「収奪的システムを解き明かす」が副題。「日本で実質賃金が上がらないのは、生産性が低いからではない」「1998年〜2023年までの四半世紀で、日本の時間当たり生産性は3割上昇したが、時間当たり実質賃金はこの間なんと横ばい。正確には、近年の円安インフレで3%程度下落した」「この間、大企業を中心に長期雇用制の枠内にいる人は、毎年2%弱の定期昇給が存在して属人ベースで実質賃金は1.7倍程度膨らんでいるが(だから上がっているように錯覚している)、四半世紀前の部長職や課長職の実質賃金に比べてむしろ低下している」「長期雇用制の枠外にいる人は、定期昇給もなく実質賃金は低い」「それでも何とか暮らしていけたのは、物価が安かったからだが、最近3年の円安インフレで追い込まれている。これが昨年秋のポピュリズム政党が台頭した衆院選だ」と言う。
「生産性が上がっても、実質賃金が上がらない理由」――。「欧州は日本より生産性は低いが、実質賃金は上昇している」。日本経済の長期停滞の原因は、「儲かっても溜め込んで(2023年度の利益剰余金は600兆円)、実質賃金の引き上げも人的資本投資にも慎重な大企業が元凶」「包摂的だった日本の社会制度は、いつの間にか収奪的な社会に向かっている。実質賃金が横ばいで抑えられてきた結果、日本は経済的な豊かさが大きく劣後するようになった」と指摘する。守りの経営、投資の停滞、実質賃金の抑制(実質ゼロベアの定着)を続けた結果だ。メインバンク制の崩壊で、企業は利益剰余金の積み上げに走り、コーポレートガバナンス改革は短期的な利益の追求、時間をかけての人材育成の放棄となり、正社員より非正規雇用に依存することに傾斜する。「この間、欧州の国々では、グローバリゼーションやITデジタル革命に対して、職業訓練や家族政策など社会投資を充実させ、セーフティーネットでカバーする領域を広げた。日本は財政政策や金融政策等の追求にかまけて、社会制度の漸進的改革を怠ってきた」と厳しく言う。それゆえに今、「実質賃金の引き上げと家計の直面するリスクの変容に対応した社会保障のアップグレードを優先すべきだ」と言う。
「定期昇給の下での実質ゼロベアの罠」――。今後、2%インフレが定着しても、2%ベアが定着するだけで実質賃金上昇ゼロでは絶対ダメ。生産性の低い中小企業の話だと考えてはならない。
「対外直接投資の落とし穴」――。国内の売り上げが増えず、国内投資は抑えられ、対外直接投資は大きく増加している。しかし収益率は高いものではなく、特別損失も決して小さくない。
「労働市場の構造変化と日銀の2つの誤算」――。2013年の異次元緩和の際、団塊世代が退職し、人手不足が始まり、賃金が上昇すると思われたが、①高齢者と女性の労働供給が増大②働き方改革で正社員の残業の規制等供給サイドの柔軟性が損なわれた――。
「労働法制変更のマクロ経済への衝撃」――。1990年代に潜在成長率が急低下し始めたが、「1990年前後の週48時間から週40時間労働制に移行」のインパクトが大きかったと指摘する。当時「3つの過剰」が叫ばれ、企業はコストカットに邁進したこと、さらに度々世界的な経済危機が襲ったことを思い起こす。
「コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方」――。「企業の社会的責任は利益を増やすこと」とするフリードマン・ドクトリン。株主資本主義のコーポレートガバナンス改革が日本に導入されると、時間をかけて人材を育成する余裕がなくなった。「企業経営者は国内ではコストカットに邁進し、人的投資や有形資産投資、無形資産投資はなおざりにされた。冴えない日本のマクロ経済パフォーマンスには、株主至上主義のコーポレートガバナンス改革も少なからず影響していた。日本の企業価値の長期の成長をむしろ阻害している」と言う。また「米国のようなジョブ型を導入すると一発屋とゴマすりが跋扈する」と長期雇用制度、漸進的な雇用制度改革の重要性を示す。確かに組織論としてもそうだ。
「イノベーションを社会はどう飼い馴らすか」――。イノベーションは、本来、収奪的であり、自動化によって平均生産性が上がるだけでなく、新しいビジネスが生まれ、限界生産性が向上し、労働需要が大きく膨らんで実質賃金の上昇が得られることが大事だと言う。イノベーションは荒々しい野性的なものであって、コントロールして、収奪が進まないよう飼いならす必要があると言う。
