「嘘つき姫」は卓越した想像力、各国を舞台にした幻想からSF作品まで縦横無尽に時空を越えて展開された手慣れ作品であったが、今回の「箱庭クロニクル」の6短編もリズミカル、ファンタジック、変幻自在。切れ味と時代の感性、新鮮さに心地よく翻弄された。
「ベルを鳴らして」――。昭和初期、シュウコは当時、憧れの仕事であった邦文タイピストの学校へ通い、中国人の先生に出会う。頑張り屋のシュウコはタイピングのコンテストで一等になり、「すごいじゃない」と小枝子に声をかけられ親しくなる。戦争が激しくなり、中国人の先生は姿を消す。従軍タイピストとして中国に渡ったシュウコはある日、嘘の印字をする。心の中に先生が宿っていたからだったが・・・・・・。宿命、心中深くの思い、引き裂く戦争、一つの嘘が招く歴史の結果・・・・・・。短編の中に溢れるほどの内容が詰まっている。
「イン・ザ・ ヘブン」――。「学問は自由であるべきだ、エリサ、そうよね?」とママは言い、エリサは学校をやめ、ホームスクーリングを選ぶ。家庭教師に来たアレンから、卑猥で汚らしいと異議申し立てのある本「ライ麦畑でつかまえて」を借りる。ママは、当時活発化してた禁書運動の活動家だった・・・・・・。
「名前をつけてやる」――朝世の部署は、商品デザインを手がけており、ときどき営業が取ってきた海外製品に日本語のパッケージをつける。新しく入ってきた無口のすみれ――。2人のやりとりは歳の違い、感性の違い、そこに生ずる戸惑いなどとても面白い。会話、テンポが絶妙。
「あしながおばさん」――。揚げ物料理専門のチェーン店「かつ料理 勝どき」の定番メニュー<勝ちどきスペシャル>を食べるおばさんのわたし(馬野)は、<勝チドキスタンプカード>が好きだった。そこにアルバイト店員・牛尾れいながいた。
「あたたかくもやわらかくもないそれ」――「『ゾンビは治る。マツモトキヨシに薬が売ってる』それを教えてくれたのはくるみだ」。流行り病"ゾンビ"で親友をなくした女性の不思議な一晩。
「渦とコリオリ」――。バレエが題材。「私は姉の顔を見る。その顔はいつまでも若く幼い。私は留学し、短期間でもバレエ団に所属し、帰国後はバレエの専門学校の講師として招かれ、多くの生徒を輩出しても、姉は『下手くそ』と言い続けた。・・・・・・『そんなターンはない』『右回りだろうが左回りだろうが、お前の動きはつくりものだ』」・・・・・・。
6篇それぞれ全く違うテーマを鮮やかな筆致で描く。
衝撃を与えた著作「AI vs.教科書が読めない子どもたち」から7年。「AIは神ではない」「シンギュラリティは到来しない」「AIは所詮計算機。数学の言語に置き換えることのできないことは計算できない」「数学が発見した論理、確率、統計に決定的に欠けていること、それは『意味』を記述する方法がないということだ」とAIの本質を指摘した。ところが合わせて驚愕の事実を明らかにした。「AIとともに働くことが不可避な2030年代以降の日本の中高生を調査すると、中高生の多くは、教科書を正確に理解する『読解力』を獲得していない」「(AIのできない)意味を獲得していない人間はAIに仕事を奪われてしまう」――。さらに新井紀子先生の凄いところは、中学生が読解力を獲得できるように「RS T (リーディングスキルテスト)」という世界にないプロジェクトに自ら乗り出し、全国展開をするなか着実に成果を上げてきたことだ。本書はこの7年以上の50万人のデータを踏まえるとともに、新たに現れたチャットGPTに対するより精緻な分析、さらにこの重要課題解決への具体的実践を示す圧倒的な著作だ。
