内村鑑三の「代表的日本人」(1894年)は、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人。1900年前後、西洋文明を受容しつつも、日本人の持つ深き精神性、「日本人とは何か」を世界に問いかけた著作が相次いだ。「代表的日本人」(内村鑑三)、「武士道」(新渡戸稲造)、「茶の本」(岡倉天心)、「人生地理学」(牧口常三郎)などだ。いずれも日本人の精神性の深さを主張するとともに、庶民の中の実践者でもある。
本書は、江戸時代から「関孝和(算聖と呼ばれた大天才)」「上杉鷹山(民の父母たる名君主)」の2人。明治時代から、「福沢諭吉(近代日本の先導者)「河原操子(日蒙を繋いだ女子教育の先駆者)」「柴五郎(会津人を全うした男、八カ国軍を率いて総指揮を取った男)」の3人を取り上げ、その生涯を描く。「いずれも日本人の美質を十二分に発揮し、海外からも、高く評価された人々である」「明治時代の三人は、日本人の美質に加え、明治の時代精神を体現した人を選んだ。それは国家的精神、進取の気性、武士道精神だ」と言う。
日本人らしい日本人――「勇気、正義感、創造性、郷土愛と祖国愛、そして何より惻隠の情を持つ」と言うことだ。「和算家の中に関孝和や建部賢弘のように、自然科学との関連から数学を研究する者は稀だった。和算は、俳句、和歌、華道、茶道等と同じく芸事として発展したのである(関孝和)」「藩主自ら一汁一菜を実行し、弊衣をまとい、しきりに農村を視察するなど、常に民と苦悩を分かち合った。当面の救済ばかりでなく、常に長期的視野に立ち、根本的解決を進めた(上杉鷹山)。この地には惻隠が根付いている」「『学問のすすめ』などはまさにそんな本で、自由、独立自尊、道徳などを説いた。自由、平等、独立自尊は舶来のものだったが、道徳は武士道、すなわち惻隠、勇気、誠実、卑怯を憎む心、忍耐、羞恥心などである」「日露戦争における勝利は、乃木希典や東郷平八郎といった英雄だけでなされたものではない。用意周到な計画の下、敵地に親日の拠点を作り上げた河原操子、それを支えにシベリア鉄道爆破に向かった決死隊など、名も知れぬ人々の命をかけた献身が奇跡ともいえる勝利を呼び込んだのであった」「柴五郎と日本将兵の武勇、忍耐、規律、公正、謙虚など、すべての立居振舞は世界注視のもとで発揮された。武士道だった。とりわけイギリス人の日本人を見る目が一変したのである。これが日英同盟に結実し、2年後の日露戦争における勝利をもたらした。まさに柴たちの活躍は世界史を動かしたのであった」と描いている。
「運に恵まれる」も共通だと言う。「天才は必ず『ツキ』に恵まれるものである。天才の種は多くあるが、ほとんどは絶好のタイミングで良い本や良い師に出会い、学問的刺激を受けたり励まされたりする。幸運に恵まれるものである」と言う。本当にそう思う。
「よく歩き、よく考える」が副題。「昔から思索家はよく歩く。哲学者然り、詩人然り、小説家然り、作曲家然り・・・・・・よく歩く者はよく考える。よく考える者は自由だ。自由は知性の権利だ」と言う。帯に「文学、思想、人類史、自然学、考現学、地理学・・・・・・散歩をしながら、様々な思考が頭の中を駆け巡る」とあるが、本書はまさにその通りで、中身の濃密さに驚き、感心する。
確かに人類史は歩行の歴史だ。直立二足歩行の開始以来、人類は歩き、自然と対話した。この自然との対話こそが、最も古い宗教の形態となる。ルソーもカントも歩いて哲学した。京都には、「哲学の道」があって、私も歩いたが、確かに心が落ち着いたものだ。
「散歩する文学者たち」――萩原朔太郎「秋と漫歩」も芥川龍之介の「歯車」も、永井荷風「濹東綺譚」もつぶさに歩きながらよく見ている。原東京というべき「武蔵野」について、国木田独歩や大岡昇平だけでなく、昭和天皇にも触れている。話が縦横に飛び、極めて面白い。散歩で得られる情報はまさに膨大。「人はそれほどに散歩中に多くのことを思い巡らせているのである」と言っている。ニューヨークもヴェネチアにもよく訪れており、都市の匂いがこちらにも伝わってくる。なるほど、自分は忙しく仕事ばかりして見るものを見ないでもったいないことをしたと思う。
