「ソーシャル・アバランチを防ぐには」が副題。データ改竄、不正会計、品質不正など、なぜ有名企業の不正はあとを絶たないか。派閥の「政治とカネ」の問題もそうだ。その組織不正が続いていることの原因について考察する。
「組織不正は、いつでも、どこでも、どの組織でも、誰にでも起こりうる。なぜなら、組織不正とは、その組織ではいつも『正しい』と言う判断において行われるものだからだ」「個人が『正しさ』を追求することによって、個人的雪崩、組織的雪崩が起き、ひいては社会的雪崩が起きる」「とりわけ組織不正に着目すれば、組織的雪崩をいかに防ぐかが大事である」「重要なことは単一的=固定的な『正しさ』を相対化するための複数的=流動的な『正しさ』をいかに確保して行くかである。とりわけ役員レベルにおいては、女性役員の登用のように、性差、年齢、国籍、経験など多様性が保たれることが重要である」と言う。特に組織不正の発生とその広がりを「社会的雪崩(ソーシャル・アバランチ)」として説明し、個々の不正行為がどのようにして、組織全体に雪崩のように影響及ぼすかを示している。多くの研究では、組織不正が「危うさ」によって引き起こされるとされてきたが、本書はそうではないとする。「誰もそのことには気づかずに長い間状態化してきてしまった」とよく言われるが、「組織にいる多くの人々が、何かしら『正しい』と考えている状態があって、それを疑うことなく、長い間続けてしまったというのが組織不正の本質ではないか」と考察している。それが積もれば積もるほど雪崩となるのだ。
具体例が示される。まず三菱自動車・スズキの燃費不正。国交省、経産省と自動車企業との「正しい」とされる燃費基準の差異が問題を生んだと指摘する。
東芝の不正会計問題――。経営陣が事業部に対して過度な利益達成目標を押し付け、それに耐えかねた社員が、利益の水増しなどを行ってしまったもの。無理を強制して現場を追い込んでいる。トップの経営陣がミドルの事業部に利益目標を一方的に伝えるのではなく、ミドルに権限を与えて、自ら利益目標を計画させ行動できるようにすることの重要性だ。どの組織にも「会社のため」と「部門のため」の「正しさ」があるわけだ。
医薬品業界の品質不正――。ジェネリック医薬品の増産を求める「骨太方針」の下で「国―都道府県―製薬業界」に何が起きていたか。
そして大川原化工機を襲った軍事転用不正の疑い――。これは「閉じられた組織の中の『正しさ』」が次々と雪崩を生んでいく怖さだ。さらに「倫理的な『正しさ』もまた組織的雪崩を生む」を指摘する。
どの組織にもある権力構造の歪みが、組織不正を生み出してしまう。それを「組織不正はいつも正しい」と言う表題で抉り出している。
田沼意次は賄賂にまみれた悪徳政治家だったのか――その実像を第9代将軍徳川家重に見出され、第10代将軍徳川家治の信頼の下、邪念なく戦い続けた改革者として描く。意次の胸に常にあったのは、「この者は<またうど>の者なり」と家重からいただいた言葉(あの動かぬ手で懸命に書き付けてくれたもの)であった。「またうど」とは「全き人。愚直なまでに正直な信(まこと)の者」ということだ。
田沼意次が家治に仕え舵取りを任されたこの時代――江戸の大火、浅間山の噴火、飢饉に打ち毀し、商人の台頭と貨幣経済の黎明期。困難と激動が続いた。「意次には確信がある。五十年後か百年後か、意次のやりかけたことはいつか必ず実を結ぶ。蝦夷地の開発も印旛沼、手賀沼の干拓も、貸金会所も南鐐ニ朱銀も――。そのとき意次はこの世にはいない。だが、己のしようとしたことは間違っていない。その未来が意次にははっきりと見える。だから罵られ、禄を奪われても意次はへこたれるまい。意次はまたうどだ」・・・・・・。
