「箱根駅伝のケニア人留学生」が副題。山梨学院大学のオツオリは1989年から、ステファン・マヤカは1993年から――もう30年以上前かと感慨深い。最近の東京国際大学のヴィンセントやエティーリ・・・・・・。箱根駅伝、ニューイヤー駅伝、高校駅伝などで異次元のスピードで走り抜けるケニア人留学生ランナーたち。彼らは一体、どんな環境の中で育ち、なぜ来日し、どんな気持ちで生活しているのか。その姿と背景を、ケニアに何度も足を運び、多角的な視点で明らかにするノンフィクション。
駅伝を走るケニア人ランナーの素顔。「エティーリの実家で、(現在の400万円の豪邸の奥に)古い掘立て小屋を見せてもらったとき。ジョセフの家族が貴重な鶏をさばいて私を迎えてくれたとき。カロキが街の人々に声をかけられ、その都度立ち止まって、会話を交わす姿を見たとき。日本で見せる走る姿とは異なる、一人ひとりの生活を感じられるようになった」----。「エージェントと呼ばれる仲介業者たちが、ケニアの才能ある若者たちを発掘し、日本の高校や大学、実業団に送り込む。学生であっても、事実上の給料として金銭を受け取り、『仕事』として走る『走り屋』という職業の従事者たちだ」「走ることが単なるスポーツではなく、生きるためのテクニックであり、家族を救う手段であり、貧困から抜け出すための可能性にかけているのだ」----。世界の主要大会での賞金、アメリカの大学チームへの所属、そして日本の駅伝の存在は最も安定性があると言う。今、日本で走るケニア人ランナーは、ざっくり150人を超えると言う。
このスカウトシステムのルートを開発したのはカメラマンとして潜入した小林俊一。あのタンザニアのイカンガー、ケニアのワキウリを引っ張ったのが小林だ。北京五輪でマラソン金メダルのワンジルも小林がエージェントだと言う。もう一人の日本人がランナー育成の世界に足を踏み入れた丸川正人。「幻の名門校『ガル高校』」は、出生届すらないこともあるケニア事情がよくわかる。
一方、受け入れた「日本人監督の葛藤----山梨学院、仙台育英、世羅、神村学園」などの苦労。受け入れ、学業のある留学生、勝てば勝ったで反発・・・・・・。
「尊敬される町の兄貴分のビダン・カロキ(世羅高校、SB食品を優勝に導く)」もあれば、「24歳でこの世を去った金メダリストのワンジル」もあり、駅伝スターの「その後」の明暗を語っている。
なぜ中長距離界でケニアは強いのか、強くなったのか。そこには高地トレーニングだけではないものがある。著者は陸上の聖地「イテン」とその有名キャンプに潜入する。ケニアの田舎町にあるとは思えないほどの洗練された空間。商業化する「キャンプシステム」と「商品化するランナーたち」を紹介する。「勝たなければ、結果を出さないと家族を養えない」の中で、禁止薬物に手を出す姿が浮き彫りにされる。
著者は最後に日本の外国人に対する偏見や差別に触れる。留学生ランナーによって、高校駅伝などで大逆転があり、その非難の矛先が留学生や関係者に向けられることへの危険性だ。入管の留学生受け入れ審査の厳格化が、留学生ランナー受け入れに影響のあること、歪みをもたらすことを危惧している。「メリットだけを享受し、デメリットは受け入れないというのは、あまりに都合が良すぎる」と、外国人排除の感情的な結論に飛躍してしまうことの問題。まさに留学生ランナーを通じ、社会全体に関わる問題提起をしている。
夫と離婚しスーパーのパートで働く女性・榊冴子、52歳。ノッポで、猫背で人付き合いが苦手。実家とは折り合いが悪く、いつも弱気で「スミマセン」が口癖。オバさんになったら、もっと図々しく、怖いもの知らずになれると思っていたが、全然。仕事でもいまだに誰かに怒鳴られたり馬鹿にされたり5円玉を投げ付けられたり、スミマセンを連発しながら生きている。ある日、レジで迷惑客を撃退するど派手なジャージを着た72歳の毒舌女性に遭遇する。この女性の正体は? なんと山田グロリアという名の凄腕の殺し屋だった。これが誠に痛快。ストレスを抱え続ける女性たちの鬱屈を吹き飛ばす。
「私、今からでも強くなれますか?」――冴子は老人ホームで働いているグロリアに弟子入りする。そこには、チーム殺し屋があった。そんな時、高校時代の同級生、ただ一人仲の良かった朝美に出会い、夫の直樹から精神的虐待、DVを受けているとの相談を受ける。スパルタ訓練を受け見違えるようになった冴子は、親友を救うために立ち上がる。また実家では、母が認知症になるや、父と兄がおとなしい冴子にその介護を押し付けようとする。