「都心を歩く」――私の地元の十条銀座や東十条、「埼玉屋」の大将とのやりとりまで出てきて嬉しくなる。池袋、高田馬場・ ミャンマータウン、阿佐ヶ谷・・・・・・。「郊外を歩く」――登戸(川崎市)ゴールデン街では「昭和の騒々しさ、猥雑さは当時の街に充満していた雑多なニオイの記憶と分かち難く結びついている」と言う。町田で老舗の馬肉料理店「柿島屋」、西荻窪の台湾料理店「珍味亭」に行く。「角打ち散歩」として、新橋と神田をはしごする。「田舎を歩く」として、屋久島に縄文杉に会いに行く。秋田にも行き思いを巡らせる。
「散歩に出れば・・・・・・生の現実、生身の他者からしか得られない、はるかに多くの情報にまみれることになる」「心にゆとりがないと、ヒトは気宇壮大なことは考えられないし、未来を設計したりもできない」「いっそ、人の手を煩わさなくてもいい仕事を全て生成AIに押し付けて、空いた時間に散歩にかまけるのが最も賢い選択となるのではないか」と言うのだ。散歩は最高の贅沢かもしれない。
「庶民の声を代弁する政党・政治家はいないのか」――。その叫びから生まれた。公明党は、今年11月17日、結党60年を迎えます。60周年にあたり、「大衆とともに」「中道政治」などについて、月刊「公明」(9月号)、公明新聞(9月4日、5日)で語っています。転載いたします。
~・~・~・~・~・~・~・~
<2024年9月4日「公明新聞 3面」掲載>
「大衆とともに」を胸に戦い抜いた公明党の60年=上
「権力の魔性とポピュリズム」に抗する
太田昭宏・党常任顧問が語る
公明党が結成された1964年は生涯忘れ得ない節目の年だ。故郷の愛知県を離れ大学の工学部土木工学科に入学。直後の6月16日に日本で初めて「液状化」が確認された新潟地震が発生した。完成直後の昭和大橋崩落の衝撃が私の「耐震工学」を専攻する機縁となった。10月1日に東海道新幹線が開業、同10日に初の東京オリンピック開幕、そして11月17日に公明党の結成大会が盛大に行われた。社会のあの高揚感は今も鮮明に覚えている。
「庶民の声を代弁する政党・政治家はいないのか」。その叫びから生まれたのが公明党だ。高度経済成長に向かう当時、政治は権力闘争に明け暮れ、地方議会では宴会政治が横行。国政では大企業優先の自民党と、労働組合中心の社会党がイデオロギー対立に終始し、国民生活が置き去りにされていた。
その中での公明党の誕生は、まさに私たち庶民にとって夢の実現であり、政界浄化に挑む公明党は皆の希望であった。結党大会の会場には「日本の柱公明党」「大衆福祉の公明党」との垂れ幕が掲げられた。
■「民衆の幸福」「平和の実現」めざし現場を奔走
公明党結党から60年――。党創立者の池田大作・創価学会会長(当時)は、どのような思いで公明党を結成し、議員に何を期待していたのか。
62年9月13日、「公明政治連盟(公政連)」第1回全国大会が開催された。その中で創立者が示された指針に、その全てが込められており、私はいわば、これが"立党宣言"であると捉えている。
すなわち「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆のために戦い、大衆の中に入りきって、大衆の中に死んでいっていただきたい」との言葉だ。
めざすは、「民衆の幸福」と「平和の実現」――。そのためには、民衆から遊離せず、民衆と苦楽を共にし、生活実感を持つ清廉な政治家が立つ以外ないとの指針である。
創立者はそこで政治家のあるべき姿として「団結第一」「大衆直結」「たゆまざる自己研さん(勉強)」の3点を示された。
第一に、「団結第一」と言われている。政治は政策実現への戦いであり、そのためには団結することが大切となる。党の結束なくして庶民を守り抜く戦いはできない。庶民を守り抜くという「志」を同じくして前に進むことが団結の要諦だと思う。
第二に「大衆直結」。生活も災害も、問題は現場で起きている。庶民の生活現場に身を置き、その息遣いを知ることだ。「大衆の中に入りきって」という指針を心新たに刻みたいと思う。
