17人の作家・文筆家・漫画家・発明家が自らの「身体」と向き合い、それぞれの切実な体験を激しく、直截に、真摯に語るエッセイ集。「男は煩悩即菩提、女は生死即涅槃」と説かれるが、女性の生死がいかに激しく切実なものか、衝撃的に迫ってくる。
死ぬまで離れられないこの身体。性、性被害、自慰、妊娠・出産、タトゥー、痴漢、売春(性の商品化)、自傷、トランスジェンダー、SM、暴力、他者の視線と内側からの視線の衝突、変化していく肉体と心・・・・・・。あまりにも赤裸々な独白で圧倒される。身体と向き合うなか生死の無明の淵底が浮上する。
「タイトルの『私の身体を生きる』を、私はまず自分について肯定できない。肯定できる日が来るとも思えない。極力私は、私の身体なんか生きたくない。捨てられるものなら捨てたい」(能町みね子)、「生身の身体はなくなってほしかった。自分がこの身体を持っていることを意識しないで生きていきたい。ねじでできた、無機質なものになってほしかった」(柴崎友香) ・・・・・・。離れようがない自分の身体という厄介なものとどう付き合うか。17人それぞれが全く違う視点で述べる。
「B e t t e r l a t e t h a n n e v e r(島本理生)」「肉体が観た奇跡(村田沙耶香)」「『妊娠』と過ごしてきた(藤野可織)」「身体に関する宣言(西加奈子)」「汚してみたくて仕方なかった(鈴木涼美)」「胸を突き刺すピンクのクローン(金原ひとみ)」「私は小さくない(千早茜)」「てんでばらばら(朝吹真理子)」「両乳房を露出したまま過ごす(エリイ)」「敵としての身体(能町みね子)」「愛おしき痛み(李琴峰)」「肉体の尊厳(山下絋加)」「ゲームプレイヤー、かく語りき(鳥飼茜)」「私と私の身体のだいたい五十年(柴崎友香)」「トイレとハムレット(宇佐見りん)」「捨てる部分がない(藤原麻理菜)」「私の三分の一なる軛(児玉雨子)」の17のエッセイ。
時は永禄12年(1569)、織田信長は満を持して上洛、足利義昭を室町幕府の15代将軍に据えた。明智光秀を呼び出し、武田と毛利の資金源である湯之奥金山と石見銀山の現在の採れ高、先々の採掘量を調べてこいと命ずる。現実主義者の信長は、「武門の戦いは所詮は銭で決まる。戦費を賄い続けられる者だけが最後には勝つ」と考えていた。同行するのは光秀の朋友である愚息と新九郎。長くとも2月で帰京せよとの命令だ。
光秀は2人を伴ってただちに隠密裏に甲州へ向かう。駿河湾の田子の浦に辿り着いた3人は、そこで土屋十兵衛長安と名乗る奇天烈な男と遭遇する。この男、元は大和の猿楽師の息子で、甲斐へと招聘され、今は武田家の出納や河川の普請、黒川金山の採掘などを手がけていると言う。そして湯之奥金山の採れ高、甲府への搬入量などを教え、石見に連れて行ってくれと求められる。
毛利は毛利元就の下、隆元、吉川元春、小早川隆景の3兄弟で勢力を伸ばし、石見金山も手中に収めていた。隆元が早逝し苦労知らずの輝元がわずか11歳で後を継いでいた。そこへ4人が入り、毛利の追手が迫るなか石見銀山に潜入、月ごとの銀の搬入、搬出の冊子にたどり着く。永禄9年の総搬入は1593貫、総搬出は1590貫。それらと街の状況をつかみ脱出に成功する。あたかも戦記物、隠密の画策物のようで面白く、ユーモラスでもある。
3人は信長に報告する。成果とともに、土屋十兵衛長安の正体については口裏を合わせる(九兵衛とか)。それを聞いた信長は「よくやった」と喜ぶが・・・・・・。
最も面白いのはこの点。「信長は何を考えて、武田の金、毛利の銀を調べさせたのか」「報告をどのように聞いたのか。喜んで見せたのか」「土屋十兵衛長安の正体をどう見抜いたか」・・・・・・。信長の戦略性、人物監視眼・・・・・・。なんとも恐ろしいほどで、面白い。なお、土屋十兵衛長安は後に徳川に仕えて歴史に名を残した大久保長安のようだが・・・・・・。
伊達政宗の側近として終生支え続けた戦国屈指の「懐刀」・片倉小十郎景綱。政宗の心の内を誰よりも知り、他将からも一目置かれ、秀吉からも家臣にと乞われ、家康にも求められた奥羽随一の智将・小十郎。激しい攻防の戦国時代における、その智と力と苦悩を生き生きと描く。奥羽から見た戦国時代の様相が活写され大変面白い。
