水滸伝、楊令伝に続いて、いよいよ岳飛伝が始まる。中国随一と讃えられる英雄・岳飛だが、まだこの第一章はその序章にすぎない。掲げる「盡忠報国」――民に忠義を盡し、天に報いる。
それについて負傷した若き延圭がズバッと語る。「戦は、お題目でやるもんじゃない。お題目は人が集まってくるためにあるが、戦は、武器と指揮官の命令でやるもんだと思っています。そして大将が、俺たちをどこかへ連れていってくれるってね。・・・・・・大将が生きているから戦をやり続けられるんだって思いす。・・・・・・梁山泊軍は、だからすげえと、俺は思うんです。大将が死んだのに、戦ができる」と。
その梁山泊は大洪水に襲われ、生命線ともいうべき物流が途絶え、追い討ちをかけるように頭領楊令を失っていた。動きがとれない。息をひそめる梁山泊。楊令に代わる核となる中心人物がいない。いつも当たり前だと思われていた号令も出ない。「いつから俺たちはこんな事になってしまったのか」――嘆きがあふれる。しかし、大将を失った今の空白のなかにも、現場の各部隊の鍛えられた強さとまとまりはくずれない。金や南宋が感じるのは、そうした驚くべき梁山泊の強さだ。
「替天行道」――梁山泊の志。志と核となる人。法と人。何をもって率いるか。悠大なスケールで北方謙三氏の岳飛伝が始まった。
猛暑の7月末の土日、地域では夏祭り、納涼祭、子どもイベント、盆踊り等々、諸行事が行われました。暑いなかで、焼きソバ、・フランクフルトソーセージ・焼きとりを焼いたり、イベントを企画推進したり、地域友好に本当によく御尽力いただき心から感謝です。
防災訓練を行った自治会もあり、AEDなどキメ細かな説明と実施訓練もありました。大地震など災害の場合で大事なのは「災害は現場で起きている」「危機管理は実務だ」という現場主義です。そして自助と共助が組み合わされるだけでなく、より緊密な"近助"が大切だと思います。
猛暑をついて行われた納涼祭や防災訓練などの諸行事――地域の結び付きをつくる大事な大事な催しだと思います。有難うございました。しっかり頑張ります。
若い人に会って話を聞くと、まず出るのは「若者に仕事がない」「安定したいい仕事がない」ということ。26日、参院の社会保障と税の一体改革特別委員会で、谷合正明公明党青年委員長が質疑に立ち、若年雇用支援を強く訴えました。
先日、足立区の「あだち若者サポートステーション」を私と共に視察、そのことも踏まえての勢いのある質問となりました。
「若者サポートステーション」は、ひきこもりなどで一度も就労したことのない30代までの若者を中心に、働くための準備を支援する施設。足立のこの施設は全国で最もキメ細かく若者を支援し、成果をあげています。
谷合参院議員は「こうした若者サポートステーションのような中間的就労支援を、全国的により広く展開すべきだ。拡大を」と訴え、小宮山厚労大臣から「政府の生活支援戦略に取り込む」との答弁がありました。
若年雇用は日本で今、最も重要な問題です。若者の雇用を「つくり」「守り」「導く」ことが大切。「景気・経済」「教育」の土台をガッチリさせ、不安定なサービス業にもっと国をあげて支援する。これまでも党をあげて、ジョブカフェやジョブサポーターを推進し、フリーターの正規雇用への援助、「学生と中小企業と職業訓練」のミスマッチ解消などに力を注いできました。
「若者にいい仕事がない社会」は希望のない、将来が見えない社会。今こそ若者を支援しなければならないと強く思っています。頑張ります。
この小説は、人生を考えさせる。人間は、我の世界を生きるとともに、我々の世界を生きるがゆえに仏典では「人間(じんかん=人と人との間)」という。浅田さんは、「人生を生きよ」「生きることに気付け」「高度成長時代というのは生きることに気付かない、慌しさに身を委ねてしまう時代だ」と言っているようだ。問題を正視せず、日常に流され、忙しさに逃避する。
人の歩み自体が業を生み出し、業を背負っていく。しかしそんなことに気付くはずがない。業の自覚に鈍感な人間をつくり出し、生のみあって死を正視できないのが高度成長の時代だ。
1951年(昭和26年)、浅田さんは生まれている。まさに戦後だ。小説の設定も昭和26年生まれの男性(ゆうちゃん)が主人公となる。昭和35年、小学生の時、一人の転校生キヨと出会う。あの戦争を背負い続ける父親に"あたり屋"にされ、突き放されてダンプに衝突して死ぬ。貧しい親子。悲しい。高度成長は皆が豊かになっているようで、"たまたま時代に乗れた者"と、"たまたま乗れなかった者"をむごくも浮き彫りにしてしまう。
大学生となった主人公は、高度成長の日常を仲間とともに体現する。仲間である安易さから、主人公に恋する真澄の心を感じられない。彼女は死ぬ。
そして、降霊の儀式ではじめて業に気付き、世間にはけっして見せない人の心に沈潜する悲しみに気付くのだ。死者の言葉を聴いて。高度成長が哲学を不在にするベクトルをもち、「社会の繁栄が個人の幸福を約束する大いなる錯誤の中」で、高度成長の申し子たちは生き、流されてしまったことを。「変容と発展を錯誤したこと」を。そして人の幸福は、人と人との間、人間の中にあることを。同じ高度成長の時代を生きてきた者として、この小説は人生を振り返り、人生を考えさせてくれる。