第三に「たゆまざる自己研さん(勉強)」だ。複雑な要素が絡み合う社会。加速するSNS時代、フェイクニュース(偽情報)も多い。それらを整理し、問題の所在、本質をできる限り見定める力量が欠かせない。フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは「問題は正しく提起された時、それ自体が解決である」と言っている。至言である。円安も物価高も少子化対策も、外交・安全保障も、政治とカネの問題も、どう構造的に捉えるか、どう因数分解し、整理するかが大切だと思う。
■現場には空気があり、匂いがあり、優先順位分かる
とくに「大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく」だ。とにかく政治家は現場だ。私は「現場には空気があり、匂いがあり、優先順位が分かる」と感じてきた。2011年の東日本大震災の後、宮城県気仙沼市の漁協に足を運んだ。多くの要望を受けるだろうと想像していたが、ただ一つ「気仙沼はカツオさえ水揚げできれば元気になる。エサと氷と船を動かす燃油がほしい」と。女川町では「くれぐれも東京で、机の上で復興計画を作らないでください。現場で一緒に考えてほしい」との切実な声に接した。現場に入って、肌で感じて、はじめて苦悩と解決への優先順位が分かるのだ。
災害でも公明党議員が真っ先に駆けつけてくれる。一度だけでなく、何度も足を運んで、ずっと手を打ち続けてくれるという声は多い。公明党の地方議員の戦いは速いし、継続的だ。昼夜を問わず、市区町村議員は数の少ない中でも働く。首長に会っても「よく勉強するし、よく動く。キメ細かな提案をいただいている」との賞讃の声に、うれしくなることが多い。そして、それが「ネットワーク政党」公明党として、さらに強化される。公明党はその意味で、日本唯一の「ネットワーク政党」であるとともに、「フットワーク政党」だと思っている。
日本の近代化は、どうしても「強い者」「大きい者」の力が増す時代をつくる。しかし今この瞬間も、「弱き者」「小さき者」が日本の現場を支えていることを忘れてはならない。国土交通行政を担当したが、災害のたびに出動してきたのは、地元の建設会社であり、そこで働く職人さんたちだった。また、小さく見える現場の、暮らしとその小さな営みの現場を通してしか、大きな変化のリアリティーを掴むことはできないということだと思う。
「森を見て木を見ない」という言葉があり、その逆の言葉もある。しかし、現場のリアリティーを掴もうとする私たちは、どこまでも木を見る。一本一本違いのある木を見ることが大切だということだ。私は「森に入り、木を見よ」ということを再度かみしめることが、大事なことだと思っている。
■「公明正大」「政治家の矜持」今こそ体現を
現在の政治を見ると、政治とカネの問題、世界を覆うポピュリズム(大衆迎合主義)の蔓延が気がかりだ。私は"政治家は権力の魔性とポピュリズムへの誘惑にどう抗するかが試される"と考える。「権力の魔性」――権力を手にし、名を上げると、人を安易に自由に動かせると錯覚する。ルールを逸脱しても自分だけは許されると調子に乗る。上から目線になり、贅沢にも気付かなくなる。党創立者が厳として戒めてきたことだ。
「清貧な政治」とは言わないが、だからこそ、「大衆とともに」を毎日の政治活動に、現場の地域活動に全力を挙げることが大事だと思う。「大衆とともに」「公明正大」「政治家の矜持」を今こそ体現することだ。
情報氾濫の中、ポピュリズムへの誘惑は増大する。先進諸国を覆うポピュリズムの背景には、移民・難民の問題と、格差拡大による社会の分断がある。中間層の厚みが消え、分断の亀裂が走り、社会の不安定化が増大している。それにデジタル・ポピュリズムが加わる。デジタルテクノロジーの進化はめざましく、私たちの生活に介入し、いつの間にか多くの個人情報が集積され、「世論は操作」され、「フェイクに誘導」される危険にさらされることになる。「ポピュリズムは、デモクラシーの後を影のようについてくる」(英国の政治学者マーガレット・カノヴァン)というが、「反エリート、反エスタブリッシュメント、既得権益への反発」が、無党派層の増大という形で現れている。
