「祖父さまが草原をわがものにしていったように、俺は海をわがものにしたい」「俺は水軍を作るぞ、竜夏以、まず造船所をな。その方面の人間を選ぶ。時がかかるだろうが、何十艘もの船隊を、海に並べてみたい。海のむこうにあるものも、見てみたい」とクビライが語るところで、この第三巻が終わる。蒙古襲来への布陣が着々と敷かれようとしていた。一方、北条時頼は執権を辞し、最明寺入道と呼ばれる身になったが、「国を守る」意志は全く変わらない。特に次を託す時宗を厳しく訓練する。さらに大モンゴル国、高麗、南宋の動きに目を凝らしつつ、水軍を作り上げ、日本各地の水軍等と連携を取りまとめ上げようとする。
皇帝モンケが戦場で急死、クビライは帝位を主張する弟のアリクブケと争い、最初の戦いで一方的勝利を果たし帝位を決定的なものにする。アリクブケは戦いをあきらめないが、クビライは戦いのたびにこれを殲滅。中原に残る漢人の軍閥をも攻略、南宋に再び攻め入ろうとする。「南船北馬」の通り、南宋全土には、網の目のように大小の水路がある。陸の大軍とともに、クビライは水軍による海からの攻撃の準備を強力に進める。南宋は丞相・買似道、将軍・孟宣らが堅牢な布陣を敷こうとする。激突の時が近づいていく。
最明寺入道・時頼は、国を守る使命感をさらに奮い立たせる。幼い時宗を長い旅に出して、自らも様々な人間に会う。夏島では造船が進み、妻の葛西が独自に開いた交易の道も藤乃、今福船隊の働きで太くなってきている。時宗は密かに鎌倉を出て、津軽の十三湊、そしてウラジオ(速頻路)へ向かう。安達泰盛、梶原水軍の野入左近、松浦党の佐志タケル、商人として働く仙多が加わる。
高麗は大モンゴル国による熾烈な圧力にさらされていた。高麗の南岸の島々と珍島と巨済島・・・・・・。風の王・波瀬祐佳を筆頭に一族は懸命に守り抜こうと結束して戦い勝つ。
それぞれが自分の存在をかけて戦い、やがて来る決戦へ備えていくのだった。
塩田さんの初期の3つの短編と今年の小編。切れとユーモア溢れるとても良い話。
「小さい上司」――。いい加減でテキトーでケチで飲み会でも"途中ドロン"の係長・小山田義男。新入生の吉村啓太は、仕事は適当に振られるし、笑うしかない呆れることばかり。しかし啓太は小山田が両親の看病をしていたことを知る。職場の人はそれもわかっていて接していたのだ。誰とも何でも話し合えた学生時代だが、「社会人の人間関係はまるで違う。極端に言えば、互いに仮面をつけたまま、付き合いを重ねていくようなものだ。今のようにふと画面がずれたとき、見たこともない素顔を目にすることになる」「彼は愛すべき人。そう思うと腹も立たない。啓太は少し、大人になったように自覚した」・・・・・・。しかし、この上司、「小さいなぁ」・・・・・・。なんとも面白い。
「鈍い火」――。小学生が意識不明の重傷を負った交通事故裁判の担当になった新聞記者の瀬戸山育郎。執行猶予3年、加害者の態度、事故が起こるような場所じゃない一方通行の道路などに違和感を持った育郎は独自で調べ始める。驚くべき真相と結末が----。鮮やかだ。「人生の天秤は必ず未来へ傾く」・・・・・・。
「仮縫い」――。高校時代からつるんできた誠、浩一、秀樹、修、そしてリンネンこと林稔。「今年48やぞ、俺ら」・・・・・・。そして、「リンネンが結婚した」の報。なんと一番冴えなかったリンネンが5人全員の憧れの青木由美子(テーラー青木)と結婚することに・・・・・・。リンネンは定期的に仕立てを頼み、ついに10年前、仕立て屋になっていた。「想いを実らせた親友を見て、また成長できると思うと、足取りが軽かった。自分自身にももう少し誠実に向き合ってみよう。・・・・・・でも私は未だ、仮縫いの分際なのだ」・・・・・・。
「起点」――。孫が大学の課題のために訪ねてきて、「おじいちゃんがちょうど50年前に出版した『罪の声』って作品について聞かせて」と言う。つまり2065年頃の話だ。人間が"機械仕掛け"になり、義務教育修了後に脳内チップを装着することが基本となっているという時代だ。祖父は時代に取り残され、なんと紙の本を読んでおり、「もの書きを目指すんやったら、常に人の胸の内に答えを求めろ」「取材対象が秘めてること、悔やんでること、信じてること――そういった奥深い領域に触れられるか否かが勝負や」と言うのだった。