転機がくっきりと描かれる。16歳の小十郎。出羽国置賜郡は伊達輝宗の領地。祖父・片倉景時は伊達家に仕え、その居館を継いだのが父片倉景重。争いが絶えない奥羽、「喜多(小十郎の20歳上の姉)が養育する梵天丸」「一つにまとまった新しい奥羽の国を小十郎は想像した。飢えがなく、誰も死なない世の中だ」・・・・・・。小姓に選ばれる。門閥の家からではなく身分が低いが、梵天丸の世話役となる。梵天丸の力を伸ばす働きが求められるが、「仮にそれが若君の意に添わぬならば――。ひとこと『控えよ』とお申し付けなされよ」と約束する。「家中の誰よりも、主君への忠義を示すのだ。野心を忠誠心で覆い隠せ」――。政宗15歳、小十郎25歳、「相馬を片付ける」戦いが始まった。上方では、織田信長の権勢が、頂点に達し、本能寺の変、そして、羽柴秀吉が台頭していた。
政宗が家督を継ぐ。父・輝宗の銃撃死を巡って、また政宗が母から毒殺されようとすることを巡って、歴史上大きな問題となっているが、本書では明確にその謎解きをしている。大変な覚悟が示される。本書の奥深さだ。最大の戦闘となった天正13年(1585)の摺上原合戦――。奥州南部の諸家は皆、佐竹側につき絶対絶命のなかで、政宗軍の決死の戦で切り抜け、さらに芦名を打ち破った(芦名滅亡)のだ。政宗23歳小十郎33歳、伊達は奥羽を制し、なんと120万石となる。
しかしこの時、畿内では、秀吉が関白となり、全国の大名に惣無事令を発していた。小田原城攻めで「白ずくめの装束」で、参陣したあの場面だ。この時、小十郎は秀吉から「豊臣の直臣になれ、5万石をやる」と誘われる。会津は召し上げられ、秀吉は政宗を警戒し、「政宗に煮え湯を飲ませて、自分への忠誠を確かめている」と思う。「目立たないこと」と、懸命になるが、秀吉率いる奥州仕置軍は蒲生氏郷が率いて北上する。会津は、蒲生氏郷のものとなる。さらに「政宗謀反の疑い」がばら撒かれ、上洛する政宗の度胸、その裏で駆け回る小十郎の知恵。苦しさと決断が伝わってくる。塗炭の日々、伊達家は泥水をすするように必死に生き延びたのだ。
1590年代の暴君の秀吉、そしてその死。徳川との連携。「『謀反人が必要だな』と小十郎は独り言を口にした」。そして関ヶ原。小十郎の智略は凄まじいものがあり、政宗との間に隙間は全くない。
その後も、徳川の天下のなか、伊達家の苦しみは続くが、戦国屈指の「懐刀」小十郎と、戦国時代の命がけの攻防と心理戦を見事に描いている力作。
岡倉天心(1862~1913年)の曾孫であり、近現代の国際関係史を専門とする著者が、「茶の本」(1906年)について世界に広がる文化交流、桁はずれに多い人間交流を通じて語る。あまりの世界的人脈に驚嘆するばかりだ。
「天心は『死ぬまで現役』であった」「1898年3月に文部官僚(東京美術学校校長)を退官した後も、隠遁生活というライフスタイルは実行できなかった。それは私よりも公を重んじたことと、23、4歳で異国=異文化を身近に感じ、吸収するとともに、『国華』や英文著作によって、日本文化を発信するのが、自分の人生であるという自覚を抱いていたからに他ならない」と言う。1902年にはインド滞在、日露戦争勃発直前には「日米送往」の生活(1904〜1913)を送り、東洋の美術を欧米に紹介、日本文化の発信、美術界の革新に奔走し続けた。
「『茶の本』はけっして茶道の本ではない。20世紀初頭の日本が直面していた文化的な困難を乗り越えるために考え抜かれた書といえる」――。明治は西洋文明を受容し社会は大変革の時代であったが、日本と日本人のアイデンティティーに知識人は呻吟した。内村鑑三の「代表的日本人」(1894年)、新渡戸稲造の「武士道」(1999年)、牧口常三郎の「人生地理学」(1903年)、そして岡倉天心の「茶の本」は、日本と日本人を世界に向けて発信したのだ。その意味は限りなく大きい。
