喧騒の文明社会に翻弄される人々。しかし、疲弊し摩滅しがちな日常のなかで、人との出会い、地球や自然への回帰によって自らを取り戻す時が必ずある。数学・物理学は「宇宙とは、世界とは何か」を追求する学問だと思うが、本書は人と地球・自然との邂逅のなかで新たな人間へと開示悟入し、蘇生していく様を、きわめて自然に描いていく。5つの短篇。
「八月の銀の雪」では、就活に連敗、人間の誇りも希望もズタズタにされた理系大学生の堀川が、何をやっても失敗続きのコンビニ店員でベトナム人・グエン(実は地球と地震を研究する大学院生)に会って自らに目覚める。「人間の中身も、層構造のようなものだ。地球と同じように・・・・・・奥深くにどんなものを抱えているか」「深く知れば知るほど、その人間の別の層が見えてくるのは、当たり前のこと」「地球の中心に積もる、鉄の雪――。僕も、耳を澄ませよう・・・・・・その人の奥深いところで、何か静かに降り積もる音が、聴き取れるぐらいに」――。重層的で芯が通った素晴らしい作品。
「海へ還る日」――離婚して1人で幼な子・果穂を育てている女性・野村。ふとしたことで出会った宮下という女性に上野の「海の哺乳類展」クジラを紹介される。「クジラたちは我々人間よりもずっと長く、深く、考えごとをしている」「わたしの意識は、海へと潜っていった。暗く、冷たく、静かな深い海に」・・・・・・。「アルノーと檸檬」――報道用伝書バトとして訓練されたアルノー19号はなぜ303号室に迷い込んで居ついたか。「玻璃を拾う」――珪藻を並べてデザインや絵にする「珪藻アート」。「人間には絶対に生み出せない玻璃の芸術品を僕はただ拾い集めているだけ」という野中。瞳子と奈津は、その微妙な世界を知る。「十万年の西風」――原発の下請け会社を辞めて、一人旅をしていた辰朗は、茨城の海岸で凧揚げをする初老の男に出会う。「ここに来たときは、必ず凧を揚げるんです。父に見せてやりたくてね」というが、父親は第二次世界大戦時、その地で「気球」による「風船爆弾」をつくり、打ち揚げに失敗して爆死したという。
18日、第204回通常国会が始まりました。会期は150日間、6月16日までとなります。まずは、2020年度第3次補正予算案、2021年度予算案と、税制改正関連法案の早期成立に全力を上げます。
補正・来年度予算案は、何といっても新型コロナ対策――。主な内容は、「新型コロナ対策」として、医療への緊急包括支援交付金の増額、ワクチンの無料接種の体制整備、雇用調整助成金の特例措置の延長など。「防災・減災・復興」として、流域治水や老朽化対策を進める5か年加速化対策。「子育て・教育」として、不妊治療費用の助成拡充と来年4月からの保険適用、公立小学校を1学級当たり35人以下にすること。「中小企業支援」として、中小企業などの業態転換に対する補助金を創設。さらに長期的戦略として、「デジタル」「グリーン(脱炭素化)」へのダッシュ。デジタル庁の設置や、企業の革新的な技術開発を支援する基金を創設します。
補正・来年度予算案を早期に成立させ、速やかな執行ができるように頑張ります。党の両院議員総会で「気合を入れて頑張りましょう」と呼び掛けました。
今でいえば東京下町の風情を残す谷根千――。谷中、根津、千駄木、そして駒込あたりの江戸の片隅、小さなどぶ川(心淋し川=うらさびし川)沿いに、4つ5つの貧しい長屋があった。貧しくも懸命に生きる人々の心根が6つの連作短篇として綴られる。かすかな喜びと哀しみが全身を覆うとてもいい話。じわっと来る。
「心淋し川」――この町とこの家から離れたいと思いつつも留まって、針仕事をする19歳の「ちほ」。この界隈の仕立物を請け負っている志野屋の仕事をしている「ちほ」は紋上絵師の元吉に淡い恋を抱く。「誰の心にも淀みはある。事々を流しちまった方がよほど楽なのに、こんなふうに物寂しく溜め込んじまう。でも、それが、人ってもんでね」と差配の茂十が「心淋し川」についてしみじみ語るのだ。
「閨仏」――不美人な妾ばかりを長屋に4人も囲う大隅屋六兵衛。最も年増の「りき」は、六兵衛が持ち込んだ張形に、かつて教えられた小刀で悪戯心もあって仏像を彫り始める。仏師の郷介は「こいつは見事だ。・・・・・まるで円空仏だ。人生の生きざまを写したものかもしれない」と感心し、二人の心が近付いていく。「はじめましょ」――四文銭で食える飯屋の「四文屋」を営む腕のいい与吾蔵。ある日、根津権現で小さな女の子の唄を耳にする。それは、かつて手酷く捨てた女が唄っていたもので、この子はもしやあの時の自分の子ではないかと思い、ついに母親に巡り合う。「冬虫夏草」――長屋に住む「吉」と「富士之助」の母子。大怪我を負って歩くことも立つこともできない富士之助は、毎日毎日、鬱憤を酒で紛らわし母を罵倒、長屋では顰蹙を買っていた。日本橋の三代続いた薬種問屋「高鶴屋」の内儀だった吉。どうしてこんなに富士之助を甘やかしているのか。「母は強しか・・・・・・怖いね、女親というものは」・・・・・・。