身分の低い者も実力さえあれば登用し、交易に役立つ俵物を手に入れるため、蝦夷地開発に乗り出す。江戸税制の改革者として商人にも課税。新しい5匁銀を鋳造し金貨と銀貨が同じ曲尺の上にある貨幣だとする貨幣経済の道を開く。「付け届け」は多かったが、全く無頓着で開封することさえなかった。そこには"まいまいつぶろ"家重に仕え、何一つ受け取らなかった大岡忠光の姿を目のあたりにしていたからだった。
汚職政治家の汚名を着せられた田沼意次は思う。「人はなぜ身に余る位や物を望むのか。この世には御役を果たすほど愉しいことはない」と。この嘆息こそが意次の本心であったと本書は描く。懸命にただただ仕事をし、「付け届け」を放置していたのだ。これが後に仇となるなるのだが・・・・・・。
しかし突然、家治の死によって、老中を罷免され領地まで失う。家治の嫡男・家基が18歳で事故死しており、権政は一橋家の治済の子息が第11代将軍・徳川家斉となる。これに白川藩の松平定信が老中としての実権を握り、意次らの改革を何から何までひっくり返したのだ。
意次は逍遥として受け止める。「全てを奪われても、志を奪うことは誰にもできない。いつか必ず、次の一里を行くものがある」と。
文化庁が9月発表したデータによると、「月に1冊も読書しない人が62.9%。5年前より15.3ポイントも上昇した」という。スマホやタブレット等によって読書時間が奪われているという。本書は、「仕事に追われて、趣味が楽しめない」「スマホを見て、時間をつぶしてしまう」というなか、「本を読む余裕のない社会っておかしくないか」「どうすれば労働と読書が両立する社会をつくることができるのか」を問いかけ、「働きながら本を読める社会」を提唱する。
明治以来の労働と読書の歴史をひもとく。「明治時代――労働を煽る自己啓発書の誕生(日本初の男性向け自己啓発書『西国立志編』)」。「大正時代――『教養』が、隔てたサラリーマン階級と労働者階級」。「昭和戦前・戦中――『円本(全集)』ブームと教養アンチテーゼ・大衆小説」。「1950〜60年代――『ビジネスマン』に読まれたベストセラー(源氏鶏太のサラリーマン小説、教養より娯楽) (長時間労働時代で、サラリーマン小説やハウツー本の興隆)」。「1970年代――司馬遼太郎の文庫本を読むサラリーマン(テレビによって売れる本の誕生と週休1日制のサラリーマン) (社会不安の時代に読む懐メロの『竜馬が行く』『坂の上の雲』)」。「1980年代――女たちのカルチャーセンターとミリオンセラー(コミュ力時代の到来、70年代の教養と80年代のコミュ力)」。
「1990年代――行動と経済の時代への転換点(さくらももこと心理テスト)(『脳内革命』と<行動>重視の自己啓発書、<内面>の時代から<行動>の時代へ)(読書離れと自己啓発書、読書とはノイズであり自己啓発書はノイズを除去する)」。この1990年代が新自由主義の萌芽と、労働環境の変化するなか、「読書をノイズ」として、自分の自己啓発に直接役立つものに傾斜し「読書離れ」の変化をもたらすことが実感としてもよくわかる。そして「2000年代――仕事がアイデンティティになる社会(労働で『自己実現』を果たす時代) (IT革命と読書時間の減少)(インターネットの情報の『転覆性』、情報も自己啓発書も階級を無効化する)」・・・・・・。
そして2010年代から今だ。焦点とするのは、「IT革命と読書時間の減少」「『情報』の台頭、『情報強者』による従来のヒエラルキーを転倒させる力・ポピュリズム」「読書はノイズなのか」の問いかけだ。三宅さんは、「『読書的人文知』には、自己や社会の複雑さに目を向けつつ、歴史性の文脈性を重んじようとする知的な誠実さがある。一方、その複雑さを考えず、歴史や文脈を信じないところ、つまり人々の知りたい情報以外が出てこないところ、そのノイズのなさこそに『インターネット的情報』(ひろゆき的ポピュリズムの強さ)がある」「求めている情報だけを、ノイズが除去された状態で読むことができる。それがインターネット的情報なのである」と言う。読書には読者が予想していなかった展開や知識や教養との出会いがある。ネット情報にはノイズがなく、知りたいことだけを知る。ネットは自分の欲しい情報を得るための場であるのだ。