日本経済の7つの「死角」とその連関を鋭角的に解明する。
90歳になった田原さんと、87歳になった養老さんの対談。「生きる」とは、「老い」とは、「死ぬ」とは、「戦争を知る最後の世代として、これだけは伝えたい」「現代社会に漂う息苦しさのわけ」・・・・・・。
戦争の時は共に小学生。「敗戦で価値観が変わった。それから社会もほとんど信用しなくなった(養老)」「夏休みに戦争が終わり、2学期になって学校に行くと、先生たちの言うことが180度変わってしまった。学校の先生はじめ、偉い人の言うことは信用できないなと漠然と感じた。それからはラジオや新聞、先生の言うことも疑うようになった(田原)」・・・・・・。強烈な戦争観、社会観、人生観が形成されている。
「歴史を見ると、日本の政治って、天災で大きく変わっている。鎌倉幕府の成立や、江戸幕府の終わりの大地震。そして関東大震災(養老)」――日本の災害史観はその通りだと思う。
「アメリカはもう世界の犠牲になりたくない」「アメリカの農業は化石水を汲み上げ、長くは続かないんじゃないかな」「ブータンはグローバリズムに入れられ、幸福度が高いことで知られていたのに、今は失業率が上昇して『不幸度』が高まっている(養老)」という。食料自給率も、エネルギー自給率も低い日本は「やっぱり自力でやっていくしかない(養老)」「チャレンジする人間を育てられない、それが日本の大問題。負けるとわかっている戦争になぜ反対できなかったのか(田原)」・・・・・・。
ジェンダーギャップ――。「日本の場合、家の中、つまり内側では妻の力が非常に強い。それで外側の男性優位の社会とのバランスを保っている。それなのに外側だけを見て、日本はジェンダーギャップ指数が118位だ。女性の地位が低いとか言って嘆いている(養老)」「日本は、家の中はみんな『かかあ天下』ですよ(田原)」・・・・・・。
「1990年から2020年までの間に、全世界で虫の数が7割から9割も減っている。理由がわからない。これと人間社会の少子化は同じ原因だと思う。要するに、生き物が生きづらい世界作っちゃったんですよ(養老)」――誰も原因がわかっていないと言う。
「現代社会に漂う息苦しさのわけを探る――なぜ子供たちは、大声を出せなくなってしまったのか」――。「とにかく、若者の生きにくさを、なんとかしてあげたいね(田原)」「子供はもっと大声を出して、自由に遊んだらいい。『14歳の遺書 いじめ被害少女の手記』を読むと、周囲の描写がゼロ、鳥は鳴いてないし、花も咲いていない。対人関係の中だけで世界が完結している。子供にはやっぱり花鳥風月を持ってほしい(養老)」「本を読んで覚えたのは知識で、失敗から得たものは知恵になると思っている。だから、若いうちはいろいろな体験をして失敗をしてどんどん知恵を身に付けていってほしい(田原)・・・・・・。
「好きなことを見つけられたから、90歳になった今もこうして仕事を続けていられます(田原)」「虫の仲間たちからはもう仕事もやめて、虫だけ取ってればいいって言われます。仕事をしてお金を稼がないと虫のことができなくなる(養老)」「好きだから、仕事をしていて、たまたまそれがお金になっているだけ(田原)」「健康診断より大事なのは、体の声に耳を傾けること(養老)」・・・・・・。
あれこれ悩むより、好きなこと、楽しいことをやりましょうという深くて「楽しい対談」。
「『政治の人災』を繰り返さないための完全マニュアル」が副題。今年も「大雪」「山火事」に襲われている災害列島日本。水道管の劣化による道路陥没もある。「防災・減災、老朽化対策、メンテナンス、耐震化」は、日本の最重要の柱である。雨の降り方が明らかに変わり、激甚化、集中化、広域化している。
1991年の長崎県雲仙普賢岳の火砕流の現場で、「犠牲者の遺体を目の前にし無力な自分を思い知らされた」というジャーナリストの鈴木哲夫さん。その後、阪神淡路大震災、新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震、そして能登半島地震、豪雨や台風、火山噴火、酷暑など精力的に取材を進めてきた。政府の対応のにぶさや遅さに怒りを感じ、「度重なる自然災害の犠牲や被害は『政治の人災』である」と言い、どうあるべきかを提言する。
