日本と台湾を往復、心温まる4つの物語。日韓といえば歴史認識などでぶつかるとげとげしい物語になりがちだが、この台湾との物語は「国境と言葉を跨いで射し込む光に照らされた」「歴史が交錯する中で生まれた複雑な感情を温かく包むような」物語で、こちらの心まで幸せに包まれる。
「ニ匹の虎」――。3歳の頃から仰々しい「上陸許可」申請で、台湾籍のまま両親とともに日本に来て「台湾人だけれど、日本で育った」女性。台湾人? 日本人? 日本語とも中国語ともつかない言語。その台湾でも、母の両親は大陸の出身。「みんなして、私のことを本物の台湾人ではないと思っているんでしょう」と亡くなった母は台湾語で嘆いていた。そして今回、祖母のお葬式で台湾に来ると、親族が集まり思い出を語る、その温かなこと・・・・・・。
「被写体の幸福」――。日本で働く台湾からの留学生が、写真家の青年に声をかけられモデルとなる。親密な夏が始まり恋をする。「可愛い台湾人の女のこ」と言われるが、「ちがう、そうじゃない。わたしは----」「台湾人の女の子として、ではなく、ただのわたしとして、かれに見つめられているつもりだった」「わたしは台湾人だけど、台湾人じゃないよ。わたしはわたしだよ」・・・・・・。
「君の代と国々の歌」――。新潟で挙式をして、2ヶ月後に、台湾にその報告に帰った女性。日本で育った娘が日本人の花婿を連れて台湾に帰ってくる。「日本人なのに、中国語がよくできる婿なんか、姉さんたちは運がいいな」「子供の頃からずっと、まるで日本人の女の子みたいだったわ」と言われる。親族が迎えてくれるが、台湾語、中国語(外省人)、日本語が飛び交い、「富士は日本一の山。おじいちゃん、この歌、好きだったよね」などの声。日本への好感も共通だが、世代で日本への感覚も違う。自分の名も台湾での発音は違うが肯定的だ。「日本人じゃないくせに、日本人みたいに日本語を話すわたしをお祖父ちゃんはどう思っていたんだろう? わたしは、台湾人としても、日本人としても半端なのだ」・・・・・・。ふだんは、日本に住んでいて、台湾人。微妙かつ複雑な歴史の中の自分のアイデンティティー。「日本の元号が令和になってまもない2019年5月吉日。わたしたちの宴も、まだ、はじまったばかりだ」・・・・・・。
「恋恋往時」――。日本人と結婚したが、不妊のために離婚し、父が開いた生活雑貨商を手伝う台湾人女性。その父は、かつて新聞社の写真部に所属しており、退職後、カメラを買い取ってたくさんの写真を残していた。
台湾と日本――それぞれの思いが、温かく、肯定的に交錯する。稀有な作品。
動乱の幕末、家禄2500石の旗本としての矜持と4度にわたる勘定奉行を任せられた小栗上野介忠順の生涯を描く力作。幕末の歴史を徳川幕府の側から描くと、徳川慶喜や勝海舟らがどうしても表に出るが、破綻寸前の幕府財政を支え、列強に負けない近代日本の産業化を目指した聡明、厳格、信念の男であり、徳川家に忠義を尽くした直参旗本。それが小栗上野介忠順だった。時流をつかみ、数字にも強い。ズケズケと慶喜であろうが、老中であろうが直言する。それゆえに、敵は多く、職を辞すことも何度も。「自己顕示の塊のような勝麟太郎」と合うはずがなかった。
1860年(万延元年)、遣米使節団として訪米。金銀流出問題の解決での通貨の交換比率の見直し交渉に辣腕。先進技術に圧倒され、日本での造船所建設を志し、鉄による一本のネジを大切に持ち帰った。
帰国して外国奉行に就任、ロシア軍艦が対馬に居座る事件に対処。この交渉の辣腕ぶりも見事。1864年(元治元年)に、軍艦奉行に就任すると、造船所の建設に本格的着手。多くの借金をしてまでとの反対論に、フランスとの借款という日本人の誰も考えつかない方法を使ってまとめあげてしまう。
