90歳を迎える天才画家の「運命まかせ」の生き方。肉体は衰えても心は自由自在、創作に打ち込む姿は驚嘆するばかり。とにかく面白すぎる。「老いの肯定本」とは全く次元を異にする。
難聴で文字は霞み慢性鼻炎で喘息持ち、とにかく五感全滅。商売道具の右手は、完全に腱鞘炎。「残されたのは第六感でこれだけが頼り。それはそれで、老齢の自然体だと認識すれば、また新たな世界が開け、未知の体験が可能になって、『面白い!』と思えばいいんじゃないでしょうか」と言っている。友人として出てくるのが三島由紀夫とかオノ・ヨーコ、高倉健など・・・・・・。「多くの人が、悩み、苦しみ、悲しみ、怒りなどの感情からなかなか自由になれないのは、『遊び』を知らないからではないでしょうか。・・・・・・ここに行動そのものが遊びみたいな人がいます。三島由紀夫さんです。三島さんと共有した時間の全てが僕には遊びに見えていました」「マッチョ的肉体の創造も、芸術行為でもありますが、芸術こそ最高の遊びです」----。とにかく桁はずれで面白すぎる。「良い意味でのいい加減さ、何でも遊んでしまう生き方がそのまま芸術的です。芸術には目的はありません。また結果も考えません。やっていること自体が目的で、他に大義名分などありません」「人間には潜在的に幼児性があります。芸術の核になるのは幼児性。散乱のアトリエは創造のルツボ」・・・・・・。
「150号のキャンバスはアスリートになった気分」―--「最近になって絵が大きくなってきた。文学は頭脳的行為だが、絵画は全くその反対の肉体的行為。感性と直感、霊感によって自我を飛び越えた普遍的領域に魂を飛翔させる宇宙的理念へのアプローチを試みようとするところがある」「死んで当然!と思って安心する僕のクセ。絵は知性も理性も関係ない。そうしたものを追放することによって、初めて創作の極致に達する。感性と肉体の同一化、つまり魂と霊性の一致なのです。そのためには常に頭を空っぽにしておく必要がある」・・・・・・。入院して死なないということがわかると、急に想像意欲が湧いてきて、アトリアから画材道具を運ばせ、病室をアトリエに模様替えてしまう。そんな人はこの世で横尾さんしかいないだろう。
若きグラフィックデザイナーであった横尾さん。ニューヨークで開催中のピカソ展を見て、「落雷のような衝撃に撃たれて、デザインは終わった! 次は絵画だ」と"啓示"、また「僕の下宿屋に突然、彼女がタクシーでやってきて・・・・・・急遽、この日から、彼女との同棲生活が始まった」り、高校3年の時に中退すると面白いだろうなぁと胸がワクワクしたり、「長男と長女の2人を高校在学中に、中退させてしまった(学校がそんなに好きでないようなので、学校から解放してやれば、どんなに喜ぶだろうと考えた)」など、ハチャメチャだが、みんな本当の話。自由自在で面白すぎる。
輪廻転生、人間は肉体的存在であると同時に霊的存在であるという哲学に貫かれている。「現世の寿命以上に死後の世界は長いはず」――魂的存在である自分は気が遠くなるほどの長い旅路を延々と生きてきている。「人間に与えられたすべての苦楽を全うする。そのための時間が気が遠くなるほど我々には与えられている。・・・・・・だったら、この気の遠くなる時間を楽しく遊んで過ごすことで、気がついたら輪廻のサイクルから離脱してしまっていたということもあり得るのではないでしょうか・・・・・・以上は、僕の死後に対する妄想でありました」と言ってのける。「人間は肉体的、精神的存在であると同時に霊魂的存在でもあり、この霊魂こそが人間の本体というわけです」「肉体の消滅が一巻の終わりと決めつけて嘆き悲しみながら生を終えるのですが、これからが人生の本番。