ginkan.jpg葉室麟の初期の名作。第11回松本清張賞受賞作。テレビドラマ化され最近再聴した。寛政年間、西国の小藩である月ヶ瀬藩を舞台とした3人の男の友情、それも年齢を重ねた漢(おとこ)の命をかけた剛にして直の友情、それを支える女たちの哀切漂う毅然たる姿を描く。感動の物語。

藩の郡方の日下部源五(映画では中村雅俊)、名家老と謳われるまでになった松浦将監(柴田恭兵)、百姓の十蔵(高橋和也)3人は幼なじみ。二人は同じ剣術道場に通い、その頃うなぎを買った相手が十蔵だったということだ。

源五と将監は40年前、将監の親の仇討ちを共に挑んだほどの友だが、20年前には十蔵を中心として起きた一揆をめぐっての意見で対立、絶交状態になっていた。十蔵は殺され、その娘の蕗(桜庭ななみ)は、源五の下で下働きをしていた。

名声を得ていた将監だが、次第に主君からも疎まれるようになり、暗殺命令があろうことか源五に下される。国替をしても幕閣にのし上がろうとする主君、それを止めようとする将監。暗殺しなければならない源五・・・・・・。将監は脱藩をし、江戸の松平定信に会おうとするのだ・・・・・・。

三人は昔、祇園神社に行き、夜空の星を見たことがあった。「銀漢声無く玉盤を転ず 此の生、此の夜、長くは好からず」(蘇軾)――。「あの一揆の時、十蔵はわしを助けたが、わしは十蔵を見捨てた。十蔵は、そんなわしをかばって、何も言わずに死んだのか」と、将監は言う。「十蔵は、お主の友だったのだ」と源五は言い、天の川を眺めながら「銀漢とは天の川のことなのだろうが、頭に霜を置き、年齢を重ねた漢も銀漢かもしれんな」と思う。「脚力尽きる時、山更に好し」(蘇武)――「人は脚力が尽きる老いの最中に、輝かしいものを見ることになるのだろうか」と描く。

担当編集者が、「葉室さんがよくおっしゃっていた言葉は『負けたところからが人生』『人生も後半に差し掛かったとき、その悲哀を越えでゆく生き方があってほしい』」と言っている。


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猛暑となった724日、東京北区の赤羽台に新設されたURの団地・住宅のミュージアム(URまちとくらしのミュージアム)を訪問。100年前の関東大震災後に建設された同潤会代官山アパートや戦後のDK (ダイニングキッチン)スタイルを普及させた蓮根団地(S32)の復元、昭和30年前後の都市の不燃化と高層化の模様(晴海高層アパートのエレベーター)など、団地の歴史と間取りなどが一目でわかる展示を見ることができました。団地の歴史、住宅の変遷、キッチンやバス・トイレの変化など、懐かしさとともに時代の変化を感じ、感慨ひとしおでした。

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この画期的な団地のミュージアムのある赤羽台団地。昭和37年に入居開始となり、当時は東京23区内最大の団地でした。その生活ぶりを知りたいと、アーノルド・トインビーが視察に来たこともあるほど有名。この20年で建て替え・高層化が完了、現在はヌーヴェル赤羽台と言われます。大変貴重な視察ができました。これには、大松あきら都議会議員、須藤あきお北区議会議員が同行しました。 

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subetenohirou.jpg「疲れているのは体じゃない 脳だった!」が副題。1233冊のシリーズの1冊目。「体が疲れている」とは、実は「脳の疲労」に他ならない。仕事や運動をして、体の疲れを感じるのは、エネルギーが不足したからではない。「細胞のサビ」――すなわち、細胞への「酸化ストレス」、体内で活性酸素が過剰に発生することに関わっている。脳の細胞で活性酸素が発生し、酸化ストレスの状態にさらされることでさびつき、本来の自律神経の機能が果たせなくなる。これが脳で「疲労」が生じている状態の「脳疲労」。ヒトはその時に「体が疲れた」というシグナルを眼窩前頭野に送り、「疲労感」として自覚すると言う。運動などで体への負荷がかかると、「自律神経の中枢」もフル回転で心拍、呼吸、体温を調節しなければならない。この「自律神経の中枢」の疲労こそが、運動疲労の正体なのだ。だから、達成感のある仕事が過労死を招く。ランナーズ・ハイ、高揚感も危険。自律神経(交感神経と副交感神経の2系統)は、人が健康に生きていくために最も重要な器官。変調が起こると、質の高い睡眠が得られなくなり、心拍コントロールが困難となる。終業後のスポーツクラブ、土日の早朝ゴルフは危険だと言う。