最も苦しんだのは攘夷思想の跋扈。生麦事件を始め、列強への賠償は、結局は幕府の負うこととなり、財政のみならず、兵庫の開港など外交要求は右往左往する老中のなか、小栗忠順が奮闘するしかなかった。長州征伐も将軍の入洛も、すべては財政負担に帰着する。「攘夷によって、この国が背負った代償は、あまりに大きい。諸外国への莫大な賠償金、改悪された関税、不利な条件のまま迫る兵庫開港、ニ度にわたる長州征伐に垂れ流された軍費」・・・・・・。それを工面するのも、結局は小栗忠順に委ねられた。
時代の趨勢を予見し、正論・ 直言の忠順は、憎まれても、裏切られても、「この国の100年後の希望」のために、信念を貫こうとする。武士の誇り、旗本の忠義、無責任な者たちへの怒りと慨嘆が伝わってくる。
大政奉還、王政復古、そして戊辰戦争・・・・・・。自ら手がけたカンパニーや造船所の行くえを見ることなく斬首となる。「最期に思うことは、ただ一つ。それは、この世に生きた一人のネジとしての、切なる祈り。百年後に生きる人たちへと続く航路に、どうか、消えない光が残っていることを」と結んでいる。読んだ後も、小栗忠順の「残光」がある。
吉本ばななによる現代版「遠野物語」が表題だが、そんなリキミはないと言う。「私が不思議を書くのであれば『日常を生きている中で、確かだったはずの世界に裂け目を見た、そしてそれは結果として、長い目で見たら、人生に少しだけ光を与えることになった』というものであってほしいと思った」と吉本ばななは言っている。
日常の喧騒の中で、ふっと訪れる生と死の実存的生命の世界。家族や友人の死に触れたとき、過去と未来を映し出す夢を見たとき、偶然とは思えない人との出会いや出来事、本書にも出てくる「天井の木目に小さな顔があった。何度見ても顔だった」ようなこと、事故(訳あり)物件の住居・・・・・・。理屈のつかない、不思議な事はこの世にあり、人は事象の根底にある生命の深淵を覗くことになる。「怪談」話ではなく、生死の生命論的な感情に光を当てた13の短編集。
「だまされすくわれ」――。山の中を一人で歩くと、精神状態が変化する。人に会っても、人? 霊?
「唐揚げ」――。白血病で亡くなった従姉妹の小さなノートを預かる。お見舞いに行った日のことが書いてあり、「生きている若者へのうらやましさにもだえる」と・・・・・・。生きるって、贅沢なものだ。
「渦」――。外国人の元彼が死んだ。父も死んだ。「なんだかんだ言っても、先に進むのがいいんだよな。まだ見ていないものを見るっていうだけでも」と言った父を思う。「カーテンを開け、少し窓を開けた朝の光が部屋を照らし、新鮮な空気が細く入ってきた。今にいる・・・・・・やはり今というものが、何より最強なのだ・・・・・・とつぶやいたら、私の気持ちはさまようのをやめ、大丈夫になった」。
「幽霊」――幽霊みたいな細い傷が腕に刻まれたリスカの女に惹かれた。美しい、純な世界。とてもいい。
「光」――。著者の実話だと言う。中学生の時から知っていた若い女性のAさんがビルから飛び降りて亡くなった。彼女に言った最後のきつい言葉がどうしても気になってしまう。壊れてしまっていたAさん。「人は母の子宮からこの世に出てきたときに、世界との大きなつながりを失った感覚になるのだと思う。そして誰かたった1人でいいから、いつも自分の事ばかり考えてかまってくれる、母のお腹の中にいたときのように、一体化してくれる誰かを心のどこかで一生探してるように思う」「そのことを思い知りながら、やはり私はこの宇宙の理を、計らいを信じていたいと思うのだ。個人の世界の中では解決できない、もっと大きな因果の中で人は生きている」・・・・・・。「あらためてAさんに対して思う。出会ってくれてありがとう。笑顔を共有してくれてありがとう。思い出をありがとう。出会ってよかった」と言う。無常の中に常住を見る。宇宙生命の中で人間を見る人間哲学に導入する生老病死。
「炎」――。同級生のリュークが失踪する。普通に家族がいて、日常がある自分。家族の土台もなく、周りは知らない人ばかりのデューク。彼のベッドで眠ると悪夢を見る話。「おまえは育ちがいいんだよ。でも、すばらしいことだよ。俺はさ、いろんなバイトをしているうちに、裂け目みたいなものをいっぱい見た感じがするんだ」・・・・・・。「人が、どんなに人生をしくじってしまい、もしかしたら命を落としたかもしれなくても、何かほんのわずかな救いのようなものが、そこにはあり得る。親というものは、理屈も時空も超えて猛進して、子供を守りたいものだ」ということを知るのだった。