「カスハラ」「モラハラ」「介護は娘に」・・・・・・。「殺し屋」に鍛えられた冴子は、啖呵を切る。「舐めてんじゃねえ」・・・・・・。その鮮やかな豹変ぶりが実に痛快。
これまでひたすら「〇〇なんだから我慢しなさい。女の子なんだから、男の子なんだから、子供なんだから、若いんだから、大人なんだから、いい歳なんだから」・・・・・・。いつもみんな我慢、我慢の我慢大会。確かにそうだ。ちゃんと怒ることの大事さ。「今まで長いこと、50年以上、怒らなきゃいけないタイミングは山ほどあったはずなのに」・・・・・・。「しょうがない」の呪縛から立ち上がれ! 面白すぎるアクションスリラー。
「賃金・物価・金利のゆくえ」が副題。長い間、「賃金は上がらないものだ」「物価は上がらないものだ」「金利は上がらないものだ」という3つのノルムの慢性デフレに覆われていた日本だが、賃金・ 物価・金利が上がるインフレの時代が始まった。これまでの慢性デフレから一転したのは何故か。どうすれば、物価を上回る賃上げができるか。インフレ時代の日本経済の賃金、物価、金利、財政の最重要視点を提示する。
キーワードは、「賃上げ」と「インフレ予想」だろう。「グローバル化は世界の賃金と物価を下押し」「慢性デフレは、グローバル化の下での日本社会の選択であった」----2002年、経団連は「春闘の終焉」を宣言、連合はベースアップの統一要求を断念。賃上げは事実上停止し、賃金は毎年据え置かれることになる。購買力が伸びないので、企業は価格を上げることができず、賃金と物価が共に据え置かれる慢性デフレとなる。「グローバル化の下で雇用を守る選択(賃金据え置き)をしたのだ。
2013年からのアベノミクス----。3本の矢で経済再建を目指し、賃上げ率も高まり、株や有効求人倍率も上昇したが、現在のような人手不足は存在せず(女性と高齢者の労働参加率が高まった)、賃金上昇圧力がなかった。企業は利益を得たが内部留保をため賃金に反映しなかった。そして何よりもインフレ予想が現在に比べて明らかに低かった。2014年の消費税上げも、社会保障の財源とはいえ景気経済という点では水をさしたと私は思う。
2022年、コロナ禍が明けて経済が動き始めた。世界インフレの流入、ロシアのウクライナ侵攻による天然ガス、穀物の価格上昇、そして人手不足時代への突入などで、日本もいよいよインフレになるとの覚悟を決めたようだ。このインフレ予想の上昇は企業の価格支配力、価格メカニズムを復活させ、「賃金と物価の好循環」へ向けて動き始めている。「2022年春以降に起きているのは、賃金・物価・金利の正常化」であり、これは第一ステージだと言う。
そして、これからの第二ステージ----。それは「価格メカニズムの復活・正常化」「為替レートに、自国と外国の物価の影響を加味した『実質為替レート』の正常化(安いニッポンが正常化の原動力)」「政府債務の正常化(賃金・物価・金利の正常化によって、財政もようやく正常化に向かい始める)」だと指摘する。
そして「試算によればインフレ税収は180 兆円。これを大盤振る舞いするというのは愚の骨頂。正常化の流れにうまく乗れていない人々のために、この一部を使う。例えば物価上昇に賃金や年金受取額が追いつかない消費者や、賃上げの原資確保に苦しむ、中小企業経営者等への補助金など、適切な使い道を」と指摘。「こうした財政措置によって、2%経済への移行をより円滑にする効果が期待できる」と言う。「物価を上回る賃金上昇を」「財政支出をためらうな」「追加利上げは慎重に」と、賃金上昇を主眼に経済の好循環、価格メカニズムの復活を進めていくことだ。
「インフレと日銀」「インフレと賃上げ」「インフレと財政」「インフレの変動要因」の各章ともデータを緻密に踏まえ、理論的に濃密な分析が行われている。
長い慢性デフレのトンネルを抜け、物価高が連日騒がれるついに訪れたインフレ時代。政治がどうしてもポピュリズムに流され、かつSNS等による攻撃的な威勢の良い荒れた言論空間が跋扈するなか、物価研究の第一人者による丁寧な「賃金・物価・金利のゆくえ」の分析と提言は、極めて重要で意義深い。
