「成功する経営の軸は経営者自身の理念と哲学、信条にある」「経営者自らが一人の人間として人生理念を確立し、会社の理念を最も体現していくことだ」――。「『働きがいのある会社』ランキングで7連連続ベストカンパニーに選ばれた人材教育会社等のアチーブメントグループCEOの青木仁志氏の哲学・理念が語られる。
「私は愛・誠実・感謝を人生理念に定めている」「世界中で営利主義が蔓延し、あくなき利益の追求に傾斜しているが、企業で働く人、お客様、取引先、業界、地域社会といった縁ある人を幸せにする人軸経営こそ重要」と言っている。伝わってくるのは、経営者自身の「人生理念(青木氏の言う愛・誠実・感謝)」の確立と、そのぶれない軸としての企業理念の会社全体への浸透・確立。どこまでも社員を大事にし、社員の働きがいを生きがいにするという覚悟。社員たちが、良好な人間関係を構築できる環境作りに注力するのだ。その意味で「人の心を知る経営者だけが成功する」と言う。企業理念を会社・組織のビジョンとし、目標を設定、戦略的に計画化、そして日々の実践へと具体的に落とし込んでいくのだ。人の幸せとは「5つの基本的欲求(生存、愛・所属、力、自由、楽しみの欲求)」だ。
鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの墓碑には「己よりも優れたものと共に働く技を持つ者ここに眠る」とあり、「彼の成功を支えたのは、数多くの協力者の存在だった」と言う。著者は23歳でナポレオン・ヒル著の「成功哲学」に大きな影響を受け、「人々を成功に導くことができる偉大な能力開発のスペシャリストになる」というビジョンを描いたと言う。また、アメリカの精神科医ウィリアム・グラッサー博士が提唱した「選択理論」と出会い、「私の生い立ちが『不満足な人間関係に起因する不幸』そのものであったことに気づいた」と言う。また本書の随所に、松下幸之助の経営哲学が紹介されている。アンドリュー・カーネギー、ナポレオン・ヒル、ウィリアム・グラッサー博士、松下幸之助等を実践的に学び抜いた経営哲学、人生哲学が本書にゆるぎないものとして開示されている。
経営者に留まらず、組織のリーダーとしてのあり方を、具体的に示し、展開している本書は筋の通った多くの示唆を与えている。
歴史に名を残す偉人名将であっても陥りがちな罠。なぜ英雄たちは敗れたのか、その「失敗の本質」を解明する。歴史は「勝者の歴史」となりがちだが、本書は通説や誤りを指摘、掘り下げ、その人物の本質を抉り出しているのが特徴。
3つに分ける。まず「現場主義・プレーヤー型」。源義経、西郷隆盛、山本五十六の3人をあげる。「源義経」――。「頼朝と義経の決裂の決定打は『腰越状』とされるが、その逸話は後世の創作」「後白河と義経の結合は、頼朝の目には、後白河が独自の武力を持とうとしているように、そして義経が頼朝の統制から離脱しようとしているように映った。ここに両者の関係は修復不可能になった」「義経の錯誤は会社の肩書があるから仕事ができていたことに気づかなかった。あくまで『現場の人間』」・・・・・・。
「西郷隆盛」――。「征韓論」とは何であったのか論ずる。「無計画な西郷」「征韓論にせよ、西南戦争にせよ、西郷が無謀な行動に走ったのは、同志である鹿児島士族を見捨てられないという心情に支配されていたからである」と言う。
「山本五十六」――。「対米開戦に反対の立場でありながら、真珠湾攻撃計画に熱中していった」「連合艦隊司令長官の職についている以上、職掌外の業務である政治に介入することはできない。特に海軍には、軍人は政治に口を出さず、己の職分を全うすべきの伝統があった」「ミッドウェー海戦で敗北への転換点。兵力分散の愚」・・・・・・。連合艦隊は、本社・本部(軍令部)と現場(機動部隊)の間に挟まれた中途半端な組織だった。「大作戦を破綻させたコミュニケーションの欠如」を指摘する。
次に「サラリーマン社長型」として、明智光秀、石田三成、田沼意次の3人を上げる。重役や補佐役として、有能だった人物がトップに立つとうまくいかない。「明智光秀」――。「三日天下を招いた決断力不足」とする。黒幕説がいくつもあるが、足利義昭黒幕説、徳川家康共謀説などを否定する。要は「決断力不足」。
