「信頼のセーフティネットは可能か」が副題。高度経済成長の緒についた1961年、「国民皆保険・皆年金」を他国に先駆けて築き上げた日本は、税財源を投入し保険料負担を軽減するなどの工夫を凝らして社会保障制度を構築、国民を包摂するセーフティネットを作り上げてきた。大衆福祉の公明党の戦いでもあった。
しかし今、人口減少・少子高齢社会の進行によって、現役世代1人が高齢者1人を支える「肩車社会」が迫り、非正規労働者の増大、一人暮らし(若者も高齢者も)の増加、実質賃金が上がらない、困窮や孤立が広がるなどの数々の要因により、若者を中心にして制度不信が高まっている。そこで、「減税と保険料引き下げ」が焦点となったり、「外国人が生活保護で不当に潤っている」「高齢者が過剰な給付を得ている」などの言説が増幅されている。デジタル・ポピュリズムの影響もある。これら時代の変化を正面から受け、「岐路に立つ戦後社会保障」の観点から、単に生活・生存のセーフティネットではなく、雇用や対人支援を含めた「広義のセーフティーネット」「信頼のセーフティネット」をどう構築するかを提示する。
日本のセーフティーネットは、①安定雇用と連携した社会保険、② ①が困難になった人を就労に戻すことを重視した対人支援サービス、③生活保護ーーの三層で構成されている。「雇用のセーフティネット」は解雇されにくい仕掛け(解雇のハードル、年功賃金、企業内福祉厚生)、「社会保険のセーフティネット」は皆保険・皆年金と多額の税財源投入、「生活保護のセーフティネット」はハードルが高い(捕捉率は20%から30%)(恥ずかしいと言うスティグマがある)----などの特徴を持つ。しかしそうしたなか、安定雇用が揺らぎ、非正規雇用、ひとり親などの「新しい生活困難層」が増大していった。長く続いたデフレの中で、企業は「雇用重視、低賃金」の姿勢を取り、社会保険料は逆進性が強いため、低所得層ほど重荷になる。日本は「中福祉・やや低負担」だが、低所得の働く世帯に限れば「低福祉・高負担」の状況になったのだ。現役世代、特に若い世代の制度不信が強くなる所以だ。
この10年余の「社会保障と税の一体改革」「子育て支援」「全世代型社会保障」は、その是正への取り組みだ。給付と負担のバランスを全世代で調整することが急務となっている。
加えてフィルターバブルやエコーチェンバー、デジタル・ポピュリズムの今日、対応が難しくなる。しかしだからこそ、しっかりしたセーフティネット再構成の筋道がどうしても必要となるのだ。
しかも、格差が広がっている。企業間、企業内、地域間の不均衡、資産、世代間の格差があり、なかでも「尊重の格差」「承認の格差」「孤独の広がり」が指摘されている。格差拡大のなかこれからの「広義のセーフティネット」をどう再構築するかの課題だ。
「三層のセーフティネット」――。①安定就労+社会保険②生活困窮者自立支援制度+求職者支援制度③生活保護----。②は③になる前に①にする仕組みだ。就職氷河期世代には特に大事になる。
子育て支援対策、世代型社会保障、異次元の少少子化対策、雇用の流動化と同一労働同一賃金、自立の就労支援、求職者支援制度、働き方改革・・・・・・。様々やってきているが、「セーフティネットの張り直し、改革がなぜうまくいかないのか。それは社会保障と雇用の改革がバラバラだ。連動しない改革群」「既存制度の凝集力、拘束力が強い」「包括的な戦略の欠落」だと指摘する。
そこでセーフティネットを蘇らせる「三位一体の社会保障改革」を提起する。それは、①雇用機会の拡充(エッセンシャルワークのアドバンスト化=先進化・ユニバーサル化等) ②所得保障(社会保険、給付付き税額控除、生活保護等) ③対人支援サービス(医療・介護・保育等の連携、地域共生社会の包括的支援体制等)----と言う。①の雇用機会の拡充は岸田政権の「三位一体の労働市場改革(リスキリング、営業実態に応じた職務給の導入、労働移動の円滑化)」の方向性だが、様々な困難は当然ある。特にエッセンシャルワークの先進化は最重要な課題である。「AIの実装、価値労働生産性の向上、専門性を高め、賃上げをする」ことと、「誰もが働けるように職場や業務のあり方を変えていくこと(ユニバーサル化)が極めて大事だ」と強調する。②の所得保障については、給付付き税額控除等を示す。③の対人支援サービスについては地域で相談できる「場」作りなど、地域共生社会づくりが大事となる。