「ウェルビーイングの経済学」が副題。経済成長を優先する社会から人間の幸福を重視する社会、ウェルビーイング社会をどう創るか。20世紀後半の世界は、経済成長とともに豊かさを求め、「福祉社会」への模索が行われたが、新自由主義が台頭、リーマンショックを経て、新たな成長戦略を競うようになっている。しかし、「GDPでは数値化できない『ゆたかな生』とは何か」「国が経済成長を希求し、モノは溢れていても、自然環境は破壊され、人々のつながりは希薄化し、社会はますます息苦しくなり、格差が拡大している」なかで、「GDPでは数値化できない『ゆたかな生』とは何か」を問いかける。それは成長至上主義を問い直し、「経済のための人間から、人間のための経済」に転換することだとその社会ビジョンを示している。それは「社会目標を経済成長から幸福度ヘ転換」(スティグリッツ)することだ。
データを示す。「一定以上の平均所得国では、平均所得と幸福度とは無関係になる(一定の閾値を超えると、幸福なるものは所得の多寡に還元されなくなる)」と言う。「ゆたかな富」は必ずしも「ゆたかな生」を意味しないのだ。
従来の資本主義社会は「市場」と「国家」の調整原理できたが(市場対国家の対立)、もう一つ「市民社会(コミュニティー)」という第3セクターを加えて考えることが必要、と言う。経済システム、政治システム、社会システムだ。この市民社会の領域で主役を成すのは互酬や協力を原理とする社会的連帯経済。協同組合、共済組合、非営利団体、財団・・・・・・。労働組合、宗教団体、文化・スポーツ団体、市民団体、クラブ・・・・・・。これらによる医療、教育、福祉、文化などは、「人間形成的」な活動であり、「カネによるカネの生産」ではなく「ヒトによるヒトの生産」であり「これからは『人間形成』が経済社会を主導する時代なのだ」と言う。
GDPに代わる「ウェルビーイングをどう測るか」――。UNDPの「人間開発指数(HDI)」は、平均寿命指数+教育指数+GDP指数。長寿と教育(特に識字率)だから先進国では高い。国連の「世界幸福度報告」は主観的幸福度(感)とその寄与要因で図る。OECDの「ベターライフ・インデックス(BLI)」は生活の質(健康状態、ワークライフ・バランス、教育と技能、生活の安全・・・・・・)、物質的生活条件(所得と資産、仕事と報酬、住居)、ウェルビーイングの時間的持続可能性(自然・経済・人的資本・・・・・・)で観察する。この「ゆたかさをどう測るか」はその思想の世界観が現れていることになる。
経済至上主義にかき消されていくのではなく、「ゆたかな生」「ウェルビーイング」を目指して進んでいく意思の強さが大事となっている。
「わが精神形成と人間教育の道」が副題。心理学者の梶田叡一先生が、これまでの自身の精神形成が心理学や教育の先人たちとの思想交流の中から形成されてきたことを率直に語る。その人間形成、精神形成への真剣で誠実な姿勢が心に響いてくる。
京都の学生時代から始まる思想形成。ラジカルな左派政治闘争のなか、コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」、サルトルやカミュなどのフランス実存主義哲学、キリスト教・仏教などの宗教哲学を経て、カール・ロジャーズ、G・ W・オルポートなど人間存在を深める心理学の道に突き進んでいく過程が語られる。「私は心理学者であり、人間学の研究者」と言う。そして、ベンジャミン・ブルームとの出会いのなかで「心理学、人間学の一環としての教育研究」が始まったと述べる。
梶田先生には21世紀の教育を考える肝いりの「教育改革国民会議」や中央教育審議会にも参画をいただき、教育基本法改正にも重要な提言をいただいた。「教育は人格の完成を目指す」「『人間としての尊厳』を具体化していく教育を」「『社会のための教育』ではなく、『教育のための社会』に」「教育者の力が重要」と言う。「教育の深さが日本の未来を決定する」と考える公明党の主張そのものであり、多大なアドバイスをいただき続けてきた。
人間形成の最終原点は「生きる力」だ。その「生きる力」には、「我の世界」を生きる力と「我々の世界」を生きる力のニつがあると指摘する。自身を鍛え、育み、豊かな情操と教養を持つとともに、世の中に出てきちんと生き、自分の人生を豊かにするニつの力だ。ではどう育てるのか。教育実践において、「開示悟入」(法華経にある)を教育原理として体系化して提示する。教育界の実践研究だが、奥行きは広い。
時代は情報過多、喧騒が常態化し、タイパ・コスパ、攻撃的なSNS時代が加速化している。「有能な『駒』ではなく、賢明な『指し手』に」と指摘しているが、人間教育、人間学がますます大切となっている。その意味で、本書は警世の書でもある。
