1787147974203.jpg世阿弥を描く読み応えのある素晴らしい力作。世阿弥の生涯は、明らかでない部分も多く、生まれ(1363年?)も没年(1443年?)も明らかではない。父の観阿弥の後を継ぎ猿学を深化し、「風姿花伝」等、多くの書を残すが、その生涯はまさに波瀾万丈、最後は佐渡に流される。その裏には、南北朝時代の混乱が、凄まじい『業』の絡み合いのなかで展開され、それがそのまま世阿弥の栄枯盛衰の生涯に投影されたことがある。その歴史の秘面を引きずり出すように本書は描かれる。迫力満点、実に虚実を綯い交ぜにしながら描き切った力作だ。

本書の軸となるのは、世阿弥が「藤若」と呼ばれた少年時代から、恋情といえる絆で結ばれた宮増座の鼓打ちの次弥太。実は、この次弥太は南朝の楠木正成の子孫で北朝に抗い続ける男子だった。さらにその一統の「つばき(寿椿尼)」が世阿弥の妻となるのだ。

ところが、これも宿命的。藤若は足利三代将軍義満の寵愛を受け猿学ともどもぐっと引き上げられる。それまで庶民的な田楽が主流であったのを猿学にひっくり返したのが義満だ。ところがこの義満、とてつもない男女を問わない異常な性欲で蹂躙の日々を送るとともに、天皇家にわが血筋を送り込まんとする野心・野望の持ち主だった。実は世阿弥の嫡男・元雅は義満の子であり、義満が嫡男・義持(4代将軍)を差し置いて継がせようとした義嗣は世阿弥の子だった。

だからこそ、義持は第4代就任後、一顧だにされなかった義満への恨みを晴らすかのように、ことごとく父親の築き上げたものを次々に覆していった。猿学を退け田楽を贔屓とし、世阿弥等は一気に苦境に陥る。加えて南北朝。義満は合一を実現し三種の神器を南朝から戻させたが、一代ごとに交代させるとの約束は反故にされ、南朝の小倉宮家、楠木の一統には怒りが充満する。天皇家と幕府、南朝と北朝との戦い、権力中枢と田楽と猿学の争覇、猿学内の思惑・・・・・・。それらが錐揉み状態で世阿弥、息子の元雅、元能らに襲いかかる。

「なぜ世阿弥は佐渡に流されたか」「なぜ義持は自分の後継を最後まで決めずくじ引きになったのか」「なぜ将軍は義満も義持も唐突な死を迎えたか」「なぜ南朝は合一後も戦い続けたのか」「第6代足利義教はなぜ狂気に走り斬首や死罪・流罪を繰り返したか。くじ引き将軍、還俗将軍と揶揄され、癇癪を起こしたのか」・・・・・・。「鹿苑院様(義満)の残酷なお戯れに端を発した運命の糸は、もつれにもつれて、いよいよどうにもならぬところまで来ていた」・・・・・・

そして義教と世阿弥は直接対決する。「おのれ! 世阿弥・・・・・・。たれか、この河原乞食の首を刎ねい・・・・・・」――。一つ一つの事件の裏にある「業」と「権力」の絡み合いが驚くべき深海から抉り出される。力業の筆致に身体ごと持って行かれる。

「なぜ能は面をつけ、摺り足となっているのか」――。これも世阿弥が目弱(弱視)で視界も広くなく、足元も暗くおぼつかないことに、「すっぱ(忍者)」の次弥太が共に悩むなか作り上げたものであると言う。

「それを、花というのだ。それが夢幻の能の心、能の要諦は花である」「秘すれども、秘せざるが如く。それが花だ」――。不詳の部分もある世阿弥の生涯を小説で歴史の穴を埋めて描き上げ、世阿弥と南北朝時代を鮮やかに剔抉した素晴らしい力作だ。


1787147922157.jpg2007年、47歳の若さで亡くなった文筆家、哲学者の池田晶子さんの47のエッセイ。全てが「生死」について易しい言葉で綴られていること自体すごい。「考えずに流れてくるものを鵜呑みしている」「本質を考えようとしない」現代人に突き刺さる言葉が続く「考えさせられる」哲学エッセイだ。

