作者が生まれ育った庄内地方が舞台。同郷の藤沢周平の世界を思い起こす武士の矜持と人情。磯釣りが、侍の鍛錬になるからと「武芸」として奨励されている北国羽州の大泉藩。
勘定目付の前原又左衛門は郡奉行の山上藤兵衛と釣り仲間でもある無二の親友。互いに釣りの腕を競い合っている。又左衛門は妻に小言を言われながらも、自慢の荘内竿を手に鍛錬に励む日々だったが、藩主が磯釣りの最中に溺死し、跡継ぎをめぐる藩の争いに巻き込まれる。
ちょうど又左衛門の年頃の娘と藤兵衛の息子の縁談もまとまろうとしていた時でもあった。しかし、家老派は亡くなった10代藩主の嫡男・万千代を担ぎ、中老派は10 代の弟・鉄之助を担いで争い、又左衛門は家老派、藤兵衛は中老派に分かれてしまう。
事態は奇なことに、「万千代様と鉄之助様で釣り勝負を行い、勝った方が11代藩主になる」「御磯行差配は、両派から1人ずつ」となり、なんと又左衛門と藤兵衛がそれに当たることになってしまう。家臣を巻き込む命がけの釣り勝負だ。
江戸育ちの釣りをしたことのない万千代に釣りを教える又左衛門。「争いは切ねぐて切ねぐて、生きだ心地もしねがった」という藤兵衛・・・・・・。
釣り勝負の中での陰謀、妻の嫌味や家族愛、武士の矜持と人情、友との信頼、釣りの醍醐味、庄内の山海の珍味・・・・・・。静謐のなかの面白さが迫ってくる。
「朱子学は忠孝の学問、陽明学は理想の学問、徂徠学は解決の学問(現実の問題に直面した時、これをいかに乗り越えるか、その知恵を求めようというのが、大泉家の学問だ) (解決とは、まだ誰も解いたことのない問題、あるいは難題、ないしは困難を克服していくこと。物真似ではなく自分で読み解くこと)」という。
大学生を含む現在の若者たちを対象とし、彼らの抱える複雑で微妙な心理を解読する。例えば上司と若者。そこには「安定した安全・安心ライフを求める若者」と「主体的にリスクを取って行動してほしいと考える先輩・上司」がある。この綱引きにおいて、今の日本は「若者側の圧勝」となる。若者への配慮が積み重ねられお客様化していく。「そうやって、今の若者たちが『無敵化』している」「少子化で学校も会社も若者に至れり尽くせりで『無敵化』している」と言う。
今の若者は――。「横並び志向」「目立ちたくない」「良い子症候群」「チャレンジしないで安定志向(会社も最近は安定した会社が選ばれる)(初任給爆上げに飛びつかず、これから伸びる会社ではなく安定した会社が良い)」「自分の意見は言わない、先頭に立たない」「電話が鳴っても取らない」「転勤を示唆すると転職をほのめかす」「仕事の期限が来ても残業しない」「仕事よりも趣味を重視した生活を求めるマイペース(平社員のままで良い)」・・・・・・。自己評価は高いのだが、「日本の将来にも、自分の将来にも不安いっぱいで、それを打破しようにも、全く自分に自信がなく、ただただ拒否されることを恐れる若者の姿がある」と指摘する。
「なぜ、安定志向の若者たちは生まれたのか」――。バブル崩壊後の失われた時代に就職し働いた親世代、先輩世代は今の40代、50代。将来への不安から挑戦よりも安定路線を求めた。子育ても同じで、リスクを取らせず、失敗しないようにという大切な子を守ろうとする愛情が徹底した正解主義に変換される(何でも母親と相談してしまう正解主義の子どもたち)。チャレンジよりもまず自分を守ろうとする若者たちが作られた。
そして「気遣い世代の40、50代」と「鬼つよメンタルの20代」が形成される。「無敵の若者世代は、してもらい上手」となる。またキャンパス内でも、「男女の垣根はなくなっている」と考えがちだが、実態は逆。「講義室できっちり分かれる男子と女子」、そして「居心地が良いのは同性同士」「異性との交流そのものがリスク」だと言う。また「20代独身男性の39.8%は一度もデートした経験がない。20代男性の65.8%が妻も彼女もいない」――。「お金がないから、我慢している」のではなく、リスク要因を避けているとのことだ。結婚を出産も子供を持つこと自体がリスクと感じるとしたら、大変な社会になってしまっている。