「明けぬ里」――根津遊郭一の美貌・明里と「よう」(葛葉)が、共に落籍したあと出会う。隠居が「いちばんの嘘つきは明里だろうな」という。明里の本当の心の中とは・・・・・・。「灰の男」――長屋のある心町(うらまち)の差配・茂十(久米茂左衛門)がこの地に住んだ因縁が語られる。「楡爺、あんたがうらやましいよ。一切を、忘れちまったんだからな」「おれは18年経っても、このざまだ。倅の死から、一歩も動けねえ」・・・・・・。そして楡爺が死に、寂寥が茂十の身を包む。
「セクシュアル・マイノリティは存在しない。なぜなら、マジョリティなど存在しないから」「異性愛以外の愛の多様性を認めましょうと言っても、それはただの言葉であり、努力目標である。努力目標だから、すぐ『べき論』になってしまう」「『セクシュアル・マイノリティ』を語るときに盲点となるのは、無意識に『ヘテロセクシュアル(異性愛者)には問題がない』という気持ちになることだ」「『男は』『女は』という言葉は、異性愛者の間にだけある。それは両性を分断する言葉だ」・・・・・・。性自認と性志向に多様性を認めようというのはけっこうだが、その前に、一人ひとりが自分と自分の性についてわかっているのだろうかと、「愛と性と存在」についてラジカル、根源的に真正面から、しかも自分や友人の生命からの声を露わにして問いかける。「男と女の脳」「LGBT」「妻(夫)のトリセツ」などとは全く次元を異にして、人間存在に迫る圧倒的な力によって既成の"壁"が崩れ去る。
「『敗北を抱きしめて』でジョン・ダワーは『昨日まで危険で男性的な敵であった日本は、一度のまばたきのうちに、白人の征服者の思い通りにできる素直で女性的な肉体の持ち主へと変身した』と言っている。敗戦後の日本とは、それは女だったのだ」「2019年東大入学式の上野千鶴子の祝辞――私は男子新入生の立場になったと想像してみて、残酷だと思った。敏感な男たちに極度の緊張と罪悪感を与える」「ジェンダー(性の社会的役割)の問題とセクシュアリティ(身体も含めた性)の問題が、このスピーチでは混ぜられている。いや、セクシュアルな主体として、誰かを愛し、誰かに愛されたいと願う個人のことはほとんど扱われていない」「女性優位の言論空間――女の人生はわかりづらい。女は生きづらい。女は生まれて死ぬまでホルモンに体調から感情まで支配されて生きるようで・・・・・・自分の思い通りになることは少なくて・・・・・・セックスにまつわる負担は女に一方的に、圧倒的に多い」「#MeTooの当事者には、いつだって特定の『加害者・その人』がいたはずだ。それがいつしか『対男』のワードに#MeTooが定着しつつある危険性を感ずる」・・・・・・。
「草食男子という誤認――男のリスクは女より高い、男になれない男たち、"セクハラ"という言葉の有効性、セクハラの多くは途中まで恋愛的、セクハラとは"身内感覚""DV(ドメスティック=身内)"」「好意や愛が反転したときが、いちばん人が傷つく。愛と性はずいぶん違う。人は一人ひとり違うし、そこには性別という究極の不均衡のファクターもある」「愛の不在、性の不在――人類はまだ、ホルモンと外形レベルで性別を変えるという実験を、近年までしたことがない。最初で最後の問題は、心である。身体を変えても心は全とっかえにはならない。性同一性障害は、ほとんど自然状態で存在する。自分の生まれついた性に、100%くつろげる人はいない。どこがどうずれているのか、そのかたちを可能な限り精密に知ることが、人が生きていく必須の知恵となるだろう。それは『治療』ではない。『生き方』だ」・・・・・・。そして赤坂さん自身や友人の深い苦悩、愛とセックスの"ずれ"、身体性と存在について語るのだ。「愛があるが、セックスが難しい」「愛がない。セックスがある」「同性愛とはきっと同性を異性と感じる感性のことだ」・・・・・・。
「すべての人は、モザイク状にできていて、男であり女である。比喩でなく、多様性のお題目でもなく、細かく、いろいろなことがずれている。そのモザイクのピースが、女と男、どちらかに生まれたボディと適合したりしなかったりする。すべての人は性同一性障害をもつ」「わたしたちはもう人が異性愛者であることを自明とはしなくなった。にもかかわらず、異性愛よりずっと新しい人工概念であるはずの『パートナーシップとは一対のペアのもの』という信念の中で考えることを手放さない。同性婚が認められても結婚はペアのものである」と、これに不思議を投げかけている。その問いかけは、「他人とゆるやかな絆を持てたらどうなるか」「家族の定義」にまで発展することになる。
「未だ言葉がない苦しみのための言葉」――。愛と性が分離する。ずれる。あるいは、愛したい存在と欲望する存在がずれている。トランスの女友達M(元男性)の話は、性志向と性自認がずれて聞いているこっちも頭が混乱してくるが、赤坂さんは「できあいの用語を全部捨ててみた。そこにいるのは、まるごと、その人だ」・・・・・・。そして「定義のほうが大雑把すぎる」と思うのだ。「すべての人は、ずれている。ずれかたの程度は個人差があるし、感受性にもよる。『マイノリティ』は質の違いでなく、程度の差である」・・・・・・。苦悩のなかで、生命存在をかけての思考過程を開示してくれる。魂の思索は重い。