生とは、死の旅に出るための旅仕度。100年近くかけて死ぬための旅の準備をするのです」と言う。そして「老齢で死を目前にするのは思ったよりずっと良い。89歳まで生きてくると、不思議と達成感を求めるというような願望というか欲望は、若い頃に比べると、うんと大きくなってきています」「霊性は知識人から始まらないで、無知愚鈍になるものの魂から(鈴木大拙)、日常生活での礼節なくして霊性覚醒しない(三島由紀夫)」----。「諦めによって、知らず知らず人生を切り拓いてきた僕」と、目の前のチャンスに従っていたら、今の自分がないと「諦め」の大切さを言うのだ。やっぱり次元が違う、パラレルワールドの世界から、この世の人生を見ているようだ。
「AI一色になったとき、本当のリアリティーは」――「Aiが描いたレンブラントは、あくまで物質的表層部分で、レンブラントの感情や魂までは描けていない。唯物論そっくり絵画だ。我々は、絵を見る時、目で見ているのではなく、その絵の持つ波動を感じ取っているのです」・・・・・・。「ボーッとすることから始まる新しい老齢時代(僕はボーッとする無為な行為が、結構快感というか、気分が良い)」・・・・・・。「この何もしない無為な時間こそ僕にとって有為な時間。ボヤーッこそが最も創造的になれる豊かな時間なのです。頭を空っぽにすることで、宇宙とつながるのです。頭にギシギシに知識を詰め込んでしまうと、その知識から自由になれません」・・・・・・。
受動的に行動する、「運命任せ」できたという「五感全滅、でも死ぬまで描き続ける。描くのを止めたらバタンQ」「『人生に全面降伏』で『なるようになる』」と言う人がここにいる。
「三里塚闘争から『第2の開港』まで」が副題。成田空港は今、「第2の開港プロジェクト」の計画が進んでいる。2029年3月までの供用開始を目標に、3本目となるC滑走路(3500メートル)を新設、合わせて既存のB滑走路(2500メートル)を1000メートル延伸させて、年間発着能力を現在の34万回から50万回に引き上げる計画だ。これで年間4000万人の旅客数が7500万人に、貨物の取り扱い量は200万トンから300万トンに、空港従業員は4万人から7万人に増える。
しかし、火炎瓶が投下される激しい反対闘争、第二次代執行の空港反対派と警察官の衝突(71年9月の東峰十字路事件、警察官3人死亡)、機動隊との激しい衝突、管制塔占拠(1978年、排水溝から侵入)、そして1978年、滑走路1本だけで開港となった。
そして、B滑走路が2002年に供用となるが、これがいかに大変であったか。用地買収の苦労、「強制終了せず滑走路を建設せよ」の至上命令と厳しい現実や爆弾事件、新たなウルトラCの秘策(北側に800メートルずらし、2180メートルでスタート)----。関わった官僚、市町村首長、公団、賛成に回った反対派、地域住民など関係者の証言が描かれるが、いかに大変な合意形成の決断であったかが描かれる。元運輸事務次官・黒野匡彦、元衆院議員・林幹雄、現国土交通事務次官・水嶋智、元芝山町長・相川勝重、横芝光町長・佐藤晴彦----。本書に出てくる証言者の苦痛の決断の思いは、いかなる文字を持ってしても表し切れない、そんなもどかしさが紙面から溢れ出てくる。だが、推進する者、反対する者、反対から賛成へと、苦渋の決断をする者、そのいずれにも「成田」への自分を乗り越えた愛がにじみ出ている。
「成田」は、むき出しの人間の思いの上に作られ、そして今、「未来」に向けて飛翔しようとしている。