だからこそ、大事なことは、「真偽を明らかにする、問題を正しく提起する勉強」であり、とりわけ「大衆とともに」の庶民の生活現場に身を置くことだ。徹して「1次情報に触れる」こと、「伝達され数値化された情報に惑わされるな」と実感する。災害の被災者も千差万別、貧困も介護も千差万別、「森に入り、木を見ること」に徹することだと思う。一方、評論家の西部邁氏は「ポピュリズム(人民主義)とポピュラリズム(人気主義)を分けよ」と言ったが、大衆にポピュライズしていくのではなく、どこまでも「大衆とともに」の現場主義を貫くことがポピュリズムへの誘惑に抗することになることをかみしめたい。
~・~・~・~・~・~・~・~
<2024年9月5日「公明新聞 3面」掲載>
「大衆とともに」を胸に戦い抜いた公明党の60年=下
「中道」とは解を求め続ける知恵のダイナミズム
太田昭宏・党常任顧問が語る
公明党は「中道」の旗を掲げて進んできた。右と左の真ん中に中道があり、保守・中道・革新と位置付けがされたりするが、「相対立する両極端のどちらにも執着しない」「偏頗を排する」という意味では、中道といえるかもしれない。しかし公明党の掲げる中道は、より哲学性をもっている。本来の中道はそうした「足して二で割った真ん中」という中間主義や折衷主義ではない。
中道とは「道に中(あた)る」ことをいう。道とは人間・社会・自然を貫く法則・根源・本質であり、道義・規範というべきものである。柔道・剣道・茶道などに「道」が付されているが、精神性を持った奥義であるからだ。まさに中道とは「本質・根源に迫る」姿勢だ。それゆえ、あらゆる自然・社会の根源である「生命」「尊厳なる生命」を最も重視する。公明党が綱領に「〈生命・生活・生存〉を最大に尊重する人間主義」をうたっているゆえんである。
公明党は、「生命の尊厳」に立ち、「民衆の幸福」「平和の実現」を思想の根源に置く。「生命の尊厳」「民衆の幸福」「平和の実現」に帰し、それに基づいて行動する。
■現実を直視した臨機応変の自在の知恵
そして「中」は、例えば「中毒(毒に中る)」「的中(的に中る)」として使われる「中」だ。「中」について、哲学者の安岡正篤氏は「『中』というのは面白い語で、それはいろいろな矛盾を克服して無限に進捗していくという意味、論理学で言う弁証法的発展というものです」と言う。また、若き哲学研究者の永井玲衣氏は、その弁証法について「異なる意見を前にして、自暴自棄に自身の意見を捨て去ることではない。ただ単に違いを確かめて、自分の輪郭を浮かび上がらせるのでもない。異なる意見を引き受けて、さらに考えを刷新することだ。中間をとるのでもない。妥協でもない。対立を、高次に向けて引き上げていくことだ」と指摘する。
劇作家の山崎正和氏は「左右それぞれの『真ん中』というのは大切だけれど、それだけでは中道の定義としては不十分である。私の考える中道というのは、問題を提起するだけでよしとしない態度だ。『この問題が大変だ』ということを縷々主張したとしても、少なくともどこかに解決への道を示唆するのが中道だと私は考えている」と語っている。
つまり中道とは中間をとるものでもなく、妥協でもない。対立を高次に引き上げ、刷新する。解決の道を提示すること。"解を求め続ける知恵のダイナミズム"が中道ということだ。私は、政治は空中戦ではなく、現場の力であり、「徹底したリアリズム、現実を直視した臨機応変の自在の知恵だ」と言ってきた。公明党の中道政治は「生命の尊厳」「民衆の幸福」「平和の実現」に基づき解決の道を提示する知恵のダイナミズムということができる。
■自公連立政権の「安定」は日本の力
「政治は結果」「仕事をするのが政治家の役割」――。私が政治活動で常に言ってきたことである。公明党の60年の歴史は、「政策実現政党・公明党」の歴史である。教科書無償配布も児童手当も、地域での市民相談から始まった。そして数々の政策実現を果たしてきた。
公明党が連立政権に参加して、その政策実現力は飛躍的に上がった。議院内閣制の日本は、内閣が議会多数派の支持を基盤にして構成され、政府・与党が政治のかじ取り、政策実現に責任を持つ。公明党の意見、政策が連立政権の20年余、全てに取り上げられてきたのだ。
