分析力・表現力と現場第一主義で、「現場の声を生かす、分かりやすい生活者の政治」へ戦い続ける。
党代表時代には、ねじれ国会の中でも、持ち前の実現力で、生活者のための政策をいくつもかたちにした。
2012年12月の衆院選では、6度目の当選を果たす。多くの方々に賜った真心を胸に、日本再建を目指して、いちだんと全力で日本中を走り、現場を歩く。

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