三宅さんは「問題は、読書という偶然性に満ちたノイズありきの趣味を、私たちはどうやって楽しむことができるのか」と問題提起する。そして、「大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないこと。仕事のノイズになるような知識をあえて受け入れること。仕事以外の文脈を思い出すこと」等を挙げ、それが「働きながら本を読む一歩ではないか」「自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである」と言う。そしてその余裕がない社会であるならば、「働いていても、働く以外の文脈というノイズが聴こえるえる社会」を目指し、「『全身全霊』を褒めるのをやめませんか」「半身社会そが新時代、働きながら本を読める社会をつくるために半身で働こう。それが可能な社会にしよう」と呼びかける。
身の回りの直接的情報ばかり知ろうとし、スマホにますます依存して情報に翻弄されている現在に、「読書」から一石を投じている。本書がベストセラーになっていること自体、望みがあるということだろうか。
かつて、名探偵の時代があったとする。平成中期、難事件が発生するや、名探偵が正義の味方として現れて、その場で警察を差し置き鮮やかに事件を解決して脚光を浴びる。しかしその後、ブームは去っていった。
それから20年も経過した令和の今――。かつて名探偵として活躍し人気を誇った五狐焚風(ごこたいかぜ)が、夫とともに喫茶店を営む元助手であった鳴宮夕暮を訪れる。20代の頃に名探偵と助手のコンビとして一世を風靡したニ人だったが、令和になった今、YouTubeの人気チャンネルで、突如、名探偵の弾劾が始まり、その槍玉に挙げられ炎上し始めていた。約20年ぶりの再会。2人はかつての事件を検証する旅に出る。夕暮は五狐焚風シリーズとして本を出版しており、それもたどることになる。
最初の事件は「骨格標本になった兄」――。大学構内で「人体の神秘展」が行われて、遺体の標本がなんと職員の兄だったという事件。第二の事件はクリスマスイブにペンションで起きた「鬼屍村連続殺人事件」。第三の事件は「瀬戸大橋急行殺人事件」――瀬戸大橋を渡る特別豪華列車内で起きた爆破事件。社長は爆破で死んだのか、すでに死んでいたのか。第四の事件は「飛ぶ神と飛ばないお父さん」。瀬戸内海に浮かぶ無人島に作られた教団で、教祖の嘘を暴いて、息子の洗脳を解こうとする話。息子は夕暮れが本にしたおかげで、その後の人生で大変苦労する。「名探偵がいかに有害か、助手の有害性」だ。第五は「少年が神話になった日」――学校でクラスメイトが殺される。第六の事件は「巨大施設は大迷宮!」――プロデューサーの男性が、2階席から落ちてくる。既に死んでいたのか落ちて死んだのか、さて犯人は? 第七の事件は、本にはなっていないものだが、寒い師走の夜に起こった「荒川河川敷射殺事件」――。いずれも、奇想天外な事件で、名探偵が、鮮やかに謎解きをしたのだが・・・・・・。
20年余り経過し、犯人とされた者のその後、関係者の今でこそ話せる真実などに触れる。平成のテレビ時代と令和のネット時代の価値観の大きな変化。マスコミの作った虚像の時代とネットで直接直ちに拡散され非難される時代の劇的変化。風と夕暮は、鮮やかに断罪したつもりが、真実はそれとは少しずれていることを改めて感じるのだ。スパッとした正義の切れ味は、実は事実の部分を切り落としたからこそ生まれたものだ。「昔みたいな名探偵の出番は、現在ではもうない。あの頃の名探偵は、必要性と有害性を両方持ってて、名もなき誰かの犠牲を出しながら、前に前に進んでいた。事件は解決したけど、いろんな人を傷つけてもいて、そんな些細な犠牲は無視していいんだって、なんていうか、きっと、みんなが。名探偵だけじゃなく、わたしたちみんなが」と思うのだ。