「生死事大。大事な問題は決まっている。生死こそが、人間の最も本質的な問題だ」「年齢も経験も現在の状況も関係ない。生死することにおいて、人は完全に平等である。すなわち、生きているものは必ず死ぬ。癌だから死ぬのではない。生まれたから死ぬのである。癌も心不全も脳卒中も、死の条件であっても死の原因ではない。すべての人間の死因は生まれたことである。・・・・・・自ら考え、納得する人生でなけりゃ、しょうがないでしょうが」「精子と卵子が結合する確率は何十億分の一である。これは奇跡的な確率である。私の存在は奇跡的である。・・・・・・なぜ、その生命体が、この自分なのか。その生命体であるところの自分は、どのようにして存在したのか。これはどう考えても理解できない。なぜこんなものが存在しているのかわからない。だから、奇跡なのだ。・・・・・・生きることが奇跡なら、死ぬことだって奇跡である」「永遠的循環の中の、一回的人生。今生きているということ自体が奇跡的なことである」「人生の一回性、喜びも悲しみも一回きりの経験である。そういう経験の総体としての人生というものそれ自体が一回きりのものである」「『生と死』と分けて考えるところから、面倒が生じる。生がなければ死はなく、死がなければ生はない。言葉以前のこの存在を指して『存在』と言うことにしている。『人がなぜ生きるのか』と私に問う人がいる。私は、『存在するから』と答えるのを常にしている。なお『なぜ存在するのか』と問われたら、『さあねえ』と答えますね。よほど正直でしょ」・・・・・・

今の時代、闘病生活までブログで上げる人がいる。「この人何を勘違いしているのだろうと私は思った。なんで他人に見せることが優先されるのだろう。人は人生で一度しか死ねないのである。死ぬということは、人が本質的にものを考え始める絶好のチャンスなのである。人とは何か、自分とは何か、宇宙が有るとはどういうことか。それなのに、絶好のチャンスすら、こういう人は他人に自分を顕示することに浪費してしまうのである。・・・・・・(今で言えばイイネなど)この世代の『共感』らしい。大事な時に、大事なことを深く徹底的に語り合う友というのを、この世代の人々はしないのだろうか。まぁ要するに、そういうことを黙って独りで考えることができない人類の出現である」「我々は便利な通信機器のおかげで、言葉の力をすっかり見くびっているのである。言葉の力を侮ってはならない」・・・・・・

団塊の世代にも厳しい。「団塊の世代が還暦である」頃のエッセイだ。「あの世代の人の一般的特徴とは一言、『ものを考えない』、これに尽きると私は思う。ご本人たちのいわく『社会変革の理想に燃えた世代』。ウソをつけだな。社会批判とものを考えるということは全然違うこと。考えるというのは黙って一人で反省する、内省することをいうのである。『俺たちの死に方を若者に見せるのが、俺たちの務めだ』などと言うがどこまでも勘違い。死とは、それについて一人で考えるものであって、他人に見せるものではないのである。だって死ぬのは自分なんだから」・・・・・・

「アンチエイジでサルになる」――。「老いへの恐怖は裏返し、若さへの執着である。若さは快楽の源泉だからである。楽しむだけ楽しんだら人生に用はないとしたらサル、動物的生存である。快楽のために若さに執着し、中身は無内容のまま年老いたそのような人にこそ、『老醜』という形容がふさわしくはないか。存在と時間、時間の時熟。この味わい、この思索が何ともおいしいのである」「人生の一回性。老いるというこの一回限りの経験も貴重なものだと思えるはずではないか。健康の時の経験も、老いて病んだときの経験も。老いを拒絶し、思索も知らず、若さと健康の快楽にしがみつき続ける人間とは、早い話がサルである」「生きるとは加齢すること老いること以外の何ものでもない」・・・・・・。「お肌に出てきたシワやシミは、そっくり心の襞や翳だ。襞や翳は人生の味である。それこそが人生の味わいである。どうしてわざわざ心を若く保つ必要などあるだろう」・・・・・・

「現象をそのまま受け取り、次の現象に流されていく『ものを考えるということをしない』現代社会」――。「私には、本質的にしかものが考えられないという、どうしようもない癖がある」と言う池田晶子さん。今生きていたらまだ66歳、そう思ってしまう。 


1787147848121.jpg女たちが見つめた豊臣家の栄枯盛衰。本書は豊臣「王朝」を生み出した秀吉の生母「大政所」から始まり、最後まで豊臣家が生き残る道を模索して努力した常高院(浅井初)で締めくくる。

軸となるのは秀吉の母「大政所」、最初からの妻「浅野寧」、関白秀次を産んだ姉「智」、妹で家康の妻にさせられるる旭、そして弟秀長の妻子だ。さらにもう一つ軸となるのが茶々、初、江の浅井三姉妹。初は京極高次の妻となり、後に常高院と号し豊臣と徳川の橋渡しとなり、晩年は妹の江亡きあと徳川将軍家の大奥でも重きを成した。末娘の江は寡婦となったが、秀吉が養女として徳川秀忠に嫁がせた。秀吉の婚姻戦略の大事な駒で、秀忠より7歳年上だった。本書では「徳川は一夫一妻(秀吉の時代は一夫多妻で皆妻、徳川は妾)」「秀忠と江との夫婦仲は良かった」「江は家光の実母ではなかったが母として接し、家光を江の子として育てた」と厳密な研究の下に語る。