1997年から生産年齢人口が減少になった。「安定志向の若者たち」「余計なこと、何もしない方が得な日本、おとなしくしている方が得をする日本」「部下を管理したい上司と消極的な部下との絶妙な均衡?」・・・・・・。「幸せかと聞かれれば、それなりに幸せだとは思うのだけど、どこか充実していないと感じている若者たち」・・・・・・。著者は「チャンスが来たら迷わず飛び込むこと」「友だちではなく仲間を」「インプットよりもアウトプットを」と若者に提案している。
大日本帝国憲法がいかに作られたか。起草者の井上毅の生き様と格闘、日本が立憲国家として歩み出す過程を描いた大変な力作。
「熊本で陪々臣の三男に生まれ、絢爛の辞をもてあそび、秀才にしかなれなかった男に何ができたか」――。井上毅は肺を病むほどに学び、法制官僚として大久保利通や伊藤博文らに見出されていく。長くなさそうな命を懸け、該博な知識と美しさと力強さを備えた言葉作りの能力を発現。しかも直言直行、ひたすら仕事に専念した。「至善完美の憲法は、自分のほか作れるものはいない」と、個性豊かな政治家や官僚たちと対峙、協力しながら、立憲国家の骨格を築き上げていく。まさに明治の国家づくり、草創のドラマが描かれる。
莫大な経費がかかる洋行に井上毅を抜擢したのは、江藤新平。フランスで学ぶうち毅は、「法は美しい。法は人を守るためにあり、また人を律する」「何人をも害するなかれ。法の要諦はこの一言に尽きる」「一日も早く『文明国』の体裁を整えねばならぬ」「法を編むとは、国家を造ると同義だ」「国家の横暴から人民の権利を守護する。これぞ憲法ただひとつの意」と思う。
「プロイセンか、イギリスか」――。天皇、国体をどう確立するかが最重要課題となる。憲法は国体を定めるものであり、西洋法を引き写すだけでなく日本の伝統に立脚せねばならない。大隈の意見書はイギリス流。「君主は統べて治めず。確固と君臨しつつも、行政は全て議会の多数党に委ねる慣例」。プロイセンの憲法は、「君主と行政の権が強く、さりとて議会にも一定の権がある」「国王が主権を保持し、その行使を万全にするために、議会の承認を必要とする制度」だ。毅は、「守るべき君権、広げるべき民権」の中庸を踏まえ、「欽定憲法」「軍の統率、宣戦講和、条約締結、大臣以下高官の任免を天皇が行う」と考える。「憲法があれば、ニ千年を越えて存続する天皇の機能は侵されない。同時に、ニ千年にわたって統治の対象でしかなかった人民は、民選議院を通して政治に参画する」とした。憲法を担当する伊藤博文は、考えの違うイギリス流に立つ大隈を追い落とす。そして10年後の「明治23年を期し、国会を開き、付随して制定される憲法は天皇自ら栽する」と詔勅は宣言した。
条約改正問題、民権派の台頭と攻撃、政府に対する議院の権限、教育勅語・・・・・・。激しい政争のなか、憲法は次第に形になっていく。その中核に伊藤博文のもとの毅がいた。井上毅は宮内省図書頭から転じ、法制局長官、兼任で枢密院書記官長となる。
憲法の76条の各条文の詰めの議論、憲法が要請する国制を支える議院法、選挙法、会計法、貴族院令などの付属法の審議、それに絡む激しい政争・・・・・・。全くの白地から憲法を作り、制度を作る。壮絶な戦いがどれほどのものであったかが伝わってくる。暗殺もある。
そして明治22年2月11日、紀元節の日。憲法が発布される。黒田清隆総理大臣、伊藤博文枢密院議長、井上毅枢密院書記官長、毅の前に現れた総理大臣秘書官の牧野伸顕。
「君主は、国民の良心に干渉できません。勅語にて徳を教え諭されるのであれば、これを国民への命令ととられないよう細心の注意を払わねばなりません」とする毅の教育勅語への貢献も意義深い。
制度を作った根源的な精神、時代の変化の中で動かされる運用・・・・・・。「大日本帝国憲法は、いっときに絢爛と輝いた法だった。そして国中の至るところで起こった憲法の軽視や無視、曲解によって色褪せ、光を失ってしまった」と描いているが、憲法と諸制度を作らんとするその志や激しい議論、国を背負う気概、圧倒的な熱量は凄まじいものだと深く思う。とてつもない重厚な労作、力作。
