稀代の軍略家として崇められる楠木正成の子・正行を描く900ページにも及ぶ長編小説。今村翔吾らしく、埋もれがちの武将・正行の秘めた志、熱情、卓越した軍才を権謀渦巻く南北朝の戦いのなか感動的に描く。実に正行率いる楠木党こそ、挽回をかける南朝の頼みの柱、鍵であったのだが、その心は・・・・・・。
あの父との別れの桜井の場面――。父は言う。「俺はきっと英傑にされてしまう。英傑、英雄、そして忠臣だと祀り上げられるだろう」「その時、お主は英傑の子として、忠臣の子として、世の中から父の如き男になってほしいとの期待を一身に集めることになる。・・・・・・帝の御為、朝廷に尽くし、足利家の野望を食い止めろと----」「その期待に添う必要はない。お主はお主の道をゆけばよいのだ。己の思うままに生きればよい。たとえ不忠と罵られようとも、臆病と嗤われようとも」・・・・・・。そして楠木正成は多聞丸(正行)を河内に向けて送り出すと、七百騎を率いて、新田義貞がいる兵庫を目指したのだ。
多聞丸は定めた心を秘して、誰にも言わないできた。「後醍醐帝を助けるために、立ち上がった父。その子である後村上帝を、同じく子である多聞丸が助けるために立ち上がる。これはこの上ない美談として、日ノ本を駆け巡る」ことになろうが、しかし「己はこの戦がばかばかしい」と思っている。そして決めたこと。それは「楠木は北朝に従う」ということだった。「誰かのために散ってよい命などない」「南朝の人々は勝てると信じたいのかもしれない。だが、十中ハ九は死ぬ」・・・・・・。
多聞丸は慎重に、信頼する仲間に、母・弟にその本心を伝えていく。楠木党の結束は見事というほど固い。そして北朝では、足利尊氏の弟・足利直義と家宰・ 高師直が激しい派閥争いをしていた。二人の思惑、権謀術数が巧みに描かれる。南朝の吉野においても、後村上帝の存在ははるかに遠く、坊門親房らが実権を握り、空虚な北朝打倒の言動のみで支配していた。南朝、北朝、宮方、武家方、主戦、和議、様々な思惑が入り乱れ錯綜状態。そんななか、北朝の度重なる策謀・襲撃が仕掛けられるが、楠木党の多聞丸、その弟・次郎、親代わりともいうべき大塚惟正、和田新兵衛、その弟・新発意、野田正周、石掬丸らが楠木正成の戦略に磨きをかけた巧妙な戦いではね返す。そして最後の決戦に突入する。
「父は足利家と和議を結ぶように進言し続けた。それが受け入れられなかったため、次策として京に誘い込んでの兵糧攻めを示したのである。しかし、その策もまた退けられたという経緯である。そして湊川の戦いにおいても、わずかの勝機を狙って決して諦めなかった」と言う。その京に誘い込む戦略を阻んだのが坊門清忠。その子・親忠は、「河内判官に顔向け出来ぬ」と清忠がしわがれた声でつぶやいたと、多聞丸に言う。なぜ楠木正成は死地に向かったか――。その急所も、本書は剔抉している。
各人がどんな思いで戦ったか。決断したか。散っていく人と花。「人よ、花よ、」――余韻が静かにいつまでも残る。
クレイマー、苦情、カスハラが横行し、東京都では今年4月、全国初のカスハラ防止条例が施行された。「カスハラは、優位な立場の者による『いじめ』である」「カスハラも立派な苦情の一種。しかし苦情と同じ対応では埒が明かないこともある。理由なきカスハラと確信したら『毅然さ』を持ち『抗戦』もやむなし」と言う。
著者は西武百貨店で、お客様相談室を長年担当。難解な苦情・こじれた苦情・クレーマー対応を得意とするベテラン。独立し、苦情・クレーマー対応アドバイザーとして現役。
「お客様相談室の事件簿」として、「婚約指輪」「水コンロ」「宝飾売り場のダイヤのネックチェーン」「書籍売り場のカスハラ退治」「化粧品売り場のクレーム」「賞味期限切れを買わされたとのクレーマー」「5回履いたら破れた靴下」「被害額は2円の返金不足クレーム」「傘の柄にヒビが入った」「キャリアケースのひどい破損」など、直接対応した事件は生々しい。そのひどさは言葉を失うが、今や各売り場でも、学校でも、役所でも直面している問題だ。本書では男性が多いと言う。あちこちの窓口で怒っている"暴走老人"が浮かんでくる。
しかし、「一般の苦情客をクレーマーに仕立てない」「95%以上の苦情の原因は受け手、つまり企業側にある」「苦情の対応は、紙一重の満足が顧客の信頼につながる」ことをまず踏まえなければならない。しかし「本物のクレーマーになれば、もはや顧客(カスタマー)ではない。カスハラとして徹底した対応で排除して良い」と言う。そこで大事なのは「初動を間違えないこと。初期対応が大事」「迅速が大事(遅らせた方がよいものもある)」「苦情が出るということは、些細なことでもカスタマーが不利益を受けている。対応のミスや不慣れにより、不快や被害や時間の無駄を生むことに対する抗議です。それが理不尽なものかどうか見極めることが大事」「不満発生から現在に至るまでの、相手の心理的変化を察知する技を磨くこと」と言う。
