30日、北区王子の飛鳥山公園内にある旧渋沢庭園で行われた「渋沢ガーデンスペシャルホリデー」に参加しました。北区観光協会が、来年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」、2024年に新一万円札の顔となる渋沢栄一翁をテーマとした飛鳥山公園の新しい活用やコロナ禍における飲食イベントを考えて開催したものです。
渋沢栄一翁は、1840年に埼玉で生まれましたが、30年以上もっとも長く住んだのがこの飛鳥山公園内で、終の棲家となった場所です。約500もの企業を育て、同時に約600の社会公共事業にも関わり、「日本資本主義の父」と称されます。この旧渋沢庭園には、重要文化財となる洋風茶室「番香廬」、書庫や接客の場「青淵文庫」があり、内外の賓客を招き食事会が行われていました。
飛鳥山公園は「徳川吉宗以来の飛鳥山の桜」「旧渋沢庭園」など観光としても素晴らしいスポット。観光協会が力を入れた今回の企画です。
渋沢栄一の「論語と算盤」は、講演記録を整理して原稿化したものだが、「論語」を踏みながら経済(算盤)等について論じている本ではない。「論語」以外の中国文献を多く引用しており、「中国古典と算盤」が実態に近い、という。本書は、中国哲学史・中国古典学の権威・加地伸行氏による「古典と現代社会」だ。「コロナ禍に」「日本文化の深層」「国民国家とは」「<不平不満老人>社会」「権威とは」「建前の浅はかさ」「まっすぐに見よ」「日本人が語り継ぐもの」「日本の教育は」「日本人の死生観」――。これらについて、本質的な軸をもって現代社会の浅薄さ半可通を剔抉し一刀両断する。いかに現代社会が浅薄で浮遊しているか。いかに思考の粘着力と軸を失っているか。有識者、コメンテーター等がいかに無知でふわふわしているか。批判は痛烈だ。
「日本国憲法は個人主義一色であり、法律や制度から家族主義を叩き出した。個人主義を唱える欧米人も自律的な個人主義を身につけるのは困難で、勝手な利己主義になりやすいが、キリスト教における唯一最高絶対神の存在が抑止力となった。信仰なき者には抑止力がなく、利己主義者になる。日本には絶対神の存在はなく、信仰も抑止力もなく、勝手な利己主義者となってしまうだけだった」「家族をつなぐ絆とは血である。血でつながり、家族共同体にこそ日本人の生きる基盤がある。個人が基盤といっても、自律し自立できる個人主義者なら可能だが、利己主義者の大群では、老後は貧しい孤独な死となる。家族主義は、家制度を超えて、日本人の死生感(祖先から子孫・一族へという生命の連続と子孫の慰霊により人々の記憶に残る)に基づいている」「民主主義は自立した個人を前提にした『民が主』ということだ。しかし、東北アジアでは、自立した個人という思想・実践はなかなか根付かない。だから選挙では投票数の多さを競うだけとなり、選挙が終われば民はお払い箱になり、単なる愚昧な存在としか見なされない。東北アジアの民主とは『民の主』すなわち君主のことである」「公務員の汚職発生が中国では多く日本で少ないのには、律令制の実質化(中国=科挙官僚は皇帝に忠誠心があったが、圧倒的な一般官僚にはそれがない)と形式化(日本=藩主は将軍家から実の土地を受け、朝廷から名の位階を受けた)との差が背景にある。日本では藩主に対する忠誠心があり、この忠誠心が明治となって元武士官僚が天皇へのそれに平行移動した(日本は権力が替わっても天皇の権威は奪われなかった)」「皇室無謬派も皇室マイホーム派も誤りである。皇室は無謬ではなく諫言を受容してこそ安泰である(孝経の諫諍章=天子に争臣(諫言者)七人有れば・・・・・・天下を失わず)」・・・・・・。「儒教とは何か」「沈黙の宗教――儒教」「家族の思想」などを読んできたが、「社会と宗教」「政治と宗教」「国家と宗教」等を考えた。
現代社会の街の底には、さまざまな病理がうごめいている。マコトとタカシ、真島誠と安藤崇が"必殺仕置人"のように痛快に難問を解決していく。
「涙だらけの星」――。若手俳優のトップランナーが調子に乗った夜の振舞い。淫行疑惑を週刊誌に流すと脅される。はめられた訳だが・・・・・・。「鏡のむこうのストラングラー」――。出会いカフェで絞殺魔・ストラングラーが女の子に襲いかかる。被害者は12人にも及ぶ。
「幽霊ペントハウス」――。マコトの同級生で歯科医のスグル。結婚し、億ションの最上階に住むが、真夜中にコツコツと力なくものを叩くような音がするという。探ると全く意外な猟奇的な長期監禁事件にたどりついていく。「七つの試練」――。「いいね」が人を殺す。「いいね」によって人が死ぬ。「七つの試練」を始めたネットに青少年がはまっていき、「高所から飛び降りる」という七つ目の指令に巻き込まれていく。悪知恵の働くネット犯罪、これを始めたネットの管理人を追い詰めていく。
ますます複雑化、巧妙化する現代社会の闇に挑むシリーズ第14弾。