「乳酸は疲労の原因ではない。疲れの直接の原因となるのは活性酸素である」「激しい運動とともに、活性酸素をたくさん発生させ、疲れの元になるのが紫外線。マラソン選手がサングラスをかけるのは重要」「疲労回復因子FRが疲労因子FFを抑制する」「疲労回復因子FRは加齢などによって反応は低下する」・・・・・・。

それでは、疲労回復因子FRの反応性を高めて、脳の疲労を改善するため何をしたらいいか。第一には良い睡眠。良質の睡眠が得られれば疲労因子FFによる酸化・損傷を回復させるに十分な疲労回復因子FRが分泌されるため、脳の疲労は回復する。疲労回復の決め手は、睡眠開始の3時間。1時間ほどで深いノンレム睡眠に至る。いびきは疲労の大きな原因となる。帰宅後は強い照明は避け、入浴が良い。第二には脳疲労を改善する食事成分。疲労回復成分「イミダペプチド」が効果的で、鶏の胸肉がいい(マグロやカツオも)。「クエン酸」もいい。レモンやグレープフルーツ、梅干し、酢など酸っぱいものに含まれる。第三にはオフィスや住空間。「ゆらぎ」のある生活で脳疲労を軽減すること。森の木漏れ日、そよ風、川のせせらぎ、鳥の鳴き声・・・・・・。自然環境の「ゆらぎ」と人体の「ゆらぎ」がシンクロすることが心地よさをもたらす。同じ環境、同じ温度、同じ姿勢ではダメ。デスクワーク中に立ち上がるだけでも疲労が軽減する。ぬるめの湯に10分以内の半身浴。休日は犬や猫を見習ってだらりと。

そして最後に、「脳疲労を軽減するために、ワーキングメモリを鍛えること」。短期記憶に加えて、長期記憶を参照させリンクする。知的機能を担う大脳の前頭葉の前頭前野にワーキングメモリの中枢がある。脳全体を有効活用するということ。ワーキングメモリを強化するときに、大事なのは、記憶の「再生」能力。感動の記憶は「再生」力の向上につながる。物事を多面的に見る習慣、会話のコミュニケーション、多趣味で興味を持つことが重要だと言う。大事なことである。


gudou.jpg頓知の「一休さん」とは大違い。そんな場面は全く出てこない。民衆の人気があったことから後世に作られたようだ。「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」「有露地より 無露地へかえる一休み 風吹けば吹け 雨降らば降れ」「嘘をつき地獄へ堕つるものならば なき事つくる釈迦いかがせん」「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って 後は死ぬるを待つばかりなり」・・・・・・。禅と詩偈に狂い、風狂、破戒の道を生きた一休宗純の異端の姿を描き出す。

室町時代、高僧になれとの母の願いを受けて、京都の臨済宗の寺で修行に励む千菊丸(後の一休)だが、五山に支配された禅寺は腐敗し切っていた。詩才は認められたものの、彼は怒りを持って反発、心身を害し、死に近づくほどの苛烈な修行に身をやつしていく。

母は後小松天皇の寵愛を受けていた、しかも南朝の楠木一族の女性。そうした帝の血をひく千菊丸の前に、将軍寵臣の赤松越後守が現れ、自らの権力闘争に利用しようとしてくる。

南北朝統一後、飢饉、疫病、災害が続き、屍を野犬が食う有様。土一揆が頻発し、やがて応仁の乱で京は焼け野原と化していく。一休の求めたまことの禅は五山の支配と腐敗・堕落のなか、どこにも見い出すことができなかった。本当の救いとは、人間とは、無とは何か。一休は民衆の真っ只中に身を投ずる。女も抱く。破戒もする。己の中に流れる南朝と北朝の血、野心と奸智の赤松越後守を殺害した山名宗全とのアンビバレント的関係、同じく禅を極めようとする師兄・養叟との相剋、傾城屋の遊女・妬月子(地獄大夫)と森(しん)との出会い・・・・・・。激しく生きる者達たちの接触には、火花が飛び、亀裂には血が噴出する。山名と細川の激しい抗争、いつまでも燻る南朝再興の動き、絶望的な民衆の苦悩。室町時代後期の窮状が破戒僧一休に収斂されるかのようだ。養叟との相剋はまことの禅の闘争だけに激しい。簡易な大衆禅が真なのか、破戒と修行に徹する風狂禅が真なのか。

