jirai.jpg都立頰白高校1年の射守矢真兎(いもりやまと)は、勝負事に桁はずれに強い女子高校生。親友の同級生・鉱田とともに、次々と持ち込まれる勝負に挑む。スリリングな5つの勝負が描かれる。風変わりなゲームの数々、究極の頭脳戦、鮮やかな解決策、その切れ味、達人ぶりに引き込まれる。

「地雷グリコ」――ジャンケンで勝ったら階段を登る。対戦相手と互いに3つの段に地雷を仕掛け、被弾を避けながら昇る心理戦。あっと驚く理詰めの戦略を真兎は仕掛ける。

「坊主衰弱」――百人一首の絵札を使った神経衰弱。「男」と「姫」と「坊主」の3種類あるが、「坊主」をめくってしまった時は一発アウト。勝負の途中に「鉱田ちゃんへ」という不思議なLINEが真兎から届く。"イカサマ"を見抜く鮮やかな眼力。

「自由律ジャンケン」――生徒会の佐分利会長が真兎に興味を持ち、グー・チョキ・パーの3種に両プレイヤーが考案した<独自手>を加えた計5種でジャンケン対決を仕掛けてくる。佐分利会長は<蝸牛>、真兎は親指を立てた<銃>の形で対戦が始まる。

「だるまさんがかぞえた」――屋外で距離をとって行う「だるまさんがころんだじゃなくて、かぞえた?」のゲーム。標的(オニ)が、暗殺者をいつ振り向くかは<入札>しだい。進むか止まるかの心理戦。いろいろな条件を確認して、真兎が考え抜いた作戦とは・・・・・・。これはとんちの「一休さん」のよう。

「フォールーム・ポーカー」――真兎と鉱田を置いてけぼりにした雨季田絵空との戦い。約6000万円を賭けて、ポーカーを3枚で行う。4部屋に伏せられた52枚のトランプ。真兎と絵空は互いに相手を知ってるが故に、探り仕掛け合う。そして決着、和解へ。

痛快な青春の頭脳バトル小説。よくぞこういうゲームを考え出すものだ、そしてその解決策を。仕掛け合いを、行ったり戻ったりして考えた。 


youkoso.jpg2024年本屋大賞翻訳小説部門第1位。会社を辞め、ソウル市内の住宅街にカフェ付きの書店を始めたヨンジュ。緊張とストレスで疲れ果て、会社を辞めるだけでなく、離婚までして追い詰められた彼女が、子供の頃からの夢だった本屋を開いたのだ。ヒュナム洞の「ヒュ」は「休」という字。アルバイトで手伝うようになったバリスタのミンジュン、夫の愚痴をこぼすコーヒー業者のジミ、無気力な男子高校生ミンチョル、その母のヒジュ(ミンチョルオンマ)、兼業作家のスンウ・・・・・・。社会や家族との関係に悩み、孤独を抱える人や傷ついた人たちが、この本屋に来て癒されていく。

「自分が本を愛し、書店のスタッフが本を愛するなら、その愛は逆にも伝わるのではないだろうか。・・・・・・本でコミュニケーションし、本で冗談を言い、本で友情を深め、本で愛をつないでいくなら、客も自分たちの思いをわかってくれるのではないだろうか」「一日を豊かに過ごすことは、人生を豊かに過ごすことだと、どこかで読んだ一節について考えながら眠りにつくのだろう」・・・・・・。

著者のファン・ボルムは言う。「息つく間もなく流れていく怒涛の日常から抜け出した空間。もっと有能になれ、もっとスピードを上げろと急き立てる社会の声から逃れた空間。その空間で穏やかにたゆたう一日。それは私たちからエネルギーを奪っていく一日ではなく、満たしてくれる一日だ」「私は自分が読みたいと思う物語を書きたかった。自分だけのペースや方向を見つけていく人たちの物語を。悩み、揺らぎ、挫折しながらも、自分自身を信じて待ってあげる人たちの物語を。・・・・・・もっと頑張らねばと自分を追い詰めて日常の楽しさをなくしてしまった私の肩を、温かく包んでくれる物語を」――。まさにこの本は、その通りの「優しく慰められる」本になっている。「~しなければならない」「~すべきだ」でがんじがらめになっている社会。「本当に、好きなことをしないといけないのか?でも、自分には好きなことなんてないのに」という生の世界を、このヒュナム洞書店は受け入れている。「彼の言う幸福とは、最後の瞬間のために、長い人生を人質にとられているのと同じだ。最後の瞬間の一度きりの幸福のために、生涯、努力の指導士で不幸に生きていかないといけないんだ。そう考えると、幸福っていうものがなんだか恐ろしくなったんです。だから、私は幸福ではなく、幸福感を求めて生きようって、考えを変えたんです」と言うくだりがある。