「読解力」と言えば、「国語が大事」「若者にもっと読書を」と思われがちであった。そこから「一般的にイメージされている読解力とは、明確に区別するために『シン読解力』と名付けるようにした」と言う。「シン読解力は、いわゆる『読解力』とは異なり、教科書等の『知識や情報を伝達する目的で書かれた自己完結的な文書』を自力で読み解く力」を言う。それはスキルであり、トレーニングによって身に付けることができる。またこの「シン読解力」が学力と強い相関関係にあることが実証される。大事なことである。これがないと中学受験などで無理矢理暗記して例え合格しても、その後どこかで行き詰まると危惧している。
チャットGDPは、まさにチャット(対話型)、大規模言語モデル(GP T)の生成AIだ。すごい発展だが、平気でウソをつく(ハルシネーション、AIの幻覚)。実は「流暢に言葉を操る」ことを最大目標にしたもので「正しさ」を諦めざるを得なかった。
AIの学習には「教師あり学習」「強化学習」がある。政治AI、子育てAI、介護AI、家事AIなどは何を教師データにすれば良いのか、「教師データの不在」があり、「政治をAIに任せよう」とはならない。さらに問題はAIに潜む「外れ値の罠」。膨大な教師データで統計と確率で判断しているAIは、事故は絶対に起こしてはならない「自動運転」には難しい(東大は満点でなくても合格できるが)。要は「AIが人間のようになる必要はない。AIは、人間の役に立つ機械として進化すれば良い」のであり、「チャットGP Tを使いこなす人を育てる」が教育で大事になる。新井先生は「AI vs .人間」ではなく、「人間× AI」であり、その前提として必要な能力が「シン読解力」と言う。
本書後半は、「シン読解力」を具体的に詳述する。「学校教育で『シン読解力』は伸びるのか?」――。義務教育段階では徐々に伸びるが、高校入学とともにピタリと止まると言う。学校教育によって「シン読解力」が向上しているとは言いがたいことがデータで現れている。
「『学習言語』を解剖する」――。「RSTの評価と学力との相関関係の強さを考えると、『生活言語』は獲得できたのに『学習言語』の習得に失敗した子がたくさんいる」「各教科には、それぞれ異なる学習言語があることを意識付けよう」・・・・・・。「『シン読解力』の土台を作る」――。「生活語彙が不足すると、学習言語の獲得に支障が出るので、学校で補う必要がある」「絵本の読み聞かせ、童謡を歌う、歌いながらお遊戯をするなど、体から語彙を獲得させるのはとても良い(小学3年生までに基本語彙1万語を身に付け辞書を引けるようにする)」「学校で今少なくなっている『視写』、もっと書く量を増やす」「認知負荷を科学的な『地道トレーニング』で下げる」・・・・・・。具体的にトレーニング方法を示し、全国の小学校で成果を上げている事例を紹介している。
AI、チャットGPTに翻弄される社会でなく、それを使いこなす社会。そのために「シン読解力」の具体的展開が、喫緊の課題となっている。危機感と熱意が伝わってくる研究、実践の素晴らしい著作。
プロポーズしてくれた恋人が翌日の朝、電車で女子高生を盗撮して捕まった。なぜそんなことをしてしまったのか。恋人を許すことができるか。本人自身の衝撃と悔恨。家族や友人それぞれの異なる考えとアドバイス。何よりも周りの視線・・・・・・。そして性的犯罪の特殊性。日常的にあり得るかもしれない事件の陰影が人生を狂わす空恐ろしさを描く傑作。
カメラマンの新夏は啓久と交際して5年。プロポーズしてくれた翌朝、なんとその啓久が電車で女子高生を盗撮して捕まったことを知る。「二度としない。信じて欲しい」「新夏と別れたくない」「本当にごめんなさい」と啓久は平伏して言うが、新夏は「愛している」、しかし「なぜそんなことをしたのか」「どうしたらいいか」わからない。葛藤の日々が続く。周囲もこの事件に巻き込まれていく。