蝦夷を切り拓いた「飛騨屋」初代・武川久兵衛、見事な湊を造り上げたニ代・久蔵。この下巻は久蔵の急逝により跡を継いだ三代目の亀之助、四代目・格之助の話。亀之助はわずか6歳だった。後見人として所左衛門の息子・富久が前面に立つ。本店がある飛騨湯之島で長じた亀之助はかつて足を痛めたせいで、杣たちと山を歩くことはできない身だったが、一日も早く蝦夷へ行こうとする。そして蝦夷の地に踏み込むが、次から次に障害が押し寄せる。
その根源となるのは、松前藩の無理難題。飛騨屋を顎で使うばかりか、莫大な運上金を取り上げ、さらに事あるごとに数千両単位の貸金を積み上げる。自然を愛し優しい夷仁(アイヌ)を弾圧し続ける松前藩。加えて「飛騨屋」大畑店の主・嘉右衛門は侍と結託、役人と飲み食いの接待三昧。多大な借金を作るばかりか、亀之助を追い落とそうとする。「嘉右衛門が松前藩に伐木をお願い出たんじゃ。----倍安(亀之助)は、ようやく今になって嘉右衛門のしたことが見えてきた。嘉右衛門は松前藩の蠣崎や湊と遊興し、金子を渡しているうちに、すっかり一味となったのだ」・・・・・・。あまりに、ひどい男と松前藩が描かれ、こちらが腹が煮えくり返る思いになる。「なぁ与惣さ。蝦夷は、人を騙してどうとも思わぬ侍どもがへばりついとる。子らの生い立つ先を考えればの、貧しゅうても間違うたことはしとらんと言うて育てられる飛騨へ帰りたいのう」・・・・・・。
安永2年(1773)、飛騨屋は、絵鞆、厚岸、霧多布、国後を20年5400両の運上金で請負い、漁撈をすることになる。飛騨屋も材木に代わるものとして塩鮭を思いつく。中心となる場所は厚岸。厚岸夷仁たちが飛騨屋で働くようになる。しかし松前藩の策謀は続く。
「飛騨屋は天領の鷹じゃ。鷹はここと見定めた時は迷わず飛ぶ」――倍安は藩を訴え公訴する。これに勝ち、倍安は飛騨屋を格之助に譲る。松前藩、侍たちの騙しに次ぐ騙しは続いた。天明年間の田沼意次による蝦夷の御試交易も失脚により沙汰止みとなる。
寛政元年(1789)に起きた国後目梨の乱。夷仁の蜂起。松前藩は、これを夷仁を酷く扱ったと飛騨屋のせいにした。歴史に名高いアイヌによる最大・ 最後の大乱だ。「もういい加減、我慢がならん」----蝦夷を諦め、幕府に訴える決断をする。裁決で丹後守は、「国後目梨の乱に飛騨屋の咎はない」とはっきり言う。飛騨屋は蝦夷の山を諦め、拓いた海さえも取られた。藩への貸金7万両以上。90年にわたった飛騨屋の蝦夷での日々は終わる。莫大な借財も残った。
100年かかって、ここまで来た飛騨屋は湯之島へ帰る。そこで30年、「飛騨屋が矢面に立って山を仕切ったことで、飛騨川の九郷は材木から、年3000両もの金子を得られる地になった。飛騨のすべての村々が杣として立っていける働き口を飛騨屋は作り上げたのだ」・・・・・・。
「飛騨屋は天領の鷹じゃ」「飛騨の杣は気長に慎重に」――壮大な志高き人々の生き様が北海道を切り拓いたのだ。
「俺は蝦夷ヘ行く」――飛騨湯之島村の腕利きの杣(そま)武川久兵衛は蝦夷ヘ渡り、「飛騨屋」を興す。北の大地を切り拓いた「飛騨屋」四代、百年の物語。
飛騨国下呂で豊かな木に囲まれ、見事な檜を伐り出し管流しの技を身につけていた若き武川久兵衛。「木を伐るのも森の獣も獲るのも、杣の稼ぎは全て山からの授かりものだ。月に一度は皆で仕事を休んで、山神様を丁寧に祀り、山が荒れぬように決して欲をかかない。木も獣も、暮らしに欠かせぬ分だけを獲って後は守るというのが杣だ」「杣は伐っただけの苗を植えるから、山から木がなくなることはない」・・・・・・。