ヒュナム洞書店、この空間が人々の身近な存在となり、力を湧出させる場となっていく。悩みの背景に、燃え尽き症候群や不安定な非正規雇用、激しい競争があるのは日韓共通のものだが、大学卒の就職難は韓国の大変さを物語っている。また、ヒュナム洞書店は「多様性のためにベストセラーは排除した」と言っている。「ヨンジュは大型書店のベストセラーコーナーに行くと、出版市場の歪んだ自画像を見る思いがした。数冊のベストセラーに依存する悲しい現実。本を読まない文化のあらゆる側面が反映された結果に過ぎない。このような現実のなか書店を運営するものがなすべきは、それでも小さな努力を積み重ね、読者に多様な本を紹介することであるはずだ」と言っている。このような本屋が地域にあることは意義深く嬉しいことだ。 


sekaiha.jpg「世界は経営でできている」「人生は経営でできている」――企業だけでなく、全てが経営による。経営とは「価値創造する」「価値創造へのマネージメント」だ。人類史における本来の経営は「価値創造という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消しながら豊かな共同体を作り上げる知恵と実践」だ。

しかし、世界から経営が失われている。「人生の様々な場面において、経営の欠如は、目的と手段の転倒、手段の過大化、手段による目的の阻害・・・・・・など数多くの陥穽をもたらす」と言う。それは「あらゆるものが創造できる」という視点を持たないと、手段に振り回されるからだ。「人生における金銭、時間、歓心、名声などの悲喜劇は『何かの奪い合い』から生まれる。そして奪い合いは、限りある価値に対して発生する」「価値を有限だと錯覚すれば、顧客に粗悪品を掴ませ、従業員を搾取し、他者を蹴落とすことになる。価値有限思考を、経営によって価値は創造できると考える価値無限思考への転換が重要となる」「価値が無限に創造できるものならば、他者は奪い合いの相手ではなく、価値の創りあいの仲間になれるのだ」と言う。

本書は、「日常」「貧乏」「家庭」「恋愛」「勉強」「虚栄」「仕事」「健康」「老後」「歴史」「人生」など17項目を上げ、いずれも「経営でできている」ことを示す。一見経営と無関係なことに経営を見いだすことで、世界の見方ががらりと変わる。今、日本に足りない「経営」「価値創造」の世界を開示する。国家の運営も、「経営」の知恵と実践が重要となるということだ。 


watasotatono.jpg「女性とマイノリティの100年」が副題。シベリア抑留体験のある父を持ち、アナキスト伊藤野枝の壮絶な生涯を描いた「風よ あらしよ」の作者・村山由佳。祖父が関東大震災で殺されかけ、在日韓国・朝鮮人として様々な差別を経験してきた朴慶南。1923年9月1日に発生した関東大震災、そこで起きた民間人らによる朝鮮人虐殺や憲兵による無政府主義者殺害。それから100年たった今、2人の対談が行われた。「関東大震災で、なぜ普通の人間が同じ人間に対し、かくもむごいことができたのか」「民族差別の背景に何があったのか」「当時の差別と排除の濁流は、今の時代へそのままつながっているのではないか」――。女性とマイノリティの100年を率直に語り合っている。

「大震災での朝鮮人虐殺の事実」――朝鮮人、中国人、間違えられ日本人も含めて6000人もの"大虐殺"。「姜徳相による虐殺のメカニズム解明(暴力が支配する戒厳令下の虐殺) (日本による過酷な植民地支配に対して、1919年の朝鮮半島での3.1独立運動など、大規模な反日運動が各地で起き、日本政府や軍警察当局は危機的な事態とみなし恐れていた)」などが示される。「朝鮮人なら殺してもいいという時代があった」「関東大震災時の自警団は東京1145、神奈川634・・・・・・。組織の中核は、各町村の青年団、在郷軍人会、消防組で、警察が上から組織したものが多い」と言う。「植民地支配、官民どちらにもある朝鮮人への差別意識と仕返しを恐れる感情、戒厳令を背景にした官製弾圧」を指摘する。