事件をめぐる検証の旅は、人生の謎を解く旅ともなった。「過去の自分がいつも正しかったわけじゃないってわかったことが、俺にとっての収穫だった」「モトオクと話しても、自分が良かれと思ってしたことが、向こうを困らせてたとか、推測したことが事実と違ったとか。夫婦関係悪化事件の謎が、今になって、一つ一つ解けてきたんだ」と風は思う。夕暮は「あぁ、人ってわからないものね。人のことって、持ってるものばかり見えて、持ってないもののことは見えなかったりするもの。その逆もあるけど。誰のこともわかっちゃいないんだよね」と思うのだ。そしてニ人は前を向く。そんな人生論を思い起こさせる独特な小説。
緊張高まる北東アジアの安全保障、自然災害の頻発するなか海の安全の確保、領海・ EEZを含めた総水域面積世界第6位の広大な海洋権益を守るなど、海上保安庁の果たしている役割は極めて大きい。しかし、「海猿」「DCU」などで、少しは知られるようになったが、最前線で戦っている海の警察・海上保安庁の実態はそれほど知られていない。あらぬ誤解もある。「海上保安庁にまつわる様々な誤解を解いた上で、組織運営の実態を知ってもらい、地に足のついた国家安全保障の議論をしてもらいたい」と、2年前までトップを務めていた元海上保安庁長官の奥島高弘さんが、果たす役割と存在意義を率直に、かつ生々しく語っている。
「国民みんなに知って欲しい海保の実態」――領海警備、海難救助、海洋環境の保全など、海保のステータスは上がっている。そのなかで、「海保の非軍事性を規定している庁法25条」は特に重要。海保が非軍事組織であり、軍事活動を行わない組織であり、法執行機関であるメリットは極めて大きい。
「海保を軍事機関にするべきか」――。軍隊同士の衝突では、直ちに戦争になる。軍事活動を行わない法執行機関であるがゆえに、「紛争回避に資する特性(緩衝機能)」がある。「領海警備を非軍事機関が担っているのは日本だけ」と言う誤解があるが、海上における法執行を軍隊ではない法執行機関が行うことは今や世界の趨勢となっている。東南アジアでは、海上保安庁モデルのコーストガードが多い。しかも第6軍と言われるアメリカ、軍事組織に属している中国のコーストガードも通常行っているものは非軍事のもの。「安全保障上重要なのは、コーストガードと軍隊の連携」であり、コーストガードを軍にすれば、重要な「緩衝機能」が失われる。「今や海上法執行機関としてのコストガードの存在は、紛争解決の手段として『軍事』『外交』に次ぐ第3のカードになると期待されている」と言う。
その「海保と自衛隊の連携・協力」――。「有事の際に海上保安庁は、防衛大臣の指揮下で武力を行使する」とか、「海保と海自で船舶燃料が異なるのは致命傷」「護衛艦を巡視船に転用すれば海保の戦力強化になる」「弾薬を共用できないのは致命傷」などは全くの誤解。私の国交大臣時代もそうした誤解がよくあった。丁寧に、具体的に、本書では解説している。
「海上保安分野で世界をリードする海保」――。日本の海上保安庁が多国間のコーストガードの取り組みをいかに主導してきたか、国際会議を開催するなどリードしてきたか、世界トップクラスのコーストカードとして信頼に足る「実力」が認められているかが説明される。納得する。
「海保は"絶対"に負けられない」――。尖閣諸島で「ほぼ毎日、接続水域内にいる海警船」の状況と、それに対し使命感を持って戦っている海保の実力、士気の高さが示される。
そして法の支配に基づく「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」の実現を主導的に推し進める日本の中で、非軍事の法執行機関である海上保安庁の重要な役割が現場を踏まえて述べられている。元長官の思いが伝わってくる。必読の書だ。