俗説を次々と正す。「受け身の姿で描かれがちな旭だが、豊臣と徳川との仲立ちを主体的に努めていたのである」「寧と茶々は、対立関係にあったと描かれがちだが、ニ人の関係の基調は『連携』にあり、対立どころか連携して豊臣家の女性たちを守ろうとしていた」「秀頼は茶々が大野治長と密通してできた不義の子だとする噂があったのは事実だが、しかしこれは根も葉もない噂に過ぎない」などが論証される。

秀吉には多くの妻がいた。最初の妻は浅野寧。そして茶々。姫路(織田信包の娘)、最大の寵愛を受けた妻・京極龍、妙顕寺城天守に置かれた三の丸に住んだ織田信長の娘「三の丸(殿・様)」。伏見城では、本丸に浅野寧、西の丸に浅井茶々、松の丸に京極龍、三の丸に織田氏。さらに金沢で前田摩訶・豪姉妹を得た。「これは秀吉の女狂いと言うよりは、もはやロリータ・コンプレックスと言うべき様相を呈している」と言う。秀吉の秘蔵の娘・前田豪は宇喜多秀家の妻となる。また小早川秀秋は3歳で秀吉の養子になった寧の甥だ。

本書で、極めて興味深かったのは「豊臣家を支えた奥女中たち」だ。奥女中の筆頭は孝蔵主(こうぞうす)。豊臣家と徳川家に仕えた女傑。秀吉の辞世の句(露と落ち 露と消えにし わがみかな 難波のことも 夢のまた夢)を預けたのは孝蔵主で、それほど彼女を深く信頼していたという。秀吉への取次は表は浅野長政、奥は孝蔵主と言うし、関白秀次も彼女を頼りにした。家康は豊臣家の老女として培った人脈と力量を自陣に引き入れようと江戸に下らせた。秀忠は彼女を大切にした。続くナンバーツーは「ちゃあ」。「関ヶ原合戦」まで浅野寧を支えたのが「東」と「こや」。東は大谷吉継の母。寧は実母の朝日も大切に敬い、豊臣家の奥向の「総締まり」の役割を果たした。秀吉と朝日は不仲だったとされるが、決して疎遠ではなかったと言う。

最後に「大阪の陣をめぐる女たちの攻防」が描かれ、茶々2人の乳母「大蔵卿」と「南」、茶々付きの老女「ニ位」、浅井家出身の老女「海津」と「饗庭」などが紹介される。男の世界であった戦国時代に、しっかり者で、配慮も状況把握もできる女性たちが命がけで支えていたことが浮き彫りにされる。

無名の「女たち」は、苛烈な時代を耐えて踏ん張ったようだ。本書の女たちは栄耀栄華の中の悲哀と苦難だが、戦乱に翻弄され続けた貧しき庶民の女たちは、どれほどの大変さの中で暮らしたのだろうか。 


1786629759882.jpg「私はこの世界の出口を見つけなくてはならない」「これは本当に現実なのだろうか? 『現実/非現実』切り替えスイッチのようなものがそのへんのすみっこにこっそり隠されているのではないか?」----。著者の小説で、最もわかりやすく、すっと読めたと思う。実体とメタファー。洗練された文章で、現実と夢の世界を交差しながらも、途切れることなく、違和感なしで没入し、最後の「母殺し」の葛藤と逡巡、緊迫感に引き込まれた。絵本のようでもあり、ミステリのようでもあり、生死の世界のようでもある。

夏帆は絵本作家の20代後半の独身女性。実家は浦和で足立の花畑に今は住んでいる。セットされたブラインド・デートで、「これまでいろんな女性とデートのようなことをしてきたが、正直いって君みたいな醜い相手は初めてだよ」と侮辱的言葉を投げつけられる。「この男が一体何を意図しているのか」・・・・・・。しかし、この後書いた絵本は、評判を呼ぶ。「文章も絵も、これまでのあなたの作風とはがらりと違っていて・・・・・・」と言われる。

「あなたは武蔵境に越さなくてはなりません。それも今すぐに」――夢の中に、ありくいが現れ、夏帆にそう迫る。新居の床下にありくいの夫婦が住み、「(花畑では)危険が迫っていた」と言う。残忍なジャガーに狙われ、ブラジルのジャングルを出て日本に来たと言う。そして「シロアリの瓶詰めを欲しい」と夏帆に頼むのだった。そして夏帆は「とぎや」の主人に入り込んだジャガーを殺すことに・・・・・・