「男社会は同性愛を忌避する」――。「ホモソーシャルな社会の中では、ホモセクシャルである人間はまず排除される。ホモセクシャルを嫌うホモソーシャルから、ホモフォビア(同性愛嫌悪症)が出てくる」「自分に自信がない人ほど持ち物で人と張り合ったり他人を見下したりする。自分に自信がないから、変に理論武装して『論破』に快感を見出したりマウンティングしたがる」とし、価値はそれぞれに独自のものであると言う。また、「相手の心に響く謝罪」「物語は他者の『痛み』を伝える」「被害を受けた側への想像力」の大事さを語り合っている。

「抵抗者たちの近現代史」であるとともに、「人間の原点」を感じさせる対談。 


nihonnjinn.jpg「この地球上に、いまだかつて神をもたない民族はなかった。なぜ人は神を求めるのであろうか」――。そして今、「現代は、日常の生活空間から人間以外の存在を放逐してしまった時代である。前近代の日本列島では、人々は目に見えない存在、自身とは異質な他者に対する生々しい実在感を共有していた。神・ 仏・ 死者だけではない。動物や植物までもが、言葉と意思の通じ合う一つの世界を構成していた。人々はそれらの超越的存在カミのまなざしを感じ、その声に耳を傾けながら、日々の生活を営んでいた」「共同体の人々は、宗教儀礼を通じてカミという他者へのまなざしを共有することによって、構成員同士が直接向き合うことから生じるストレスと緊張感を緩和しようとした」「カミの緩衝材の機能は、人と人のあいだだけではなく、集団同士の紛争処理を可能にした。そこには神の実在に対するリアリティーの共有があった」と言う。近代の世俗化の進行とカミの世界の縮小が神仏だけでなく、死者も動物も植物も排除され、特権的存在としての人間中心主義のヒューマニズムを生み出している。しかし、現代人の生と死の間に明確な一線を引くことができるという死生観は、人類の長い歴史の中で見れば、近現代だけに見られる特殊な感覚だと言う。「前近代の社会では、生と死の間に、時間的にも空間的にもある幅を持った中間領域が存在すると信じられていた。呼吸が停止しても、その人は亡くなったわけではない。生と死の境界をさまよっていると考えられていた」と指摘。近代社会は「異形の時代」であり、「集団間の緩衝材、息の詰まる人間関係の緩衝材の消失の時代」であり、人類が千年単位で蓄積してきた知恵を発掘していくことの必要性を述べている。

指摘は構造的で実在的だ。宗教思想や文化変容の背景には、社会構造の変動に伴うコスモロジー(世界観)の変容があるとする。基本ソフトとして、コスモロジーの変容があって、それが応用ソフトとしての個別思想の受容と展開を規定すると言う。「個々人の救済をどこまでも探求する『鎌倉仏教』誕生も前提には、新たなコスモロジーの形成があった(悟りへの到達=生死を超えた救い、不可視の他界の実在がリアリティーを伴って共有される)」と言うのだ。「仏を我が内に見る」という大乗仏教の受容もコスモロジーの変容、社会の転換と連動しながら精神世界の奥底で深く静かに進行する地殻変動があっての故である。

日本人はどう「神」を捉えてきたか。まず「人々が最初に人間を超越する存在(カミ)を認知したのは、畏怖の念を抱かせる自然現象や驚異的なパワーを有する野生動物」だった。やがて「カミの形象化(土偶など)が始まり、それが集団のカミのイメージの共有=信仰の形成となる」。そして7世紀後半、「祭りの時に呼び出されてきたカミが特定のスポット(神社)に常駐。国家と天皇を永遠に守護し続けるものとなる」。10世紀後半、「ある種のカミ()が、絶対的存在=救済者にまで引き上げられる。一方で被救済者としての人間に内在する聖性が発展されていく」。仏教の仏性だ。さらに生前に達成した功績によって、秀吉や家康などまでカミになる「ヒトガミのラッシュ」、普通の人間が生前の意思や努力によってカミになることができる時代が到来する。近代国民国家では「ナショナリズムが人々の心をつなぎ、止める役割を果たすようになる。日本の場合、国民統合の中心的機能になった存在が天皇だった」・・・・・・。

本書は「カミ」をめぐって、有史以前から近代に至るまでの歴史的経緯を解析する。それは「日本人の心の歴史」でもある。それにしても平安末期から鎌倉時代は、時代を画していることがわかる。天変地妖、政治・社会の大変革の時代、末法思想の渦の中にあった時代だったのだろう。 

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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