速斗と一樹はサッカーのコーチ・巽に追われ、廃校となった小学校に逃げ込む。そこで光汰朗を発見、駆けつけた透真らとともに怪我をしている光汰朗を救出する。巽は児童虐待で逮捕される。安堵と喜びに包まれるが、その後光汰朗は、「オレをつれていったの、逮捕された、あの人じゃない」「本間先生」「本間先生から、あの日、お前の家は人殺しだって、言われた」と言う。光汰朗の通う小学校で定年後に図工の専任講師を務めていた本間尊が監禁したという驚くべき発言だ。本間は逮捕される。本間は轢き逃げされた田村真也くんの担任で、「25年前、誘拐事件の直前に、新沼家の紗英さんか父親の忠治さん、どちらかが小学生の田村晋也くんを轢き逃げした」との噂を信じて新沼家を恨み、孫を攫ったという。
透真はL新聞に、「忘れざる夏」(噂はなぜ広がり、止められなかったのか)のコラムを書き反響を得る。「心配し、気遣う気持ちとともに、噂が広がる一因となるのはまぎれもなく私たちの興味と好奇心だ。悪意だという感覚すらなく、わかりやすい真実を求めて、地元だからと事件に前のめりになる」・・・・・・。
その後、事件は驚くべき展開を見せる。服役中の久我受刑者が長男、次男等に手紙を送り、自分が田村真也くんを車ではね、死亡後に遺体を遺棄したというのだ。これをどう受け取ったらいいのか。時効となり、関係者は静かに生きようとしてる者もあり・・・・・・。その重い結末は・・・・・・。
本書の圧巻はミステリのどんでん返しなどの展開ではない。被害者家族、加害者の長男・次男、行方不明となる子供の担任・学校関係者、報道する側の倫理、そして小学生自身の純粋な心の優しさ美しさ----。その葛藤、苦悩、愛憎のアンビバレンツが実に深く抉り出される。愛娘を失った新沼忠治の抑制された丈夫の心、親をこれほどまでにと思うほど気遣う小学生の光汰朗たち、逮捕された教師・ 本間の真也への思い・・・・・・。ミステリの筋立てとは別次元の辻村深月の世界が押し寄せ、人間の思いやりの深さと素晴らしさを感動のなか噛みしめる。「失ったものと、得たもの。覚悟して行動した先に、傷ついても、それでも得られた絆がある。言葉がある」――。それが最後の一行、「小蒔山を秋の太陽が照らしている。眩い光がプリズムを作り、光の粒が雪のように自分たちに降り注ぐのを――その時、透真は確かに見た」とある。噂の「ファイア・ドーム」が、光の粒の「スノー・ドーム」と転化する。
勿論、本書のテーマが、噂の「ファイア・ドーム」の恐ろしさにあることは間違いない。「負の言葉一つの破壊力に、どれだけ人の心が傷つけられるか」「噂は軽薄な娯楽だ。一時、興じて、あとは忘れる。消費して捨てる。その時にどれだけ熱くなったとしても、意図的に責任から逃れるよりも、ある意味では罪深く、だからこそ、恐ろしい」「狭い地域の中で、噂になったら生きていけないから」・・・・・・。
「ファイア・ドーム」の辛酸を舐め続けた忠治は久我の息子たちに言う。「私たちみんなで、一緒に背負おう」・・・・・・。胸に迫り、涙腺を揺さぶる小説だ。噂の刃を乗り越えるのは、苦難を共有する人間の心の深いつながりにある。
1994年7月、北陸地方のL県にある蒔戸市で22歳の百貨店受付けの女性社員・新沼紗英が誘拐・殺害される。その犯人・ 久我隆太が逮捕されるが、街には、大人から子供に至るまで変な噂が広がる。被害者の日ごろからの素行が悪いとか、市会議員をしていた父親・新沼忠治は娘の素行の悪さに耐えかねて犯人の久我に娘の殺害を依頼したとか、そもそも父親と血がつながっていないとか」・・・・・・。「あの父親が怪しい。真相は別にある」とひどい話がまき散らされた。「オレたちの住むこの土地は、傷ついた人をさらに傷つけ、消費してしまう場所なのか」「噂が広まるその過程には明確な『悪意』と呼べるものがない。だからこそ質が悪い」」・・・・・・。しかもその同時期に、小学4年生の田村真也くんが行方不明になり、その後に交通事故で遺体が見つかる。犯人不明の事件だ。これにも「子どもを轢いたのは誘拐された新沼紗英かその父親」という噂まで立った。
