あの戦争の時、人類史上唯一となる米本土を爆撃した男がいた。藤田信雄元帝国海軍中尉。昭和37年9月9日、イ25潜水艦飛行長としてオレゴン州の森林を爆撃した。アメリカを震撼させる山火事を狙っての砲撃だ。藤田が操縦するのは潜水艦に格納され飛び立つ零式小型水上偵察機というわずか全長8.5メートルのもの。そこに藤田が提案した爆弾が装着されたが、爆弾のせいで、時速は1 40キロしか出ない。米側の厳重な警戒網をかいくぐり爆弾2 発を投下した。敵機から追われるが懸命に帰艦する。
機縁となったのは、昭和17年4月18日、日本本土が初めて空襲に見舞われたドゥーリットル隊による国際法上禁じられている「民間人に対する攻撃」にある。小中学校まで爆撃の的とされ、日本国民の怒りは沸騰した。そしてアメリカ本土爆撃。「いいか。諸君、・・・・・・これは東京空襲に対する我々からの心のこもった返礼である。借りはきっちり返してやろうではないか。米国建国160年、アングロサクソンの鼻っ柱を我々がへし折ってやるのだッ。たちまち艦内は万歳と喚声で興奮のるつぼと化した」と綴っている。
その後、藤田はイ25でレンネル島沖海戦、ガダルカナル島戦などに参加。死線をくぐり抜け、鹿島航空隊付教官を命ぜられる。そこでも、グラマンとの空中戦、さらに特攻隊の教官となり、自ら特攻志願第一号となる。そして「まさかの敗戦」となる。凄まじい経歴だ。
戦後は、仕事で苦労の連続。しかし昭和37年、突然の「青天の霹靂」――。「日米友好親善のため、オレゴン州に爆弾を投下した貴殿及びご家族を当地に招待したい」とオレゴン州ブルッキングス市長からの手紙が届く。反対もあったが、「戦争を美化するのではなく、あくまで日米両国の友好と平和親善のため」とパレードで大歓迎される。
その後、やっと築いた会社が倒産。高齢ではあったが、特攻の部下の下で裸一貫、一兵卒で働き、工場長にまでなる。優秀で自己統制力と体力・気力がしっかりしたまさに鍛え抜かれた「軍人」の姿が浮かび上がる。藤田さんは「ブルッキングス市民の善意に何かお返しをしたい。ブルッキングス市の高校生を何名かをつくば科学万博に招待したい」「日米親善のための草の根交流」と身銭を切って実現する。そして「貴殿の立派で勇敢な行為を讃え、ホワイトハウスに掲揚されていた合衆国国旗を贈ります」と、レーガン大統領より星条旗を贈られる。1997年、85歳で逝去。ブルッキングス市より名誉市民章を受ける。
戦中、戦後と凄まじい人生を生きてきた一人の人間の一筋貫徹の姿が浮かんでくる。