「世界のオザワ」の生涯。あのカラヤン、バーンスタインなどに愛され、認められ、ウイーン国立歌劇場音楽監督にまで上り詰めた小澤征爾。「セイジ、きみはいったいどこの惑星から来たんだい?」とバーンスタインは言ったという。まさに異次元。舞台も友人・知人も世界。指揮と同じように汗だくの全力疾走。「ダメでもともと。失敗を失敗としない」と描かれるが、目指す世界の次元自体が違っていたと思われる。
1935年満州生まれ。成城学園高校1年を中退、桐朋女子高校音楽科第1期生として入学、斎藤秀雄に師事。桐朋学園短期大学に入学。1959年2月、貨物船に乗り込み、マルセイユからパリまでスクーターで走る。まさに型破りだ。直ちに、数々の若手指揮者コンクールで受賞する。わずか20代半ばだ。
1962年の「N響事件」――。遅刻、振り間違い、若くて生意気もあったが、「NHKのやり方」との対立で、「小澤征爾ボイコット」「小澤はNHKを提訴」――。「征爾、燕尾服に着替えろ。文化会館に行くんだ」(浅利慶太)。一人で指揮台に立つ。N響を指揮したのは32年後の1995年だった。
本書は、「ニつの恋」「日本フィル分裂事件」「新日本フィルとボストン響」「サイトウ・キネン・ フェスティバル」「世界の頂点へ」「初心に戻る」の各章を立てて小澤征爾の疾風怒涛の人生を語る。
スピルバーグは「シューベルトやプロコフィエフや、ましてマーラーでもなく――もちろんそれはそれで素晴らしいのだけれどもーー指揮台の上にいる、まるでバレエでも踊っているようなスポーツ選手、驚くほど黒くてふさふさの髪をして、白いタートルネックのシャツにビーズのネックレスをしたすごい人物、のせいだった。これがセイジ・オザワその人だった。彼の溢れるエネルギーと優雅さとダイナミズムに、打ちのめされてしまった」と一文章を寄せる。「ヨーロッパへの客演指揮も増え続けた。小澤には20世紀の最も影響力のあるニ人の指揮者が後ろ盾となっていた。カラヤンとバーンスタイン。全く肌合いの違うこの両巨匠から弟子とされて可愛がられた指揮者は、小澤征爾だけだった」「しなやかな動物のような小澤の指揮はいつ見ても楽しい。だから、いつも聴衆は熱狂的な反応を返すのである。小澤が自信に満ち溢れる時、時に周囲を混乱に巻き込む。それは、小澤が主張をあくまでも完結しようとするからだった」と描く。それにしても小澤を助ける世界の音楽・政財界など各界の人々の多さは驚異的だ。凄い。
それは、小澤征爾の人間的魅力、挫折を乗り越え、世界の頂点を目指し続けた強烈なエネルギーの魅力であることを感じさせる圧倒的な著作。