「初動の遅れ」は致命的ーー。大災害への司令塔は内閣総理大臣、官邸。参集チームは災害の大小によりランクが決まっているが、私は「政府においても各省庁においても上から集まることが大事」と実行してきた。その上で「災害は現場で起きている」から、トップが「現場に指揮を委ねる」ことが大事。本書でも繰り返しそれが指摘されている通りだ。しかし蛮勇とは全く違い、日本の脆弱国土と日常の管理について、知悉していないと指揮は取れない。
気象庁を始めとする観測体制、河川を始めとする管理体制は日常の積み重ねによって築き上げるものだ。国土のどこが脆弱か、河川のどこが弱点か、科学的知見に基づいていくこと。「日常の管理なくして危機管理なし」ーーそれが危機管理の鉄則だということを多くのリーダーに知ってもらいたいと思う。この10年余、気候の大変化に対して、河川・道路などの強化をし、「流域治水」という考えで、防災減災に取り組み、ソフトとして、タイムライン、ハザードマップ、マイタイムラインを組み上げてきたが、更なる充実が不可欠だ。
「自然災害が起きれば、避難指示の決断など、一気に責任を背負い込むのは、知事や市町村長など、自治体の首長だ。決断を迷い、苦しむ。そこには、首長の権限を担保する仕組みやバックアップ体制が必要」と言っているが、その地域を知っている人しか決断はできない。崖も堤防も地形も知って初めて避難指示などができるが、そのために河川ごとに管理・強化をしている河川事務所などとの強い連携が日頃から行われていなければ決断できない。災害は毎回態様は違う。その動体視力を持つリーダーがいるかいないか。
本書の後半は、石原信雄氏を始めとする多くのリーダーへのインタビュー「危機管理のためのリーダー論」がある。いずれも重圧のなか悪戦苦闘した人の貴重な言葉だ。
脆弱国土日本を誰が守るかーーますます重要の時に差し掛かっている。
世界のムスリムの総人口は約20 億人。21世紀に入り9、11 テロ、イスラム原理主義、中東情勢の複雑・困難などばかり、話題となりがちだが、「私がイスラームの研究を一生の業にしようとしたきっかけは、イスラームが持つ驚異の柔軟性と普遍性に強く惹かれたから」と言う。そしてイスラームの日常生活と信仰・思想、資本主義とは一線を画す仕組みを作り上げているイスラーム経済の独自の経済(お金)の知恵を紹介する。中学生にもわかるようにと工夫された「易しすぎず難しすぎない」入門書。本当にわかりやすい。
ムスリムは「自分の近くに常にアッラーがいらっしゃることを感じ取っている」「アッラーは人生の伴走者」「自分の身の回りに起こったことは全てアッラーのご意志」「自分の成功はアッラーのおかげだと感謝すると同時に、失敗も全てはアッラーのせいだと考えてよい」「アッラーの下した教えを守って生きているのはあの世での救済を受けるため、すなわち天国に行くためなのです」と言う。その教えが収められているのが聖典「クルアーン(コーラン)」だ。そこには、日々の生活の支えるすべてのことについての教えが収められ、政治も人付き合いも、家族も結婚も、遺産の分配も、金儲け、お金の貸し借りも全部書いてある。金儲けは許され信仰行為として直接的に肯定されている。
「イスラーム的な金儲けとは」――。「利子の禁止」「ギャンブルの禁止」「喜捨の義務」の3つにまとめられる。利子が禁止されているなら我々の日常の銀行は成り立たないし、ましてや金融資本主義はありえない。人間には運・不運があり、不慮の事態に遭遇するが、イスラームでは保険に入ることが禁止されている。「ギャンブルの禁止は、アッラーによって創造されたこの世界のあり方を、人間が自由に変えることができるという人間のおごりに対する警鐘である」と言う。「喜捨は、一年間に稼いだ儲けに応じて、決められた量をアッラーに納めるもの」。アッラーを介して人から人へ、豊かな人から貧しい人へお金を分配する機能が「喜捨」の重要な役割としてムスリムの日々の生活を支えている。