「わらしどうし(僕はひとりで寝る夜、天井の模様の中にひとつの絵を見つけていた)」「楽園(お母さんは死んだ兄を庭に埋めたという)」「最良の事故物件(大学生活のボロアパートに男の幽霊がいた)」「思い出の妙(天井の木目に知らないおじさんの顔があった)」・・・・・・。
世の中の裂け目に触れても、長い目で見たら、結果的に人生に光を与えることにつながる。絶望の中にもその深さを抱え続ければ小さくても光は見出すことになる。無常の中に常住を見る生命の哲学への機縁。
「私の履歴書」(2007年7月 日本経済新聞)、「野球は人生そのものだ」(2009年11月 日経新聞出版)を底本として2020年12月発刊された最新の「自伝」。
とにかく、圧倒的な闘争心がほとばしる。大リーグに誘われた。だがジャイアンツただ一筋。ヤンキースのディマジオに憧れた。「私が休んだそのゲームに私を初めて見に来てくれた子供がいるかもしれない」と驚異の56試合連続安打のディマジオは怪我をおして出場したが、それが長嶋そのもの。「周りの人が喜んでくれるのか。自分をどう表現したらいいか、そればかりを片時も忘れず考えていた」「プロとは、表現力、観客に感動を抱かせる、それがプロたるものの使命である」――。先日も落合が語っているのをテレビで見た。
「野球は格闘技」――それもディマジオだが、叩き込んだのは、恩師である砂押立教監督の伝説の猛特訓。知っている話だが、今改めて凄まじい。
有名な話ばかりだが、怪我もあり、スランプは常にある。そこを取り戻す皆に見せない懊悩と努力。「私の本質というのは、天才肌でも何でもない。夜中の1時、2時に苦闘してバット振っている。人がいなくなったところでは、自分との技への血みどろの格闘を一人で必死にやってきた。・・・・・・舞台裏を見せないのが、プロとしての私の信条だ。プロとは夢を売る商売」「巨人の『4番の座』を守るために、朝から晩まで、命がけの練習をやり抜いた」――。先日、松井が言っていたが、「バットが空を切る音がある。素振りする風の音のちょっとした変化でわかる。つかんだ技術もまたすぐ離れていく。天才肌と動物的勘だけで過ごされるような世界ではない」・・・・・・。「燃えるというのは、集中力が燃えること。集中力がバーッと燃えた場合は、逆に冷静になる。血がファーと落ちてきて、スーッと冷静になる。カッカしていたら、勝負には勝てない」・・・・・・。「中途半端に終わった人は、誇りが体内に養成されない。やはり誇りは大事だ」・・・・・・。
「『勝負強さ』という一点に自分の打撃を収斂させていった中距離バッターだ」「王さんは『天才』、僕はいわゆる一つの『努力の人』」「王さんには、頼れる荒川博さんという名伯楽がいた。私をいつも見守るコーチはいない。試合後、自宅に直行し、地下室の電気のスイッチを切り、パンツ一丁で暗闇の中でバットを振る。スイングが空気を切り裂く音に神経を集中させる」・・・・・・。
プロの生き様を語る言葉は深くボディに食い込んでくる。
昭和49年10月、現役最後の試合は中日戦。優勝が決まっていた中日の中で、何が何でもと高木守道が駆けつけたの覚えている。そして監督になった後の苦悩、2度目の監督で伊東の地獄の秋季キャンプ、メイクドラマ・・・・・・。一つ一つを私もくっきり、全部と言っていいほど覚えている。
2002年9月17日、ちょうど日朝平壌宣言の日の夜。後楽園ドームで渡邉恒雄さん、長嶋さん、二階さん、大島さんと私で野球観戦をした。平壌が気になってテレビ報道を見ていたが、長嶋さんと2人だけで解説を受けながら野球を観る贅沢な時間もあった。「長嶋です」と、両手を添えて名刺をくださった丁寧な姿を思い出す。私が感じたのは、勝負の世界を生き抜き鍛えた「人格」だった。「野球は人生そのものだ」という色紙もいただいた。写真はその時のものだ。