「社会学者、じぶんのAIと戦う」が副題。社会学者・吉見俊哉が、自らの著作・論文を全てAIに学習させ、「AI吉見くん」を制作。自分とAI吉見くんが、「社会学」「大学(大学は人口減少を乗り切れるか)」「日本の都市(東京一極集中はなぜ止まらないのか)」「世界情勢(ドナルド・トランプと混迷する21世紀の世界)」などの対話を敢行する。対話というよりバトルを敢行。そこから「AIとは何か」「AI時代に人間が身に付けるべき知性、力とは何か」を鮮やかに浮き彫りにし、「AIを信じるな」「AIをたたきのめす知性を!」と呼びかける。圧倒的に面白い。現在、最も必要な問題を抉り出している。
AI に次々バトルを仕掛けると、AIはどんどんしどろもどろになり、「言い訳」「弁解」をし、自分の弱点をさらけ出す。楽観的で、相手に媚び、前言を翻し、平気で「嘘」をつく。現実に私自身、ChatGPTなどとやりとりすると感じるあの主張をどんどん変えていく薄っぺらさ、いやらしさ、もどかしさが、本書で見事に表現されている。最初は知識を整然と並べ、立派そうに語る「AI吉見くん」が、だんだん追い詰められて、逃げて、逃げて、言い訳をし、ダウンしていく様子は極めてよくわかる。大体、こういう本を作ろうとする営み自体、AIにはできない。
「要するに、未来へのビジョンを形作るのはAIではない、それは人間だ」「AI吉見くんは自分史を最初から欠いている。歴史認識だとか、歴史意識は持っていない」「AIは『固定した信念を持つ』ことはなく、相手の『指摘に合わせ、視点を補正し、異なる可能性を示す』対応を徹底して行う。そのため、答えは一貫したものとはならず、ある意味では『常に嘘をつき続ける』のだ」・・・・・・。相手に合わせて自分の意見を変えていくのは、精度や安定性の違いというよりAIの本質なのだ。意味を把握しているわけではないので、それは当然だ。「一貫性」「反論能力」の欠如は明らかだが、それ以上に「人間とは逆に、思考のジャンプや身体的空間把握は、AIにとって極めて難題」と明示する。
「AIは人間が身体を介して獲得している周囲の世界との関わりの決定的な何かを欠落させている」――生まれることも死を経験することもない。私たちの根底的に持つ空間的、時間的限定性がない。匂いや空気や暖かさも柔らかさや硬さも感じられない。山や川、洞窟をも決して知らない。背後仮説・思考のジャンプ・身体の不在は決定的だ。
AI吉見くんは、「1冊も本を読んだことがない」と告白する。「読書とは、本質的に時間的な行為であり、この時間性は、人間の経験の根本に関わるものなのだ」と言う。作者が設らえた筋道に沿って歩きながら、時に寄り道を重ねながら進む時間こそが「読書」という経験であり、「読書とは要するに散歩である」と言う。AIは結論だけを掬い上げ、紆余曲折の展開を経験する読書の醍醐味を味わうことができず、「AIは空間の中を歩いていると偽装しながら、目的を最短で達成することだけ」であり、時間が伸縮すること、瞬間が永遠でもあり得ることを理解しないのだ。
しかしAIはこれからさらに進化し、社会に浸透する。「AI革命は、産業革命の知能バージョンであり、人間の知的労働の機械的代替をもたらす。ホワイトカラーが駆逐され、知的労働の多くはAIに代替される。しかしAIは今後も意識も感情も持たない機械であり続ける」のだ。
そこでより深刻なのは、「AIによる人間疎外は考えることそのものの疎外であること。人間の思考がAIの思考に置き換えられていくなかで、知らず知らずのうちに思考力や想像力のなし崩し的な劣化が進む」ということだ。既に学生を見ても、効率化を進め、「正解」をすぐ求め、課題をこなす際に「何も考えなくなる」ことが進んでいる。タイパ・コスパでAIに「正解」を教えてもらう「考える力を劣化させる」日々を送りがちだ。著者は危機感のなか、「AIを上手に使いこなす方向で、学生を指導している大学が多いようだが、落とし穴がある。そもそもAIを使いこなすことと、AIに使いこなされることはどこでどのように異なるのか」と言う。「「大学教育は、AIを自由に使いこなすスキルを身に付けさせることにあるのではなく、既存の価値の延長線上ではない新しい価値や目標を想像していく知性を育成するところにある」と言う。