そこから「無利子銀行」が生み出される。利子のない銀行の仕組みだ。また「イスラーム世界は、社会の隅々まで思いやりの精神に満ち溢れている」「伝統と革新のイスラーム式助け合い」――喜捨が「ザカート」「サダカ」として展開される。とりわけワクフだ。これはお金に余裕のある人々が、社会のためになる病院や学校や孤児院などを作って、それを寄付して、助けを必要としている人の利用に供する仕組みを作っており、儲けを生み出すような商業施設(例えばショッピングモール)を同時に作る仕組みだ。老朽化したワクフを改装するお金を無利子銀行を通して集めるやり方が考え出され展開されていると言う。
全てを商品化し、飽くなき儲けと成長を求める資本主義が暴走する金融資本主義化していくとき、イスラーム経済の知恵から学び、現代資本主義を超える可能性を見出すことができるのではないか、活用できないかと著者は問題提起する。「資本主義の未来と現代イスラーム経済」の問いかけだ。
若者の間で「やばっ!」「可愛い」「ウソー」等々といった単純化した言葉が用いられ、軽い言葉の世界が広がっている。スマホ、ネット社会はそれを加速している。さらにタイパ、コスパの浸透は、単純化された言葉による自分の感情の直接的な表現と単純で直裁な受け止めの応酬という本来の意味を喪失した空間を形成するベクトルを持つ。「シン読解力」(新井紀子著)、「学力喪失」(今井むつみ著)など警鐘を鳴らす優れた著作が相次いでいるが、本書は日本の教育界、教育行政の中枢を担ってきた梶田叡一先生が、「言葉の力を鍛えて賢さの実現を」「論理の力を育てる言語論理教育を」と教育の本質と方向性を示す著作。
言葉をコミュニケーションの道具に矮小化する傾向があるが、それは理解が不十分。言葉は「認識の道具」であり、「記録」「思考」「伝達」の道具であるとともに、「精神の呪縛・解放・鼓舞の道具」であり、「文化の継承・創造の道具」であるという。まさに「言葉の力を育てる」――その教育の深さによって、人生の深さも日本の未来も決定するのだ。
「言葉の力の基礎づくり」――。学校教育を通じて「言葉の力」の獲得と基盤作りをする。語彙の豊富さと言葉の確かな理解が大切となる。「体験から知識へ、知識から体験へ――言葉に導かれて」――。学力と呼ばれるものは、海面に浮かんだ氷山のようなもの。海面から出ている「知識・理解・技能」は、海面下の「関心・意欲・態度」や「思考力・表現力・問題解決力」に支えられ、さらにその人自身の「人間性」が「体験」「実感」を伴って形成されていなくてはならない。いちばん底辺にあるのが「体験」だ。「体験」から「知識・技能」へと向かう上向型学力形成(耕求表創)と下向型学力形成(開示悟入)が示される。上下が噛み合った全体的総合的な学力をつける本当の教育が提示される。
「体験の経験化と言葉」――。「我の世界」と「我々の世界」の梶田先生の指摘は印象的なものだったが、自分の使う言葉が自分自身の体験・経験に裏付けられて初めて言葉は力を持つ。
そこで提示される「古典的な名句・名文の暗唱を」は納得する。江戸時代以降に大坂、江戸、京の子供たちの間のことわざを用いた「いろはカルタ」は面白い。「百人一首の秀歌」「論語などの古典」も懐かしい。自分自身、いつの間にか子供の時代に馴染んできたことが思い起こされる。今の若者に残っているだろうか。「文学作品との出会い」もわかりやすく、具体的で面白い。「テキストの世界・作者の世界・読者の世界」を、これほど具体的に授業で習えば、「言葉の力」を養うことは間違いない。コラムにある「最短最小の定型詩『狂俳』」は知らなかった。李御寧の「『縮み』志向の日本人」に触れていたのは、あまりに懐かしく嬉しくなった。
「確かな読み取りで豊かな受け止めを」――。芭蕉の俳句の豊かな言葉の世界の味わい。島崎藤村の「初恋」の味わい。残念ながらこのAI時代、日本人としての豊かな感性や情緒、言葉の多義的な面が切り捨てられていることは既視のものとなっている。「『読み』『書き』の力を3つの水準で」――。暗誦も多読も熟読も書くことも確かに減っている。そして「論理の力を育てる言語論理教育を」――。文部科学省が2006年に設置した「言語力育成協力者会議」の座長を務めた梶田先生が具体的に語っている。
「言葉の力を鍛えて賢さの実現を」――。自分自身の人生が、子供の頃から多くの人に支えられ、「言葉の力」が育てられてきたことを改めて思う。まさに人生そのものが「言葉の力」だ。