「『茶の本』によって天心は茶の人生哲学を説く。天心は一椀の茶を前にして、これこそ人生に美と調和とを授ける秘宝であるという。それは美の宗教であるとしてもよい。かれは相対の中の絶対、空虚の中の実体、不均衡の中の均斉を語ろうとする」(福原麟太郎)、「天心は茶道をDemo cracy(民主主義)であるとし、茶室を『平和の館』と位置づけている(茶室では、上下の差はない)」と言う。タゴールは、1916年の初来日の折り、「日本はアジアの前衛となっていて、新しい道に自分についてくるようにとアジアに呼びかけている。・・・・・・近代文明をそのまま受け入れてはならない。あなた方こそ、その文明に、あなたがたの東洋精神が要求するような変化を遂げさせねばならない」と言う。大岡信は、「(茶の本は)茶道入門としても、道教思想を中心とする東洋思想入門としても読める。彼の道教に関する蘊蓄は並のものではなかった。また私は今までこれを芸術論として読んできた」と言っている。天心は、西の科学が、東の精神性よりも価値あるものとされていたことに対し、「東洋の理想」「茶の本」を通じ、アジア=東洋は、野蛮・未開状態ではなく、独自の文明・文化を有していることを示そうとした。かつ、天心は科学を蔑む攘夷ではなく、西の良いものは積極的に受け入れる立場を取った。それは見事に成功したと言って良い。ピゲロウは「東と西は岡倉によって相逢ったのだ」と言っている。
この本を読むと、天心の世界的な人脈の広がり、様々な人への影響力の強さに驚嘆する。既に述べたタゴール、ピゲロウ、大岡信。島崎藤村、フランク・ロイド・ライト、ラフカディオ・ハーン(ハーンを尊敬していた天心)、アイルランドの社会事業家・教育者のニヴェディタ、モース、フェノロサ、ガードナー夫人(1904年以来のボストンでのガードナー夫人のサロンの豊富な人脈)、ベルクソン、九鬼周造、そしてインドの詩人プリヤムバダ・デーヴィー・・・・・・。書けば埋め尽くされるほどの人間関係の広さ、広がり、影響力の強さだ。
1900年前後の日本と日本人を巡る呻吟の思想闘争は今、流動と諦観、無感覚の中にあるようだが、摩擦熱はあってこそ、文化は良質な力を持つように思う。
リーマン・ ショックの引き金の一つとされる巨額詐欺事件「アスクレピオス事件」――。リーマンから371億円を詐取し、獄中14年。その首謀者が、マネーゲームの狂奔の内幕と心の内を赤裸々に暴露した驚愕の告白記。バブルとバブル崩壊、山一、拓銀、長銀等の破綻。金融崩壊の危機的状況のなか、1980年代後半から2008年、世界のリーマン・ショックに至るまで、日本の社会・経済、なかでも金融は揺れに揺れた。様々な事件も起きた。マクロの視点から語られることや、その間起きた事件そのものが語られることは多くあったが、一人の男がその大波の中で、いかに生きたか、いかに破滅に至ったか――「男の人生は、バブル経済の通史であり、裏面史でもある」。そして知られている多くの人が、実名で語られていることにも衝撃を受ける。
著者は1962年生まれ。山一証券で金融マンとしてのスタートを切る。そこでの苛烈の日常、政治家との関わり、そして山一の破綻。社員はバラバラになる。政治家の秘書を志すもすぐに終焉。都民信組を経て、メリルリンチに入り、入社1年目で仕組み債が売れて、なんと年収1億円。2004年に三田証券で、社内ベンチャーとして、医療機関への経営コンサルタント会社「アスクレピオス」を立ち上げ、これがその後独立をする。どの期間をとっても、当時の金融危機のなかで、現場の金融マンが、いかに苛烈で極めて危うい日々であったかを衝撃的に感じる。まさに裏面史そのものだ。
「アスクレピオス事件」――。大手商社丸紅の元課長と組み、リーマン・ブラザーズの日本法人から371億円の出資を受けたが、破綻して償還不能となり、リーマンは全損の被害を被る。サブプライムローンを加工した金融派生商品への危惧が広がり、信用不安に見舞われていたリーマンには極めて手痛いものとなった。リーマンの破綻は、著者が逮捕されて、3か月後の2008年9月、負債総額は空前の6000億ドル(約64兆円)、世界のマネーが凍りついた。
だが問題は、なんとスクレピオスが組成したファンドのあらゆる契約書に、丸紅の債務保証代わりの偽造受領書が差し入れられていた。印鑑も文面も偽造。投資家の誰も丸紅に確認を取らなかった。後には、丸紅の本社でニセの替え玉幹部が面接をすることまで行った。途方もないカネは、自宅にも会社の金庫にも「溢れかえっていた」と言うが、多くの資金は闇に消え、アスクレピオスは破綻。海外逃亡先で逮捕され、詐欺の最高刑10年を超える懲役15年の判決を受ける。2022年の仮釈放までの東京拘置所、長野刑務所の厳しい日々を述べている。
1990年代からの30年余りの波瀾万丈などという言葉は全く通じない狂奔の人生が赤裸々に語られる。驚愕の、衝撃の告白記。