本書は、その知的バトルをありありと見せつける。痛快なほどだ。人間は思考のうねりを手放してはならない。「AIをたたきのめすことのできる知性を持て」との声が自らのバトルを通じて伝わってくる。「攻める吉見俊哉、逃げるAI吉見くん」――こんな面白い、本質をついた本はない。
「菜乃子が死んだってよ」というたった一言のLINEのメッセージ。高校時代の同級生5人の仲間。40歳を目前に知らされた一人の自死をきっかけに、それぞれの人生を深く揺り動かしていく。5人それぞれの心の深層を描く連作短編小説。
沙耶、健太、倫子、達也とその中心にいた自死した菜乃子の5人の仲間。菜乃子の自死に衝撃を受け、それぞれの思いを章ごとに語っていくが、死後も常に「紙の裏から磁石で砂鉄を動かす」ように菜乃子の存在はそれぞれの人生に深い陰影を投げかけていく。悔恨、罪悪感、喪失感、そして溢れる愛・・・・・・。しかも生きていかねばならない現実は感傷を許さぬ厳しさだ。
それぞれは、仲間であっても、その関係は複雑に交差する。料理研究家のアシスタントの沙耶、土地・建物開発事業のディベロッパーに勤める健太は母がのめり込んだ宗教2世のトラウマを抱える。小説家の道を歩む倫子。アパレル会社に身を置き菜乃子と結婚、自死で激しい喪失感に浸かるなか本屋になる達也。仲間といっても、沙耶は健太と結婚したいと思い、健太は次々と女性と関係しているが、達也が好き。達也は菜乃子に恋い焦がれ、倫子は菜乃子が好き。「菜乃子が好き、という気持ちと同時に、小説をもう一度書いてみたい」と心の底で思っている。沙耶は健太と関係を持つが、あまりの喪失感の中にあった達也と一度だけ一線を超えてしまうこともある。
菜乃子の自死はこれら関係の伏流水を表層に躍り出させる。菜乃子の磁場が崩れることによって、それぞれが、「生きる」「何のために生きるのか」の実存的問いかけを噴出させるのだ。各章それぞれでの各人の独白は、実にきめ細かく、赤裸々で、深淵に引き込まれるような描写が続く。
「なんで、こんなに好きなんだろうな。菜乃子という人間に飽きない」と言う達也に、健太は「それは俺も同じなんだよ、お前に対して」とつぶやく。そして「菜乃子の中には、暗い深い穴がどこまでも続いている。その穴が、ある種の人間を惹きつけているのは明らかだった。・・・・・・沙耶は菜乃子ほど、誰かを惹きつける女でも暗闇を抱えてる女でもない。その健全さに、自分の心が慰撫されていることも事実なのだった」と健太は言うのだ。
「菜乃子の心は悲観的であらゆることに怯えていた。その怯えの源泉がどこにあるのかわからなかった」「『この世に生まれてきたとしても、苦しみしかない。そんな人生を負わせたくはない』 なぜ子供が欲しくないのか、理由を問えば、そんなことを菜乃子は繰り返し口にした」「そんな自分の一方的な『献身』が、菜乃子の心を重くしているのかもしれないとは考えなかった」と達也は思い、「いつの間にか、自分の内側に、ぬかるんだ憂鬱の沼ができていて、その沼に足を取られて動けなくなっていた」と涙する菜乃子を思い出し、また救い出そうとする自分の傲慢さにも気づくのだった。
最終章は死後の菜乃子が「菜乃子を思う人の側にいる」様子が描かれる。「誰もが私のことを思い出さなくなれば、私はこのように存在していられなくなる」という様子だ。菜乃子は「いつだって死にたがりだった自分」「自分の人生で何ができるかなんて、そんな気持ちに真正面から付き合ってしまった自分」「小説を書き認められたかった自分」・・・・・・。そして、「死んでみてわかった。人は生きて、何者かにならなくてもいい。自分を鋭くえぐるような承認欲求は、もうはるか遠くにあった。・・・・・・人間は、この老いた達也のように、そこにただいるだけで十分なのだとやっと気づいた」と言っている。
青春時代と、その後の人生、そして死後の生命を深々と捉えた厚みのある傑作。