愚道一休は長生きだった。「一休は己という容れ物が円に変わった様子を想像した。それが、究極の一点へと集約されていく様を、六根全てを使って感じようとした。美しい円は、極限の点へと変わる。刹那、一休は叫んだ。渾身の力を使って。己の六根を全て滅却して。無――と」と結んでいる。


jiyuuto.jpg「自由とセキュリティの相剋」という命題は、「多元主義と一元主義」「多様性の重視か安全への渇望か」「人権か覇権か」という複雑かつ広範な問題であり、現在世界を覆っているポピュリズムの問題でもある。「ポピュリズムの定義は定まってないが、多元性、多様性を否定し、一元的・集権的な政治を求めるものであることは間違いない。真の人民を代表するのは自分たちだけである、それ以外は『人民の敵』などとして排除するところにポピュリズムの特徴がある」「これが出てくる背景には、経済のグローバル化によって、雇用の安定性が脅かされたり、外国人が増えてなんとなく不安であるとか、文化的な一体性が損なわれるといったセキュリティ低下の意識があるといえる」と言う。コロナ禍やロシアのウクライナ侵略、欧米の選挙における右派ポピュリズム政党の跋扈、世界における専制主義の台頭。「強い指導者を求めるというより、むしろ誰でもいいから、社会をまとめてもらいたい」という空気のなか、「自由と多様性」が脅かされる現在への警告を、政治思想の名著6作から提示する。ミル、ホッブス、ルソー、バーリン、シュミット、フーコーの6人だ。

「自由とセキュリティの相剋」は本質的問題だ。生命や生活の安全、セキュリティを考えれば、人々が力を合わせ、意志を統一させ、現存秩序を維持することが重要となる。自由を重視する政治理論は、「どう生きるべきかは人それぞれであり、どの生き方が正しいという確証がない以上、一つにまとまることはできないという考え方」であり、「絶対的に正しい秩序というものが保障されないとすれば、秩序への異議申し立ての余地は常に必要だという考え方」だ。「セキュリティ重視の政治理論からすれば、秩序対抗的な動きはセキュリティの低下につながる撹乱要因に過ぎないが、自由重視の政治理論からすれば、秩序を一元化し、それを固定化しようとすることこそが、秩序を牢獄に変え、人々の生活のセキュリティをかえって低下させかねない」と言うのだ。コロナ禍、戦争、経済の不安定、社会の不安と分断、フェイクの暴走など、セキュリティへの危機意識が高まれば、秩序の再構築と一元化への誘惑は高まるが、少数意見を封じ込めた自由軽視のいずれの専制も、歴史の中で脆弱さをさらけ出したと改めて思う。

人も思想も時代の中にある。自国の政治的危機に翻弄されたホッブスは、人間を自由のままにすれば、セキュリティは低下するということから「秩序志向」「国家(リヴァイアサン)」を示す。そして、ワイマール共和国の危機に身を置いたシュミットは、「政治とは戦争である」「政治は緊急事態、例外状態にこそ現れる」「政治的多元主義批判」「セキュリティを確保するためには個々人が自由を放棄して、集団として力を合わせる以外にはない」と発想する。シュミットの影響を受けた丸山眞男の「(日本の戦争主体の)無責任の体系」について、著者は「戦前の日本の失敗の本質はむしろ、価値の多元性を否定した点にあったと考える」と言っている。

ミルは「少数意見擁護論」「個人の自由の領域を幅広く認めようとするには、社会に多様性が必要。多様な意見が確保されることで、社会の知的発展が期待できる」とする。著者は「現在の自由論は、あまりにセキュリティー論の方に傾きすぎている」とし、「自由の条件として、平等や貧困の克服が重要であるとしても、それは充分条件ではない。自由論というのは、それ自体として論じられるべきだ」と言う。

ルソーは「一般意志」による統一を構想する。しかも「一般意志への服従は、共同体全体によって強制される。これは『自由への強制』に過ぎない」と言う。しかしその後、「フランス革命期に『人民の敵』と名指しされた人々が、次々にギロチンにかけられる」ことになる。偉大な人も思想も時代の中にあるということか。

20世紀に入り、バーリンは「ニつの自由概念」を示す。消極的自由と積極的自由の概念だ。「個人に許される範囲と社会によって統制される範囲との境界線に関わるのが消極的自由であり、そこでは個人の内面は問題にならない。他方で積極的自由は、まさにその個人の内面で起きていることを問題している」「消極的自由で特に強力なのは政府による統制」「バーリンは、多元主義の立場から、人々にとっての価値選択が一つにはならないこと、そして一つの理念によって社会をまとめようとすれば無理が生じる」ことを主張する。

フーコーは、「継続する戦争状態というものを国家間戦争の局面でなく、内戦の局面において、つまり国内の征服者と被征服者との関係において見ていく」「ホッブスの戦争状態とは、実際の力の激突としての戦争とは異なり、相手を攻撃するぞという『表象のゲーム』であるとする。血の匂いはしない」「眼目は主権批判」など、「権力のあり方」を論じている。これらの著作を通じ、著者の考えが随所に述べられる。短い新書だが中身は深大。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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