1999年10月、連立政権に参加した時に掲げた、「政治の安定と改革のリーダーシップ」をそのまま公明党は担ってきた。
2018年1月、年頭の施政方針演説で、安倍晋三首相(当時)は、その冒頭で最も長い時間を使って「全世代型社会保障の実現」をうたった。本会議場にいた私は「ここまで来た!」との感慨が込み上げてきた。「大衆福祉の公明党」の戦いによって今、政治の柱として「全世代型社会保障」を政府が第一に掲げる時代が来たと。本会議終了後、私は安倍首相にそのことを述べると、「御党のおかげです」という感謝の言葉が返ってきた。児童手当の充実をはじめとする子育て支援策は、今年もまた前進をしている。子育てや学生支援、認知症やがん対策、さらには就職氷河期支援にまで拡大。公明党の戦いによって社会保障は大きく前進した。
「教育」についても、私立高校の授業料無償化、大学生の奨学金支援など、政策実現が次々行われた。教育基本法改正でも「愛国心」の扱いを巡って自公は激しくぶつかった。実に3年間に及ぶ議論だった。4年ほど前、安倍首相が、「教育基本法改正の時(06年)、『偏狭なナショナリズムではなく、パトリオティズムが大事』って太田さん言ったよね」といきなり言い出したことがある。パトリオティズムとは郷土愛というべきものだ。自公の違いを議論してまとめた愛国心の条文は「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」となった。統治機構としての国の概念ではないという意図から「我が国」とし、国と愛の間に「郷土」を挟んだパトリオティズムを表現したのだ。
自公連立政権というが、党が違う以上、その主張も違う面がある。自民党は伝統的に経済政策も安全保障も全体から見る「マクロの目線」を重視する。一方、公明党は「大衆とともに」との党是の下で、国民一人一人の生活に対する現場の目線を重視してきた。この目線の違い、政策的な距離があったからこそ、政権の幅が広がり、状況の変化に柔軟に対応する力となった。「連立政権は不安定」と世界的にいわれてきたが、日本の政治が安定してきたのは、自公両党に違いがあるからこそ激しい討議が行われ、信頼の中で解を見出してきたからだと思う。公明党の「政治の安定と改革のリーダーシップ」が実行されてきたのだ。
■「平和の実現」への外交徹して貫く
「平和の実現」は公明党の強く主張するところだ。「平和外交」を公明党は貫き、世界各国の首脳との会談、そして国際会議においても公明党議員は行動し、発言をしてきた。山口那津男代表は、訪中、訪韓を幾度も行い、この7月にASEAN(東南アジア諸国連合)各国を訪問し、対話をしている。首脳間の対話が平和外交にとってなによりも重要だ。
03年、戦闘が休止状態となったイラクを訪問した。生々しい戦闘の惨状を見て、病院や難民キャンプを訪れた。そこで感じたのは「民生の安定こそ平和の礎」ということだ。帰国して、自公を代表して本会議で「民生の安定こそ平和の礎」であることを訴えた。日常の生活が平穏に行われることこそが、平和の礎になるという実感だった。
日本でも過疎化が進み、離島の無人化も懸念されている。農業、漁業、工業、商業が日々営まれ、庶民が日常の生活を確保できることが、実は平和の礎となることを忘れてはならない。「戦争は貧困という構造的暴力問題に起因する」と言ったノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングの指摘の通りだ。
15年の平和安全法制の議論も自公で激しいものだった。その議論の結果、現行憲法の枠内にこだわった自衛の措置(武力行使)の新3要件を設けて、あくまでも「他国防衛」ではなく、専守防衛の下での「自国防衛」「自国民防衛」に徹する平和安全法制を整備した。現在のロシアのウクライナ侵略をはじめとする世界情勢の不安定化を見る時に、この平和安全法制が大きな成果となっていることは、多くの識者が認めているところだ。