社会が大きく構造変化するなか、いかに「広義のセーフティネット」を再建するか――。「起点としてのエッセンシャルワーク」「社会保険制度を現代化する」「承認機会を広げる」を重ねて提起している。今、「社会保障改革の岐路」に立っていることの自覚、この難題をトータルに把握し、再構築に取り組む肺活量が重要だと感じる。
著者自身が鬼平ベスト5に選んだという「山吹屋お勝」の他、「深川・千鳥橋」「乞食坊主」「女賊」「おしゃべり源八」「兇賊」「鈍牛」の全七篇がある。
「兇賊」――。中村吉右衛門の鬼平テレビドラマで、何度も見た。不思議と巡り会い、印象深い。「芋酒・加賀や」の亭主・九平(元一人働きの盗賊)を小林稔侍、そこに来る夜鷹のおもんを若村麻由美。3人がたまたま芋酒屋で一緒になり、平蔵は隔たりなく暖かくおもんに接する。店を出て平蔵は賊に襲われる。狙ったのは網切りの甚五郎(大杉漣)一味。親父の恨みを晴らそうと狙い続けていたのだ。平蔵とは知らず、興味を抱いて、後をつける九平。平蔵の役宅の潜門の前で瞬間。「おやじ。ご苦労」・・・・・・。九平はぞっとする。印象に残る名優ぞろい。原作自体、躍動している。
「山吹屋お勝」――。妻を亡くし、隠居の身であった平蔵の従兄・三沢仙右衛門が突如、「嫁をもらいたい」と言い出す。その女は、王子権現の近くにある料理茶屋「山吹屋」の新しく入った女中のお勝。王子権現社、その北にある王子稲荷、音無川、飛鳥山の桜・・・・・・。「あたりは武蔵の国の田園地帯の風趣も濃厚で・・・・・・当時の人々の遊山行楽の最たるもので、王子詣りは四季を通じて人の絶えたことがない・・・・・・」と描かれている。私の地元だ。平蔵はその女に会いに行くのだが・・・・・・。女は今も、「引きこみ」の役目をしていた・・・・・・。さてなんと、仙右衛門に言えばいいか・・・・・・。
他の短篇もそれぞれ味わい深い、いかにも「鬼平犯科帳」の名篇。
「国歌はどう生まれたのか」をそれぞれの国の成立、歴史の中から問い直す。根源的な問題だが、極めて重要かつ興味深い歴史が浮き彫りになる。面白い挑戦的な著作だ。
世界の国歌が「革命歌」「愛国歌」の士気を鼓舞するような歌が多いなか、「日本の国歌は、じつは世界でも稀有な歌なのである。世界で唯一、『我々』ではなく『あなた』の幸せを願う国歌」だと言う。オリンピックなどでもその違いは鮮明。勇壮ではなく荘重。誰しも実感しているところだ。
「アメリカ合衆国国歌『星条旗』と『アロハ・オエ』」――。作詞者はフランシス・スコット・キー(1779〜1843)。1814年9月、キーがボルチモアのマクヘンリー要塞沖の英国艦船上で作詞をしたとされている。独立したばかりのアメリカを、イギリスが権益を守ろうと艦船攻撃。マクヘンリー要塞にはためく星条旗を見てキーが詞を作ったとされる。曲はイギリスの「天国のアナクレオンへ」(イギリスの酒飲みクラブで歌われた曲)でキーが指定したとされる。敵国の曲であるのは「歴史の皮肉」ではある。この間の複雑な事情が本書で解明され興味深い。
特にこの1812年戦争において「インディアン連合」は、敵国イギリス側についた。「有力な法律家と軍部をインディアン掃討に当たらせることにした。その主要人物が、国歌『星条旗』を作り、奴隷制を擁護した法律家フランシス・スコット・キーだった」「『星条旗」の歌詞の中には、奴隷などの差別と排除のフレーズがある(それが合衆国国歌としての制定を送らせた)」と言う。そして南北戦争――。国歌を生んだボルチモアの市民は奴隷を必要としており、「マクヘンリー要塞守備隊は北軍支持、市民や市当局は南軍支持だった」「国歌の生まれた町が南北戦争の端緒のひとつとなった」と言う。