啓久の母は「結局逮捕されずに済んだの」と言うが、姉・真帆子は新夏に「今なら引き返せるから流されないで」と別れろと言う。高校からの新夏の友達・葵は「大企業勤めで、実家が太くて、大きな減点要素もない男を手放してどうするの? もう30だよ」と別れるなと言う。「恋とか愛とかやさしさなら、打算や疑いを含んでいて当然で、無垢に捧げすぎれば、時に愚かだ幼稚だと批判される。なのに『信じる』という行為はひたすらに純度を求められる。一点の傷や汚れも許されないレンズのように澄み切っていなければ、信じていることにならない」・・・・・・。
新夏の父親は離婚しており、新夏はその真相を知っていく。「あの火事以降だめになっちゃったんだよな、俺」「いろんなこと考えちゃって、シャッター押せなくなった」。「父が生活を怠った結果、母の愛はすり減って、持ち堪えられなくなった」・・・・・・。
盗撮の被害者・莉子が啓久に接触してくる意外な展開。その母親はYouTubeで、莉子の日常なども「男の目線」で撮って流していると言う。「だからあたし、スカートの中撮られるのなんか、全然へーき」・・・・・・。
自分を見る他者の目・レンズ。自分を見る自分のレンズ。そのカメラマンのレンズの光彩も歪みも、その人自身の内奥に沈潜する末那識、阿頼耶識から噴き出すものであることを、実に巧みに描き出している。恋とか愛とか信じるとか許すとかーーそれを切り取るレンズとは・・・・・・。
「デフレの謎、インフレの謎」が副題。30年続いたデフレの日本。コロナが終わり、米欧では急性インフレが始まったが、日本は外から来る急性インフレと長く続いたマイナス1%程度の緩やかなデフレのせめぎ合いの中にあった。米欧に遅れること1年、物価が上がり賃金が上がる日本へと動き始め、今年春はいよいよ「物価が上がるが、それ以上に賃金が上がる」日本になろうとしている。アベノミクスで挑んだデフレ完全脱却であり、人手不足時代もあって賃金上昇は持続することになる。私はデフレ脱却、ノーマルの経済への重要な年になると思う。
著書「物価とは何か」「世界インフレの謎」で経済の大転換を読み解いた渡辺努氏が、「なぜ日本だけデフレは慢性化したのか」を解読し、「米欧はインフレが終われば、今回のインフレが始まる前の2%程度に戻っていく」「日本も1年遅れで2%程度に落ち着くか、インフレ前のデフレに戻るかの2択」と言う。
「デフレとは何だったのか、異端の国・ニッポン」――。「日本は物価と賃金が毎年据え置き、金利はゼロ」という日常にすっかり慣れきってきた。「物価は上がらないもの、賃金は上がらないもの、金利は上がらないもの」という3つのノルム、「慢性デフレ」だ。そこには「価格支配力の弱い企業、値上げを嫌う消費者」の日本がある。世界の中で日本だけが物価は据え置かれるものだと信じてきた。この慢性デフレは「1995年の日経連報告書。低賃金の中国企業との競争に勝ち抜くには、賃金の据え置きが必須と主張。賃上げを控えようと労働組合も社会もなった」が慢性デフレの始まりだと指摘する。
「なぜ今デフレが終わり、インフレが始まったのか」――。人々が「先々、物価は上がるだろうと思い始めた」。「安いニッポン」の危機感や人口減少、労働供給の減少、海外のインフレの大波などが、インフレ予想をもたらした(日経CPINOWに明らか)。そして物価の正常化、賃金の正常化、金融の正常化が動き出す。
「政府・日銀の大きな方向転換は、総需要の管理から総供給の管理への移行。・・・・・・慢性デフレの原因は総需要の不足ではないし、総需要を刺激したとしても、慢性デフレは解消しない。原因は、商品の値段を決める。企業と労働サービスの値段である賃金を決める労働組合の予想が歪んでいることであり、企業と労働組合のプライシングに狂いが生じていること。有効な処方箋は、この狂いを修正すること」――これが正常化への道と強調。この正常化が続けば2027年の年末には政策金利が2%を超えるところまで到達すると言う。