ますます難しい社会になっている。相当の誠意と知恵と研究(教育)、そして忍耐と生命力が必須であることを改めて感じる。
JA対馬で起きた巨額横領事件のノンフィクション――。組織、システムの中で生きる「個」の苦しさ、淋しさ、諦めと惰性、疑問と欺瞞が迫る。2024年第22回開高健ノンフィクション賞受賞作。
2019年2月、JA対馬の職員・西山義治が海に車ごとダイブして溺死する。西山はJA共済連で"日本一の営業マン"と何度も表彰された有名な男だったが、「22億円超の横領疑惑」が持ち上がっており、事故直後から自殺の噂が流れていた。不正事件は、彼一人の責任として片付けられるが、「人口3万人の島・対馬でなぜ日本一の営業実績を上げることができたのか」「どうやって巨額の横領ができたのか」「そんな驚くべき不正を一人でできるものなのか」「西山とはどういう人物なのか」――。著者は疑問を胸に、対馬に入って関係者の話を次々と聞いていく。
そこで浮かび上がったのは、職員に課せられた「厳しいノルマ」。職員はノルマをこなすために、自分や家族の契約「自爆営業」を強いられる。西山が行ったのは「架空の契約」、顧客から通帳を預かる「借用口座」や顧客に無断で作った「借名口座」を駆使。顧客の署名や押印を無断で代行、印鑑の束を保持していた。さらに、「台風が来たときには、被害の申請が一気に増えた」――「建物更生共済」の盲点を突き、架空、過剰請求を行うことをはじめありとあらゆる手口を駆使して金を横領する。台風の時期でない時は「生命共済」で抱き込んだ医師に診断書を書かせて偽装する。西山はルフィのフィギュアを何体も集めていたようだが、まさに「富」「名声」「力」を目指す仲間「西山軍団」を形成していたと言う。「うちの農協では、西山が組織のノルマのほとんどをこなしとったから。だから、他の職員は自爆する必要がなかった」との証言を得る。「毒饅頭」が回っていたのだ。ノルマがきついなどのどの組織でも気をつけなくてはならない陥穽だ。仲間組織、閉鎖組織ならなおさらだ。
本書では、西山の不正を黙認してきた上層部にも厳しい目を向ける。「彼らも、JAグループという中央集権的な巨大組織の中に位置づけられている以上、『長い物には巻かれろ』というムラ社会の論理からは、容易に逃れられるはずもなかったのである」「JA対馬を舞台にした一連の不祥事件を記してきて思うのは、これがいかにも『ムラ社会』を基本としてきた日本における象徴的な出来事だということだ」と記している。そして「西山はずっと踊らされてきた。ノルマの達成や営業の実績を至上とする舞台で」「西山はすべての秘密を海の底に持っていった」「深く重い沈黙が、国境の島と巨大組織を覆っている」と結んでいる。
「アンパンマンとぼく」が副題。「絶望のとなりに だれかが そっと腰かけた 絶望は となりのひとに聞いた 『あなたはいったい誰ですか』 となりのひとは ほほえんだ 『私の名前は希望です』(絶望のとなり)」――。「一寸先は光」というのが嵩のモットーだった。「どんなに深い闇でも、目をこらせば光はある。生きるということを肯定し続けた生涯だった」と、やなせたかしを「先生」と仰ぐ梯久美子さんは言っている。
NHKの朝ドラの「あんぱん」は、妻となる暢の「ハチキン」「韋駄天おのぶ」が中心となり、母に捨てられ、孤独と屈折する感情の無口で気真面目な嵩が描かれているが、本書は99%がやなせたかし。父と母、伯父の家、青春の日々、軍隊へ、徴兵されて中国へ渡り、戦場で飢えを経験、弟千尋の戦死、売れない仕事、そしてアンパンマンに託した嵩の思いが丁寧に描かれる。
「(中国の地に足を踏み入れた嵩)支えになったのは、日本が正義の戦いをしているのだという思いだった」――。しかし、敗戦とともに信じてきた「正義」が突然ひっくり返る。そして「ある日を境に逆転してしまう正義は、本当の正義ではない」「正義の戦争などというものはない」「勝った側は百%正しかったのか。そうではないはずだ」「正義のためなら死んでも仕方がないと思っていた自分は、いったい何だったのだろう」・・・・・・。そして「ひっくり返ることのない正義はあるのか」「もし、ひっくり返らない正義がこの世にあるとすれば、それはおなかがすいている人に食べ物を分けることではないだろうか」と悟るのだ。
優しい言葉で「アンパンマン」「手のひらを太陽に」、雑誌「詩とメルヘン」を創刊して30年間も編集長をつとめる。苦難ばかりが押し寄せるが、誠実に懸命に生きたやなせたかしの祈りと哲学が語られる。こんなまっすぐな人生を歩むことができること自体に感動する。
