これも日本人論、日本文化論。しかし、宗教の側から専門の宗教学者・山折さんが、とくに「悪と日本人」という形で提起しているのは重要だ。キリスト教的二元論「善人と悪人が存在する」――。それを超えようと無垢なる人間を幻想するニーチェのいう「善悪の彼岸(仏教)」、親鸞の「教行信証」における阿闍世王(悪人が無条件に成仏できるといっていない)、弟子唯円の「歎異抄」における悪人正機説、「日本人が死に臨んで歌を詠むことに短歌的叙情のなかにすべてを溶かし込むとは、つまり論理的に善悪の問題を追及する態度をそこで放棄したこと」と
山折さんは語り、ルサンチマンを緩和する装置が日本の伝統的社会にあるとする(敵の霊魂を放置せず祀るなど)。そしてその奥底には日本人の仏教観に「無常観」「浄土観」「空」「無」の四つの命題が絡まり合っているという。
重いテーマだが、辛さんの切り込み、野中さんがそれを飲み込みつつ、政治のリアリズム、実践者として揺るがぬ姿勢を落ち着いて語る。
「部落とは」「在日とは」「差別とは」だけでなく、テーマは多岐にわたるが、野中さんの後で伴走してきたような自分だけに、あの時、この時を振り返りつつ思いをめぐらした。辛さんは「糾弾ではなく被差別者の側の個人の努力で差別と闘う野中氏の姿勢」というが、本書の最後では2人が、角度を異にしながらも心が融け合う。
弱者の側、差別される側、困り苦しんでいる人と同苦し、身体をはって扉を開く戦いは、心に沈潜した怒りや悲しみの深さなくして成しうるものではない。自分の子どもの頃からのことを思い浮かべつつ、この10数年の闘争を振り返りつつ、一気に読んだ。
今こそ改革、そしてこの未曾有の1年の不況を乗り越え新しいスタートが切られるかどうか、そこに凄い時代が始まるかどうかのカギがあるという。堺屋さんの主張の全体の底流には「すべての根源は知価革命にある」が基調音のように流れている。知価革命の日米などの国々と、「物財の豊かさ」を追う近代工業社会への国々との凸凹の構造、しかもそれが水平分業ではなく、工程分業となっていることを示している。
国際金融・ペーパーマネー体制(失敗を繰り返さない為には規制強化ではなく、金融に節度と理性、モノとカネの自由・迅速な流動を)、小泉改革(誤りではなく、賛成だが、ケインズ政策の否定と新たな産業と社会環境を生みだす成長戦略への手が打たれなかった)、知価革命(これからは規制・統制などの官僚主導とモノ造り依存を捨て、医療・介護・教育・保育・歩いて暮らせる街づくりなどの都市運営・農業などに力を注ぐことが大切)、過剰消費も知価革命が背景、都市の構造もコミュニティのあり方も、家族状況も、近代工業社会と知価社会では決定的に変化していること・・・・・・・。
毎年のように堺屋さんは指摘し続けているが、とくに本書には力業を感ずる。
私も「勝負は2011年」、この2,3年がとくに大事だと思う。