また今年議論となった防衛装備完成品の第三国移転(輸出)に関する政府方針を巡っては、公明党が一貫して議論を主導。「意思決定のプロセス化」と「明確な歯止め」をかけ、国連憲章を順守する平和国家としての基本理念を堅持する決定をもたらしたことは周知のことである。
公明党は、「太陽の党」だ。太陽は立場を超えて全ての人に平等に降り注ぐ。日陰で奮闘している人ほど太陽の温かさは心に染み入るものだ。あらゆる人に勇気と希望を与え続ける公明党であり続けたい。私自身は現役を退いた身だが、「大衆の中に死んでいく」との指針のままに、報恩感謝の闘いを生涯貫きたいと思っている。
この機に改めて、公明党を支援し育ててくださった党員・支持者の皆さま、先輩議員、後輩議員の全てに心から感謝申し上げたい。
――――――――――――――――
おおた・あきひろ 1945年生まれ。京都大学工学部土木工学科卒。同大学院修士課程修了。93年衆院選に旧東京9区から立候補し初当選。2006~09年、党代表を務めた。12~15年、安倍政権で国土交通相。21年に国会議員を引退した。
90歳の日常とはどういうものだろうか――最近、よく思う。92歳になる黒井千次さんが、この5年ほどの日常の心象風景を毎月1編綴る。万年筆で書くという。
緑内障で片方だけの眼で読み書きをしたり、「最近よく感じるのが字の小さな印刷物の多いこと。クスリ瓶に貼られた説明書や注意書き」に苛立ったりする。「電車や飛行機に乗って遠出する場合、1人で行けるだろうか、大丈夫だろうか」と不安を感じる。「ふと気がつくと、自分の歩く範囲が著しく縮んで小さくなってしまってることに驚く」「朝起き出す際、これまで生きてきた歳月のカタマリのようなものに触れているようでもあるとふと思う」「便利なものがいろいろ出てきているみたいだが、自分がついていけるのは、せいぜいファックスまでだなと嘆く」「それにしても・・・・・・しかし、自分はよく失敗する。道での転倒などは経験しているので、気をつけているが、日々の暮しの中でのささやかな失敗は明らかに増加傾向にある」といった具合である。そして家の中には"老化監視人"とでもいった"女性"がいて、「この監視はなかなか厳しく、家の中に『老化』の気配が侵入するのを見張っている。年寄りくさい立居振舞いがあると、たちまち警告を受ける」・・・・・・。なるほどということばかりで、80歳で既にそうだと思うものだ。
「ヤツタゼ、電車で単独外出」「居眠りは年寄りの自然」「欠かせぬ<ヨイショ>の掛け声」「浴室で立ち上がれなくなった事故」「大切な手紙の処分」「若さを失って得られる<老いの果実>、貯えられた知が老いを豊かなものに変えていく可能性は十分にある」「今の日程ノートは記載がほとんどなく、ぽつんと記されている外出先はすべて病院(ごみ収集とプロ野球が教える曜日)」・・・・・・。
「90の大台を思う年の瀬――健康寿命の維持・展開を心がける老人がいる一方で自分はもう充分に生きたのだから、このまま自然に日を過ごし、他人に迷惑をかけぬよう充分に注意しながら静かな生を送りたい、と願う人もいるだろう。必要以上に若く元気でいたいとは思わない。かといって、慌てて店仕舞いする気もない」と言う。それにしても、AI ・デジタル時代。「支払いくらい手渡しで」「暗証番号に捨てられて」と語っているが、もっともっと加速度的に凄い時代になってしまう。語られた半分以上は私の今既に感じていること。転倒以外は気をつけてもどうしようもないことかも。
80代の老いと、90代の老い。「80代の老いが持つ詩的世界は歳月とともに次第に変化し、いつか90代の散文が抱える世界へと変化していくのではないだろうか。・・・・・・<老い>は、単なる時間の量的表現ではなく、人が生き続ける姿勢そのものの質的表現でもあることを忘れてはなるまい。・・・・・・<老い>は変化し、成長する」と言う。その境地を見せてくれる。
「現在、各国を席巻するナショナリズム、人種差別、移民・難民問題など、民族という『見えざる壁』が世界を引き裂いている」――2018年の出版だが、ロシアによるウクライナ侵略、ガザでの戦闘が続くなか、「民族」とは何なのかを探り、軌跡をたどる事は重要だ。高校時代に「世界史」にのめり込んだことを思い出す。