「能力・探求・ウェルビーイング」が副題。AI・デジタル化は社会を激変させている。デジタル、グローバル化などのなかで、世界各国とも教育改革を加速させている。AI ・デジタル化、少子化、教員不足、いじめ・不登校、過重なカリキュラム、激しい中学受験競争、外国人増加などのなか日本の教育の課題をどう克服していくのか。国連やOECD、ユネスコなどの国際機関に直接関わり、文科省の教育行政の真ん中にいる著者が、「これからの教育はどこへ向かうか」「あるべき教育、学校の未来を探る」を真正面から語る。きわめて有意義な著作。
「変わる世界の教育」――。なんといっても、デジタル化の影響だ。デジタル・スキルとコミュニケーション能力や協働性が求められる。注目されるのは「オンラインでできないのは結婚と離婚だけ」というエストニアだ。PIS A(読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーが対象)でも、エストニアは好成績。フィンランドは低迷、トップに踊り出るシンガポール(人材育成こそ国の存立の基盤を理念)、日本も2022年ではそれぞれ3位、5位、2位と良い。現在は20年前と大きく変化しているのだ。教師不足も世界共通。AIや半導体で国際的な人材の争奪戦が行われているが、教師の世界でも「国際的な人材獲得競争」が起きていると言う。教師の移民の加速、日本への英語教師も急増していると言う。逆に日本が想定してこなかった教師の国外流出のリスクが高まると指摘する。いちど辞めた教師の復職もこれから増える。
「教育は何を目指すか」――世界的に、経済成長モデルが限界になり、人間重視の世界観へ進む。SDGsはその象徴。OECDが提案したウェルビーイングが中心となる。個人の尊厳、人間尊重のよりよく生きる社会への立ち返りだ。学校生活と余暇のバランス、ワークライフバランスは子供たちにとっても大事だ。世界的に見ると「日本の子供たちは疲れている」ようだ。子供たちの立場に立っての学校教育の課題が見える。
「『主体性』を捉え直す」――。「重いランドセル問題」は子供たちの声(主体性)を聞いていないのではないか。「『やらされ感』のある学習から脱却し、学問の面白さや意義を自分ごととして理解していくようになること、それが『主体性』を育んでいくための正しいアプローチではないか」と言っている。
「子供たちに求められる『能力』とは」――。コンピテンシーの重要性が大事だ。単なる知識ではなく、対立を処理する柔軟性ある総合判断力のリーダーシップといえようか。世界はコンテンツ主義を脱し、コンピテンシー主義に舵を切る。「認知能力」偏重から「非認知能力」重視への方向だが、そこでの教育は「リスペクト、責任感、粘り強さ、正直、共感、誠実」などの価値観が重要だ。
「『探求』の再検討」――。大事なのは「題材やテーマがどのようなものかということではなく、探求のプロセスが回っているかどうか。子供たちが探求の方法論を身に付けているか」と言う。「シンガポールがカリキュラムの削減を進める上で、生徒だけでなく、教師に対しても『ゆとり』を作ることを徹底してきた」とシンガポールの成功の理由を述べている。「探求」におけるコーディネーターとしての教師の役割の重要性だ。
「何をどこまで学ぶべきか」――。「広さ」と「深さ」は、トレードオフにあり、科学の発達や社会の複雑化に伴って、カリキュラム・オーバーロードが避けられない。面白いのは「PISAにおいて、各国の生徒の金融リテラシーを分析したところ、金融リテラシーのスコアと金融リテラシー教育の実施状況と間には明確な関係性が見られなかった」「数学的思考方法に熟達していて、確率やリスクなどの概念を十分に理解していると、金融に関する問題であっても、既存の知識を応用することがある程度できる」ようだ。各学問分野の重要な概念や考え方、思考パターンなどに焦点を当てるアプローチが注目されると言う。改善には工夫がいるわけだ。
「これからの教育はどこへ向かうか」――。ニュー・ノーマルの教育像を示す。①教育システム②学習③教師、生徒の関係――それぞれ改革の動きは不断に進めなければならない。「未来の学校はどうなるか」――OECDはこれからの学校のシナリオとして、「現在の延長線上にある学校」「アウトソーシングが進んだ学校」「地域ごとの特色化が進んだ学校」「融解する学校」の4つを示している。地域ごとの特色化というが、スティーブ・ジョブズ、マーク・ザッカーバーグなど、有名企業の創業者たちは、いずれも大学を卒業していないというのは面白い。「融解」は、従来型の学校モデルではなく、AI、VR、IoTなどの進む段階で、そもそも学校という形が重要なのかどうかが問われてくる。
しかし、これらの変化の中で、変化を踏まえた「学校の普遍的な役割」はより大きいと指摘する。全く同感である。そして不断に検証、改革をし続けることだと思う。