「デフレはなぜ慢性化したか――デフレの原因は需要か供給か」――。需要が弱ければインフレ率が低下し、場合によってはデフレに至ると通常言われるが、その価格調整の期間はせいぜい3年から5年。30年も続くとは経済学者の誰も考えていない。「アベノミクスの結果を見ても、慢性デフレを需要不足だけで説明するのは難しい」「慢性デフレが賃金据え置きの原因から始まったという本書の立場に立てば、デフレ脱却の政策ポイントはいかにして、企業に賃上げをさせるかだ」と言う。
「総需要の喚起がインフレ率上昇につながらなかったのはなぜか」――。「異次元緩和のほころびは、①マネーの供給を増やせば、市場金利が下がるという部分で経路が遮断された②総需要が増えれば、物価が上がるという部分で経路が遮断されたーーの2つ」「異次元緩和の敗因は、総需要刺激の力不足ではなく、総需要の増加を価格上昇へとつなげる総供給サイドの機能不全であった。企業の価格支配力を高める政策や下請け企業の価格転嫁を促進する政策、最低賃金の引き上げなど、総供給サイドの政策が大事」と言う。「日本の賃金が中国と比べ高すぎるというのは、既に過去となっているのに、賃上げと値上げをダラダラと『自粛』してきた日本」が転換する時がやっときた。
物価と賃金と金利――実に丁寧に、悩み苦しんできた「慢性デフレ」を専門的研究の中で解読してくれている。
越後国魚沼郡の南端にある塩沢村の縮仲買商・鈴木牧之。19歳の時、行商に訪れた江戸で、ふるさと越後の雪の多さなどが、まるで知られていないことに驚き、雪を主題とした随筆で、雪国越後を紹介しようと決意する。やがて彼の書いた「雪話」は、人気戯作者の山東京伝の目に止まり、出版へと動き始める。しかし山東京伝も本気で取り合ってくれず、版元からの金銭要求や仲介者の死去等もあり、事態は暗礁に乗り上げ、年月のみが経過する。
やがて、原稿は山東京伝への敵対意識に燃える曲亭馬琴の手に渡る。馬琴は12年間も本気で板元を探すでもなくほったらかしにした上、牧之の催促に腹を立て、送った膨大な原稿を捨てたとまで言う。牧之は虚々実々の江戸出版界に翻弄され、何十年も放置されたのだ。特に馬琴の狷介、固陋、京伝への敵対心はあまりにもひどいもので、牧之の人生をかけた願いを踏みにじり続けた。
ようやく山東京伝の弟・山東京山が乗り出してくれる。「やはり会って話さねばなるまい。牧之さんが越後の話を書こうと思った経緯を。なにゆえ何十年にもわたり、ひとつの事柄を紡ぎ続けたのか」と越後に訪ねてくる。そして天保8年(1837)に「北越雪譜」が刊行される。実に山東京伝に依頼してから40年が経っていた。67歳になっていた。
京山は「私には戯作者としての抜きん出た才はないかもしれぬ。兄ほど評判の作も書けぬ。そういう者が秀でるにはいかにすればよいと思う。それは、ひたすら実直に書き続けることさ。手を抜かず、欲を張らず、多くを望まず、ただただ生一本に書いていくことだ」と言う。牧之もそうだろう。また京伝は京山にこう言ったという。「戯作においては、何でもかんでもつまびらかにせずともよいのだ。正体がわかれば、胸のつかえは下りるだろうが、この世の中は、正体の知れねぇものばかりなのだ。俺にしたって、お前にしたって、一見しただけじゃあわからねぇものを、密かに抱えているだろう。いかに戯作といっても、何でもかんでも白日のもとにさらすのは、野暮でしかねぇのだ。不可解な事は、不可解なままに描くのが一番なのよ。わっちら戯作者は神じゃねぇんだからさ。神どころか、世の底の底を這いずってねぇと、ろくなものは書けねぇんだぜ――」・・・・・・。
「越後の鈴木牧之、その諦めない人生」というが、刊行40年。名著「北越雪譜」はけたはずれだ。