しかし、将軍綱吉の時代――。突如として、飛騨の山は幕府に召し上げられ、天領とされてしまう。自由に木を伐ることができなくなり、一気に貧しくなった湯之島。「このまま湯之島におっても飢えるばっかりじゃ。俺は江戸で材木を商う」と久兵衛は江戸に向かう。
深川の材木商で働き、その才覚を認められた久兵衛。下北の南部藩大畑へ行って、造材を請け負ってこいと命じられる。元禄12年(1699)、久兵衛と、弟の藤助は大畑へ向かい信頼を得る。さらに久兵衛は、広大な蝦夷を目指し、材木屋の「飛騨屋」を興す。そこは松前藩が仕切っていた。屋号があっても、近江商人たちに使われて杣をする下請けの材木屋で、「西蝦夷の隅を歩くだけ」の存在だったが、久兵衛たちは、「これまで他国の商人が足を踏み入れなかった東蝦夷を目指す」のだった。藩も手をつかねて放り出している地であり、その請負を目指したのだ。故郷から仲間を呼び寄せ、厳しい自然に立ち向かう久兵衛たち。自然と共に生きる夷仁(アイヌ)のトイタケたちの信を得て、広大な森を伐り拓いていく・・・・・・。
久兵衛、妻となったさわ、弟・藤助とその妻・美津、京を任せる弟・伊右衛門と、その息子で久兵衛の養子となった武川久蔵、その妻・志保・・・・・・。互いに支え合い信を寄せる一族の結束は苦難を経るごとに強固になっていく。愛する幼な子の死、厳しい風雪、突如として襲う地震・津波・・・・・・。
全てを乗り越え、飛騨屋は大きくなり、山々の地図を作り、湊を拓き、手船を手配した。そして久兵衛が死に、2代目久蔵がさらに発展させ倍にするが、その久蔵も死を迎える。
何があっても「気長に、慎重に」の飛騨の杣の精神、自然と人を大事にする精神、たじろがずどっしり前向きの強い心、家族愛と郷土愛・・・・・・。人間としての一筋の道が崇高なほど迫ってくる小説上巻。
本書にもあるが、長く親交をいただいた毎日新聞政治部のジャーナリスト岩見隆夫さんがしみじみ言ったことがある。「政治部長をやりたかったなぁ」・・・・・・。その毎日新聞の政治部長に女性で初めてなった佐藤千矢子さんが、最も「オッサン村」である永田町のリアル、「オッサンの壁」を描く。確かに男優位の永田町、それを「夜討ち朝駆け」で取材する政治部記者----。女性の政治記者にとって凄まじい過酷な世界であることは間違いない。
男性中心社会、男尊女卑社会、「男は外で仕事、女は家庭を守る」・・・・・・。この30~40年で、これが大きく変わってきたし、世代ごとにその感覚は大きく異なっている。著者は、男女雇用機会均等法の制定から2年後、1987年に新聞記者になった。まさに永田町と政治メディアのオッサン村のど真ん中を突っ切ってきたような人生だから、その話は生々しい。
「立ちはだかるオッサン」「ハラスメントの現場」「『女性初』が嫌だった」「女性議員の壁」「壁を壊すには」・・・・・・。一つ一つの事例は驚くものもあり、「あっただろうなぁ」と思うものもある。政治家は、土日もなく朝も晩もなく動くものだから、政治記者は振り回され、過酷な日々を余儀なくされる。政治家の方は自分で予定を決められるが、取材する方は予定が立たない。しかも競争の中で、限られた時間の中での戦いだ。男性優位、オッサンの社会の風圧のなかでの戦いが、どんなに大変か伝わってくる。
「この本を女性はもちろんだが、『オッサン』に読んでもらいたいと思っている。女性の生きづらさは、男性の問題でもある。女性が生きづらい社会は、男性だって肩肘張っているが、本当は生きづらい社会なのではないか」「オッサンは自分たちが履いてきた下駄を見つめ直し、女性をはじめ社会の弱い立場に置かれている人たちの足元を見てほしい」「『オッサンの壁』は超えるものではない。壊すものだ」と言っている。全く同感。