一方、実家では母親がどうもおかしい。「母親は知らないうちに、何か別のものになってしまったのだ」――。大胆な変貌。出てきたありくいに夏帆が聞くと、「母親はブラジルから逃げてきたシロアリの女王に身体を乗っ取られていた」のだった。
夏帆は思う。「私もひょっとしてホル(かつて夏帆の家で飼っていた猫)と同じように、私にとっての決定的な境界線、目には見えない路上の一線を踏み越えてしまったのではないだろうか」「一晩ゆっくり眠って目覚めたら、元通りの世界に戻っているとよいのにと夏帆は思う。ありくいも、ジャガーも、シロアリの女王も、『とぎや』の主人も、モーターサイクルの男も、そんな普通ではないものたち誰一人、何ひとつ存在していない、かつての懐かしい世界に戻りたい」と。しかし・・・・・・

母とはずっと、どこか心が通わない、何かが挟まっている、目には見えない溝のようなものがあった。しかし、「シロアリの女王に心と身体を簒奪されてしまうことになった母」を救い出そうとするのだ。こしらえてくれた「とくべつな刃物」で、母の心臓を刺し貫かなくてはならない、「母をこの世界に取り戻すために」・・・・・・。それには、「母親と和解を遂げ、互いを信頼し合う。力を合わせ、共同でシロアリの女王と対決する」と夏帆は腹を決める。踏み出さなければ何も始まらない・・・・・・

夢と現実----。それはつながっている。心の奥には何層にもわたって突き上げる層がある。科学の無意識層、仏法で言う末那識、阿頼耶識、九識・・・・・・。苦難は常にあるが、人は他の生命に助けられ、支援され、自己を乗り越え、乗り越えていく。逆縁の敵さえも善知識となり、人生の一部として宇宙生命の調和の中のリズムとなる。本書最後、夏帆の溢れる涙、涙はそんな感謝の涙と言えようか。


1786629708445.jpg東野圭吾さんの遺作となった。意識して書いたとしか思えない。最後に草薙は、「それらを全部足した数だけ、人の生死に関する秘密を暴いてきたことになる。それが刑事の義務だと思っていたし・・・・・・だけど、俺が秘密を暴いたことで、きっと傷ついた人もいる。知りたくなかったことを知ってしまったと、警察を恨んだ人も少なくないはずだ。・・・・・・俺が、刑事としての終活をするに当たり、一度ぐらいは、仕方のないこと、と真相を呑み込んでもいいんじゃないかと思う」と言う。そして湯川は、「俺たちは、ずいぶんとたくさんの秘密を暴いてきた。そのためには、人々の感情など無視したし、君はともかく、僕などは最初からそんなものに興味がなかった。そんな僕に人の心も科学だと教えてくれたのが、あの事件だ。未だに答えを出せずにいる・・・・・・我々はあの事件について、真実を解き明かしていなかった。石神は、確かに人を殺した。では、その人物はどこの誰で、それまでどうやって生きてきて、なぜあの日、あの場所に行ったのか。それらを知らないままでは、真の解決とはいえなかった。でも、ついに答えに辿り着いた」と言う。代表作「容疑者Xの献身」の鮮やかで悲しい解決で、湯川がずっと心に抱いてきた強いわだかまりと疑念と悔恨。その蓋を開ける事件が今回起きたのだ。

スーパーで買い物中の刑事・内海薫が刺された。犯人は70歳ほどの老人・三崎茂久。薫の全く知らない男だ。男は階段を駆け上がり屋上から飛び降り自殺を図るが一命を取り留める。逮捕されるが黙秘が続く。湯川の冴え渡る推理で、内海に恨みを抱く若い女性・藤村紗穂が捜査線上に浮かぶ。19歳のスーパー店員だ。老人との関係は不明。

6年前、大型量販店の駐車場内で男性の絞殺死体が見つかった。特捜本部は、妻の藤村倫子を逮捕、動機は夫の娘へのおぞましい性加害。周到に妻と娘はアリバイ工作をしたが、それを崩したのが内海薫らだった。しかし、藤村凛子は獄中で自殺する。刺された薫と藤村紗穂は直接対決・・・・・・。恨みは、感情的にもより深くなり、より恐るべき復讐が・・・・・・。「復讐というのは何? いつ始まったの」・・・・・・

一方、湯川と草薙は、三崎茂久の"ある持ち物"を手がかりに、「20年間、解けなかった謎」の扉を開く。三崎には香苗という娘がおり、事故死していた。三崎が藤村紗穂に自分の娘を重ね合わせて薫を刺したようだが、もう一つ、三崎には鶴巻和正という会社で同僚であった親友がいたことがわかる。厳しく辛い三崎と鶴巻の人生が絡み合う。そしてあの「容疑者Xの献身」の天才科学者・石神の考え抜いたトリックと結びついていくのだが・・・・・・

東野圭吾さんの遺作。早すぎる。挿絵が時計と地球儀になっているのも、やけになんとも・・・・・・

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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