「石田三成」――。最大の敗因は「組織作りの軽視」」とする。「家康の虚をついた挙兵」であったが、「増田長盛・長束正家・前田玄以の大阪三奉行は家康からも重用されており、家康に反逆する動機を持っていなかった」・・・・・・。そして「岐阜城陥落と毛利輝元の思惑」「問鉄砲はなかった。小早川秀秋は即座に裏切った」と言う。西軍は「石田・毛利連合政権」で、意思決定に多くの時間を要する弱さを持っていた。三成はワンマン社長に仕えていた優秀な部下だったが、脆弱性を持つ西軍のリーダーたりえなかったのだ。
「田沼意次」――。最近のリフレ派による再評価は過剰だとする。型破りの人物ではなく、むしろ官僚的で腰が低く根回し上手。拝借金の停止、蝦夷地開発も印旛沼干拓も失敗。「官僚の枠を超えられなかった改革者の限界」と言う。
3つ目は「オーナー社長型」――。後鳥羽上皇と織田信長の2人をあげる。「後鳥羽上皇」――。承久の乱の画期的なこと、それに対して、北条義時の勝因は何かを解説する。「最大の敗因は、朝廷・上皇の権威を後鳥羽上皇が過信したこと」と言う。
「織田信長」――。「部下の謀叛を招いた『ブラック企業』の長」と言う。光秀の謀叛は信長の四国政策の転換が大きく影響したという見解が有力。部下の不満に気づかなかった信長。
現在にも通じる教訓。
「性愛・親子の変遷からパートナーシップまで」が副題。離婚・再婚、同性婚、同棲・事実婚、シビルユニオン(登録パートナーシップ制度など)、選択的夫婦別姓、共同親権、養子縁組、生殖補助医療など、現代の結婚をめぐる様々な変化を、歴史的変遷を踏まえた一貫した視点から説明する。キーワードは共同性、性愛関係、親子関係の3点。
歴史の第一段階は前近代・・・・・・。結婚は、家の存続や生業の戦略と結びつき、性別や生殖(特に父子関係の確定)に基づいた。歴史に明らかなように夫婦の間に性愛(恋愛感情)は求められなかった。
それが日本では第二次大戦後、第二段階に移る。そこでは労働が家族の枠の外に出て、結婚が経営・家系・生殖ではなく、性愛・愛着と結びつくようになる。そして1980年代から今日に至る第3段階----。徐々に結婚・生殖・性愛の結びつきが緩くなり、結婚外の性愛関係も一般的になっていく。人々のライフコース(生き方)が多様化し、生殖と性愛はオプションとなり、生殖を想定しない結婚(子供を持たなかったりセックスレス)という考えが広がっていく。「同性婚は前近代からの結婚の考え方からの完全な離脱であり、かつ現代的な結婚の意味の変化のひとつの到達点だ」と言う。
そこで、残っている結婚の要件は何か。それは「家計や住居を共有し、共に助け合う」という「共同性」だと言う。「性愛関係は、あくまでニ者が共同生活を送る上でのひとつのパーツ。結婚自体が、人生のパーツとして『人生に内部化』してきている。自分(たち)が大事だと思う共同生活のあり方に合わせて、拘束度の強い法律婚、そこまでではない事実婚が選択肢として現れる」「結婚の法は既に入り口においてかなり開放的であり、生殖や性愛関係を重視しない者でも、結婚制度は利用可能である。・・・・・・入り口は、やはり広いので、同性婚は同性愛婚であるとは限らない」と言う。こうした時代から言えば、法律婚は、こじれたときに関係の解消が難しく、「西欧では事実婚・同棲が増加している」と言うが日本もそういう傾向にあるのだろうか。「共同関係の選択肢としての結婚へ」「自らがいかなるパートナーとどのような共同生活を送るのかを選び取る」時代となったわけだが、逆に「自由からの逃走」「自由であるがゆえのしんどさを抱え込んでいる」というわけだ。結婚をめぐる地殻変動を考えさせる著作。
関白・豊臣秀次の遺児である三好孫七郎。秀吉の甥に当たる秀次は、あらぬ罪状を被せられて高野山へ追放、自刃。その妻妾子女は残らず三条河原で惨殺された。ところが、孫七郎だけは秀次自刃の翌年に生まれたため生き残り、旅芸人の母は秀次の家老だった木村常陸介・重成の親子のもとに孫七郎を預けていた。そこには、秀次に仕えて自刃した者の子である武藤源蔵も隠れ住んでいた。