100年以上経った1931年、フーヴァー大統領が法的な「国歌」としてサインした。その後も、オリンピック国歌事件のように、黒人選手の国歌への抗議。そして、昨今のサンフランシスコのキーの銅像の破壊がある。最近も各地で、そうした銅像破壊がある。
もう一つ本書が指摘しているのがハワイだ。1894年、長年続いた「ハワイ王国」に代わって「ハワイ共和国」が独立宣言する。アメリカは「併合」に動くが、人口の半分を占める日系人やハワイ王朝、ハワイ住民の反米姿勢があり進まない。真珠湾攻撃の時に「ハワイは当時、州にさえなっていなかった」のだ。1895年、アメリカ軍によるハワイ・クーデターがあり、その後ハワイ併合が進められるなか反併合の訴えに訪米するリリウオカラニ女王支持をうたった歌が「アロハ・オエ」だと言う。ハワイにおける人々の心の中にしか存在しない国の歌である。
「中華人民共和国国歌と何日君再来」――。中華人民共和国国歌「義勇軍行進曲」の作曲者は聶耳(ニエアル、1912〜1935)だが、彼は日本の藤沢市の海岸で溺死する。作詞者は田漢(1898〜1968)だが彼は文革時代に投獄され獄死する。国歌の基本となったこの「義勇軍行進曲」は、1930年代、抗日映画の主題歌として生まれた「典型的な抗日戦用の大衆的プロパガンダ曲」と言う。「作詞者、作曲者とも日本で暮らし学んだ」「作詞者が文革で獄死する」もので、「中国国歌の誕生の一方で、労働者や兵士が聴き、歌ったのは『何日君再来』という曲だった」と言う。「義勇軍行進曲」が正式に国歌として解決されたのは文革後の1978年、田漢の名誉も回復される。何か沁み入る哀愁のある「何日君再来」は「『アロハ・オエ』や『オールド・ラング・ザイン』(蛍の光)などと共に、『厭戦歌』にあたるだろう」と言っている。人間というのはそういう両面を抱え込むものなのだろう。
「イギリスの『ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」と『蛍の光』」――。イギリスがEUからの離脱が決定した場所で歌われた曲が英国国歌ではなく「オールド・ラング・ ザイン」だったと言う。スコットランド民謡、ロバート・バーンズ作詞、日本では「蛍の光」と言われる曲だ。英国国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」は、法的にイギリスの国歌ではない。それは「隠れた歌詞」があって「激流の如き スコットランドの反乱を打ち破らん 神よ 我らが女王を護りたまえ!」とあるからだと言う。そこで出てくるのがスコットランドで歌われる「オールド・ラング・ザイン」というわけだ。
国歌と反国歌――国家と民族と人間、国歌と民衆の心の歌。人間はその間で生きてきたのだろう。歴史の根源を考えさせる書だ。
シュレディンガーが、量子力学におけるコペンハーゲン解釈に投げかけた「シュレディンガーの猫」――。「箱を開けて観測した時、波動関数が収束して、猫の生死の状態が定まる」・・・・・・。そんな「誰かが密室の中を観測した時、2人の生死は収束し確定する」というまさしく「シュレディンガーの密室」とも言うべき、恐るべき事件が起きてしまった。
長野県の山中深くにある「蓮田生物学研究所」。iPS細胞を軸にした再生医療の研究所で、所長は菅家或人、資金提供して造らせたのは大門バイオメディカル社長の大門公一。
「お兄ちゃんに、大事な話がある」――菅家の養女となった妹の美羽からたった一行のメールを受け取って、フリーライターの朝倉匠は研究所に向かった。そこにいたのは菅家所長、志木沢副所長、研究員の名波、天野、ジュリエット・ピコ、医師の二場、そこに加わった研究者の羽々崎の8人。さらに大門社長、秘書の津雲、大門の親戚の霧谷円香の3人。この日、総勢11人がいた。そして円香は朝倉匠に「わたしの生まれた秘密を、調べてくれませんか」と突然言うのだった。