25年経った今、佐村美冬は、4年2組の児童を受け持つ若き教師。ある日、生徒の戌井光汰朗が行方不明になり大騒ぎとなる。一晩、ニ晩、三晩」・・・・・・。6時半ごろ最後に会ったのが美冬であった。鍼灸へ行く途中だったが、事実無根、エステに行ったと週刊誌にも書かれ、追い詰められる。「教師失格」」・・・・・・。さらに行方不明になった光汰朗はデパート受付嬢誘拐殺人事件の父親・新沼忠治の孫。「昔誘拐事件のあったあの家。『呪われた一族』」「どうせ親が殺したんだろう」」・・・・・・。風評にさらされる。まさにスノードームならぬ"ファイアドーム"。
美冬、その恋人でL新聞記者の桜木透真、その記者仲間、光汰朗の家族、速斗らサッカー仲間の小学生たちが懸命に捜索に入る」・・・・・・。
「免責と問責にゆれた天皇」が副題。戦後81年、皇室典範改正が焦点となり、「象徴天皇制とは何か」の深い論議が望まれた。「敗戦直後、人々は昭和天皇の戦争責任をどう論じたか」「免責と問責にゆれた天皇の思い」について文献を分析、新たな史料「昭和天皇拝謁記」(初代宮内庁長官・田島道治)も加えて明らかにする。
敗戦から講和独立までの7年間・・・・・・傷あと癒えぬ人々が真摯かつ切実に問いかけた昭和天皇の責任論・退位論。その論議が高まったのを3つの時期に分ける。第一は1945年〜1947年。日本国憲法が制定され、天皇のあり方も「象徴天皇」となり、昭和天皇の戦争責任・退位が問われた時期。第二は、東京裁判結審に伴って訴追を免れた昭和天皇の戦争責任と退位が再び論じられた1948年〜1949年の時期。第三は占領が終わり講和独立が近づくなかで退位論が浮上、皇太子・明仁殿下が成年を迎えることも加わった1950年〜1952年の3つの時期だ。
第一期・・・・・・。ルース・ベネディクトの日本研究(天皇と天皇制を存置することで、日本国民は言うことを聞き、占領政策もより円滑に進められる)、矢部貞治の退位論(個人と制度を切り離す、自発的退位論)、南原繁の自発的退位論(道徳的・精神的責任を取る)、近衛文麿の昭和天皇落飾計画と昭和天皇の一撃講和論、高松宮の不満と退位論(皇祖高宗に申し訳が立たない)・・・・・・。昭和天皇は、「退位でもして納める訳にはいかないだらうか」と言うが、"連合国が退位だけで納得するかはわからず、ましてやこちらから退位を言い出したならば、天皇制の存続にも波及する恐れがある"との声を受け、天皇制を守り責任を痛感しているが故に退位を思いとどまることになる。責任を取るからこその在位の考えである。
東京裁判の結審となる第二期・・・・・・。マッカーサーたちは、冷戦に突入する今、昭和天皇の退位は避けるべき事態だとする。一方、南原繁、大山郁夫、横田喜三郎、石田秀人(尾崎行雄の秘書)を始め退位論がそれぞれの論調から続出。ただ1948年の読売新聞調査では、「天皇制についてどう思うか」では「あった方が良い」が90.3%、「退位についてどう思うか」では「在位された方が良い」が68.5%、「皇太子に譲る」が18.4%だったと言う。
講和独立の第3期・・・・・・。新生日本の出発、明仁皇太子への期待から再び退位論が浮上。渋沢秀雄の退位論(社会生活の鉄則)、重臣・木戸幸一の退位論(唯一ニシテ、最後の機会)、中曽根康弘の退位論(新生日本にふさわしい天皇)。待ったをかけたのは吉田茂、それを批判したのは、大宅壮一などの退位論。「宮中に燻る退位論」も紹介される。
「天皇には、あくまでも自分は一貫して平和論者であり、開戦は自分の意思とは異なるが、輔弼者による一致した決定であるから仕方なく裁可したのだとの思いがあった」「敗戦という未曾有の危機をもたらした自身には道徳的な責任がある。だからこそ、在位し続けることで責任をとっているのだ、というのが天皇の意識だった」「何ら責任を感じていないから天皇の位にとどまっているわけではない。むしろ何らかの責任を感じているからこそ退位せずに天皇であり続けている。そのうえ開戦に対して疑義を持っていたという自己意識をも有していた。それを世間にわかってもらえていないもどかしさが、胸の内に存在していた」と描いている。
そして講和成立の機会における「おことば」を巡るやりとりが紹介される。