「大坂の陣」前夜、孫七郎は、大阪方の密使として、全国に散らばる牢人たちを仲間に引き入れる役目を受ける。武藤源蔵、大阪方からの目付である水木左門とともに豊家の味方を募る旅に出る。
まず向かったのは、紀州・九度山の真田幸村(信繁)。「もはや徳川の世は覆らぬ」と、まずは断られるが、謎の武士の急襲にも才蔵を遣わす配慮をみせる。次に京にいる長曽我部盛親、次に長曽我部の故地・土佐にいる牢人・毛利勝永、そして後藤又兵衛らを味方につける。又兵衛は真田幸村を「あれは、いつなりとも死ぬる漢の貌でござる」「現し世に執着を持たぬ、じつはそういう御仁がいちばん怖い」と言うのだった。
孫七郎が、次に会おうとするのは、福島正則。秀次の死の直前、最後の使者として対面したのが福島。味方につけるという以上に、父のことを聞きたいという渇仰からだ。福島正則は言う。「手腕は危ぶまれ、人望は薄かった」「石田三成ではなく、謀叛の濡れ衣は太閤殿下が」「関白殿下(秀次)は、生き残るため謀叛を決意されたのでござる」・・・・・・。秀頼が生まれたことで軋轢が生じ、秀吉は秀次の謀叛を待ち構え、あらかじめ通報の手筈まで整えていたというのだ。
秀吉の策、家康の策、淀の策・・・・・・。翻弄される家臣、牢人、女人、子供。「父とはなんだろう? なれるのか、おれは父に・・・・・・」。「大坂の陣」を前にして、驚くべき結末へ・・・・・・。
昭和20年生まれの私は、関川さんより4つ上。まさにどっぷり、昭和を生きてきた。短いエッセイの数々は、自分の記憶をくっきりと再生させてくれた。「昭和人間」の心を懐かしく膨らませてくれた。まさに味わい深い、人生を時空で引っ張り、今へ投射してくれる良書。人物にしても、事象についても的確で本質的で見事、それに注ぐまなざしが暖かい。南伸坊さんの絵がまた素晴らしい。写真では全く及ばない、奥行きのある昭和の世界に誘ってくれる。
「山田風太郎の長寿祝い(昭和45年の65歳以上は7%、今は30%超)」「黒澤明の『姿三四郎』は速度感に満ちて明るかった。『影武者』のとき黒澤は70歳、全く速度がない。老いたのである」「三島由紀夫は、鶴田浩二の『我慢』の芝居に共感する(我慢の美しさと辛抱)」――時代劇やヤクザ映画をよく観たものだ。
「昭和的汽車旅・電車旅(松本清張原作、野村芳太郎の「張込み」)」「『天国と地獄』の大胆な列車内撮影」「元美人革命家(重信房子)の半世紀(テルアビブ・リッダ空港乱射事件の奥平剛士は、私の大学同級生だった)」「最近愛読している昭和8年発行の教科書地図帳(ヒトラー首相、日本の国際連盟脱退、大英帝国は世界総人口の5分の1強、日本も現在の1.8倍の面積)」「クレージーキャッツの『ぜにのないやつ・・・・・・』『スーダラ節』」・・・・・・。まさに昭和。「70年代はがさつではあったが勢いがあって『意地悪』な年配者の存在を許さないほど多忙であった」と言う。
「『倍速』で見てもいいですか? 何を生意気な。小津安二郎にスピード感を求めてどうする(セリフとセリフの『間』こそ大切)」「黒澤明の第二作『一番美しく』と女子挺身隊」「無着成恭と『やまびこ学校』(戦後初期の貧しさと明るさ)」――確かに貧しかったが明るさがあった。「3丁目の夕日」でも「何もなかった」時代だったが、「何か」があった。忙しかったが、タイパ・コスパではない「ゆったりした時間」「間」があった。
「プロ野球」――。1950年誕生の大洋ホエールズ、三原マジックと秋山や桑田、金田、長嶋、王、村山、バッキー、引退後の村田や門田・・・・・・。「男は外で働いて家族を養う。その代わり家の中のことは一切しない」という昭和を引きずる男の人生には「引退後の悲しさ・悲劇」がある。
「本田靖春の山谷潜入」「昭和39年の東京オリンピックの閉会式」「第4次中東戦争とオイル・ショック。その昭和48年8月30日が三菱重工本社ビル爆破事件、その2日後に多摩川の堤防決壊で家が流されるテレビ中継」「渥美風天(清)の俳句」・・・・・・。
昭和100年の今年。戦争までの20年とその後80年・・・・・・。役人や企業でも、「昭和入省はもうほとんど、全くというほどいない」のが今だ。「昭和は遠くなりにけり」だが、この心身ともに「昭和」でつくられている。良いも悪いもない。「今」だ。あっ、これも「昭和」か?