激しい豪雨となり、その夜突然、大規模な土石流が研究所を襲う。孤立した研究所、埋まった1階の実験室Eには、美羽と円香が取り残される。猛毒の硫化水素が1階のその実験室の周りには充満、部屋に突入すれば、入り口から硫化水素が入って2人は死ぬ。「中の2人が生きているなら――ドアを開けた瞬間、2人ともガスで死ぬ。開けてはならない。しかし2人が死んでいるなら、一刻も早く、遺体の臓器を回収しなければならない」。円香は、腎臓が悪く限界に達している大門のドナーで、死亡した後48時間以内の移植が必要だったのだ。突入か様子見か――意見は真っ二つ。まさに「シュレディンガーの密室」。山中は道路寸断、救援の手は望めない。
緊迫したなか、なんと所長の菅家が殺される。そして美羽の婚約者名波(美羽はそのことをお兄ちゃんに知らせたかったのか?) も突き落とされて死亡する・・・・・・。「誰が突入し、誰を救うのか(ガスマスクは1つしかなかった)」「円香の出生の秘密とは」「いかなる秘密研究が、ここで行われていたのか」「殺人事件はなぜ起きたのか」・・・・・・。緊迫した凄まじい展開と驚くべき結末、どんでん返しへ・・・・・・。
「読者が本書の『扉』を開いた時、あるいはこの『あとがき』の扉を開いた時、物語は観測され、結末が収束し、確定する。結局のところあらゆる物語は、本質的にシュレディンガーの猫のような構造を合わせ持っているのかもしれない」――。人生とは選択の連続、決断の連続だ。「誰もが無数の選択の上に立ち生きている。ひとつ選び取るたび、世界は変わる。正解などわからない。だが、それでも決断せねばならない」「観測者はいつだって自分だ」と結んでいる。量子力学の「シュレディンガーの猫」は、「パラレルワールド」「量子もつれ」へと、宇宙と生命の本質に突き進んでいる。人生論に還元するのは、次元を異にするが、人生は決断の連続であることは間違いない。
京大相撲部出身で、あの「月刊相撲」の編集に携わり相撲に関わり続けた十枝慶二さんの著作。ただの「相撲好き」のレベルをはるかに超えた人生と言える。2019年出版の本。白鵬の「荒々しい相撲」が問題となり、貴乃花問題が世上を騒がせ、稀勢の里が横綱になりながら怪我をし引退していく頃の出版だが、今も生々しく、かつ「相撲」愛が溢れている。
相撲のルーツは、「古事記の出雲の国譲り」「日本書紀の野見宿禰と當麻蹶速の対決」。鎌倉時代の「曾我物語」の「珍手『河津掛け』のルーツは河津祐泰か蛙か」も面白い。「弓取式の始まりは、織田信長の上覧相撲」「勧進相撲が鎌倉時代から行われ、江戸時代も(一旦中止されたが深川の富岡八幡宮で再開されたのが1684年)」・・・・・・。
「横綱のルーツは寛政元年(1789)の谷風と小野川」「横綱は地位ではなく授与。イベントの時の称号。何故か初代のはずの谷風が第4代、小野川が第5代」「横綱が番付に載ったのはすねた横綱(第16代西ノ海)をなだめるため(明治21年)」「大関は空位がない(横綱大関)」「1場所全部引き分けの横綱がいた(18代大砲)」・・・・・・。
「戦後の大相撲復興のために生まれた『三賞』、優勝決定戦も昭和22年から」「四本柱がなくなった(昭和27年)」・・・・・・。「ビデオ判定は、昭和44年春場所の大鵬ー戸田戦があったので(実は大鵬が勝っていた)」――。観ていたので、記憶は鮮明だ。鏡里、東富士、吉葉山、栃若時代、柏鵬時代・・・・・・。今に至る間の相撲界の出来事はあまりにも鮮明だ。私の相撲との付き合いは、昭和20年代後半から、そして京大相撲部時代、卒業した後、そして浅草橋に住んでいた時代、多くの関取、相撲部屋とのつながりの国会議員時代・・・・・・。
激しい稽古、怪我は絶えない。死に物狂いで上を目指す若者たち。国技館での美しい相撲の裏にある著者の言う「絶対に逃げない(稀勢の里の魅力)」、「手を抜かない」「真剣勝負」があっての表の相撲人気だと思う。
思いのこもった著作だ。