たったひとつの激励の言葉で、人は元気になり、人生さえも変える。言葉の力は大きい。小さなコミュニティーでは、背景を共有しているだけに言葉は伝わりやすいが、今は、顔の見える関係が広がった先にさらに顔の見えない関係が追加されるやっかいな時代だ。さらにスマホとネット、SNSが日常を覆い、顔の見えない人ともコミュニケーションできるという、便利だがよりやっかいな時代を迎えている。そうした今、「背景抜きの言葉を使いこなす力は非常に重要、それは生きる力と言ってもいい」と言う。その言葉の力をどう磨くか、日本語の足腰をどう鍛えるか。歌人の著者は、現場の実体験を通じて、いかに考察し、鍛え、言葉を選び抜いてきたかを語る。納得。鮮やかさに目の前がパッと開ける。
「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日」――。「サラダのS音との響き合いを考えて、6月ではなく7月を選んだのは正解だった。が、いまだに実は『味』の『じ』という濁音が私は気になっているし気に入らない」「ラップも短歌も言葉のアート」「濁音は、力強いけど不快でもある」と言う。「『万智さんは、いいねの元祖ですね』と言われたことがあるが、同じ『いいね』でも、大好きな人からの『いいね』は違う。それは自分にとって唯一無二の『いいね』なのである」・・・・・・。
「五音七音にのせると、なぜ日本語はこんなにも気持ちよく調子よくなるのか、その『なぜ』は解明されてはいない。が、日本語をリズミカルにする魔法であることは確かなのである。『誰が使ってもうまくいく魔法なんて』と思うか、『そんないいものがあるなら使わない手はない』と思うか。ラッパーや詩人は前者で、歌人や俳人は後者である」・・・・・・。「リズム」か、「五七五七七に簡単に身を委ねる抵抗感」の逸脱か、「もっと自由に新しいリズムの中で言葉を生かそうとする」か・・・・・・。歌や詩はもちろん、芸術や演説もそう。「笑いと逸脱」。
「クソリプ(糞、最低なリプライ)」はSNSなどでも多い。「トゲのある言葉を投げられて、傷ついたり消耗したりせぬよう、クソリプの構造を知って、見抜く力を持っておくのはネット時代を生きる知恵というべき賢明な自衛策だ」・・・・・・。
最近の文末にマルをつけると威圧的に取られるというマルハラ――。俵万智さんの一首、「優しさにひとつ気がつく Xでなく○で必ず終わる日本語」――またたくまに10万を超える「いいね」がついたと言う。マルで終わる日本語の優しさ。
河野裕子の恋の歌――「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」――。
「夜の街」から生まれた『ホスト万葉集』――「『ごめんね』と泣かせて俺は何様だ誰の?一位に俺はなるんだ」(手塚マキ)。
和泉式部、尋常でない言葉のセンス――「黒髪の乱れも知らずうち伏せばまづ掻きやりし人ぞ恋しき」「白露も夢もこの世もまぼろしもたとへていえば久しかりけり」――。作ったというより宿ったというような切実感と俵万智さんは言い、自身の「最後とは知らぬ最後が過ぎてゆくその連続と思う子育て」を紹介する。
「AIを敵視しないで、本質的な違いを認識したうえで面白い相棒として付き合っていけたら」「短歌の初心者あるあるとして『情報を詰め込みすぎる』というのがある。ついつい欲張ってしまうのだ」「短歌を作るときに、言葉の濃度というのは非常に大事で、濃さがちょうどいいなと思えたときが完成の実感を持てる瞬間だ。器に対して、濃すぎても薄すぎても、よくない。適切な濃度の中でこそ、言葉は生きるのだ。これは短歌に限らず、どんな場面でも大切なことだろう(原稿用紙1枚、3分間スピーチ、半日のデート)」・・・・・・。
大変面白い著作。言葉の力は優れた日本語の遣い手によって生きる力となって躍動する。