人類は、もともと黒人(ネグロイド)から始まった。それがスエズ地峡を渡り、全世界に拡散して、白人(コーサソイド)、黄人(モンゴロイド)、オーストラロイドの4大人種に分類される。昔習った猿人(アウストラロピテクス)から原人、旧人、新人(ホモ・サピエンス)への進化ではなく、今は「アフリカ単一起源説」だ。人種は、DNAなどの遺伝学的生物学的特徴、民族は、言語、文化、慣習などの社会的な特徴によって導き出されたカテゴリー。「世界を支配したインド・ヨーロッパ語族(アーリア人=高貴な人)」・・・・・・。
「中国人の正体は、多民族の集合・混合のハイブリット人種」「いわゆる漢人の作った統一王朝は秦、漢、晋、明の4つしかない。その他は異民族王朝」「宋王朝はトルコ人沙陀族が作った王朝。政権基盤が弱く、失われたプライドをカバーするために、極端な民族主義を掲げる中華思想を打ち立てた(皮肉と矛盾)」「文明は朝鮮半島からやってきたというのは間違い。日本は高度な技術を有していた」「広開土王碑では日本は391年に百済を服属させたとある。663年の唐・新羅連合軍と戦って大敗した白村江の戦いは、百済という事実上の自国の領土を侵犯されたという当事者意識、憤激からのもの」「沖縄人やアイヌ人は『原日本人』」「対立する韓人と満州人、統一王朝『高麗』を建国したツングース系満州人(コリアは高麗から)」「実は満州人政権だった『李氏朝鮮』」・・・・・・。
「ヨーロッパ人の3つの系列――ローマ人の末裔『ラテン人』、ロシア・ポーランド・チェコやバルカン半島の人々は奴隷を意味する『スラヴ人』、温暖化でヨーロッパの食糧供給を担ったドイツなどの『ゲルマン人』(ノルウェー、スウェーデン、デンマークなどのノルマン人は、ゲルマン人の一派)(ノルマン人が建国したロシアとアングロ・サクソン人が定住していたイギリス)」・・・・・・。
「インドにはドラヴィダ人がいたが、アーリア人が侵入し、バラモン教を持ち込み、カースト制をしいた」「バラモン教は、4世紀ごろに、従来の儀式主義を廃し、民衆生活と密着した宗教に変貌。ヒンドゥー教と呼ばれるようになる」「チンギス・ハンの死後、モンゴル帝国は息子たちに分割継承。中央アジアでは、モンゴル人政権のティムール帝国となり、シルクロードを支配し発展。大航海時代で陸路のシルクロードが衰退、インドへ南下しムガル帝国(モンゴル=ムガル)をつくる」・・・・・・。
「イラン人はインド・ヨーロッパ語族、イラク人はセム語族でアラブ人」「トルコ人はもともとモンゴロイド人種だが、アラブ人とヨーロッパ人の血統を継承している。ウイグル人はトルコ人の一派」「民族の離散(ディアスポラ)のユダヤ人は、アラブ人の同系民族」「1917年、ギリス外相バルフォアがユダヤ人財閥ロスチャイルド卿に宛てた書簡(バルフォア宣言)に基づき、イギリス主導で、ユダヤ人のパレスチナ移住が進められ、パレスティナ人が追い出される」・・・・・・。2018年の本書から6年、現在はなお厳しい状況にある。
「複雑に入り組む東南アジアの諸民族」――。「全盛期を迎えた12世紀のクメール人(カンボジア人)による。クメール王朝(アンコール遺跡)」。ほぼ10年前にアンコール・ワットに行ったが、確かにすごかった。
「アメリカ、アフリカ、民族に刻まれた侵略と対立の傷跡」――。「アメリカの先住民インディアンはモンゴロイド」「インカ帝国・アステカ帝国を滅ぼしたテロと病原菌」「15世紀以降、ポルトガルやスペインがアフリカに進出し、黒人は奴隷としてヨーロッパに連行。そしてイギリスが黒人奴隷貿易、砂糖プランテーション」「アメリカが独自に進めた黒人奴隷の『増殖政策』」「強制混血で生まれた『ブラック・インディアン』」・・・・・・。
最後に「世界をつないだモンゴル人」「満州人はなぜ覇権を握ったのか」「300年に及ぶ民族平和の代償(オスマン帝国による他民族協調主義、文明の交差路・バルカンなどに噴き出す民族対立のマグマ」「グローバリズムに侵食される『国民国家』」などが紹介されている。
人種、民族、言語、戦いの攻防などが複雑に絡み合って、現在の世界がある。