「現在、各国を席巻するナショナリズム、人種差別、移民・難民問題など、民族という『見えざる壁』が世界を引き裂いている」――2018年の出版だが、ロシアによるウクライナ侵略、ガザでの戦闘が続くなか、「民族」とは何なのかを探り、軌跡をたどる事は重要だ。高校時代に「世界史」にのめり込んだことを思い出す。
人類は、もともと黒人(ネグロイド)から始まった。それがスエズ地峡を渡り、全世界に拡散して、白人(コーサソイド)、黄人(モンゴロイド)、オーストラロイドの4大人種に分類される。昔習った猿人(アウストラロピテクス)から原人、旧人、新人(ホモ・サピエンス)への進化ではなく、今は「アフリカ単一起源説」だ。人種は、DNAなどの遺伝学的生物学的特徴、民族は、言語、文化、慣習などの社会的な特徴によって導き出されたカテゴリー。「世界を支配したインド・ヨーロッパ語族(アーリア人=高貴な人)」・・・・・・。
「中国人の正体は、多民族の集合・混合のハイブリット人種」「いわゆる漢人の作った統一王朝は秦、漢、晋、明の4つしかない。その他は異民族王朝」「宋王朝はトルコ人沙陀族が作った王朝。政権基盤が弱く、失われたプライドをカバーするために、極端な民族主義を掲げる中華思想を打ち立てた(皮肉と矛盾)」「文明は朝鮮半島からやってきたというのは間違い。日本は高度な技術を有していた」「広開土王碑では日本は391年に百済を服属させたとある。663年の唐・新羅連合軍と戦って大敗した白村江の戦いは、百済という事実上の自国の領土を侵犯されたという当事者意識、憤激からのもの」「沖縄人やアイヌ人は『原日本人』」「対立する韓人と満州人、統一王朝『高麗』を建国したツングース系満州人(コリアは高麗から)」「実は満州人政権だった『李氏朝鮮』」・・・・・・。
「ヨーロッパ人の3つの系列――ローマ人の末裔『ラテン人』、ロシア・ポーランド・チェコやバルカン半島の人々は奴隷を意味する『スラヴ人』、温暖化でヨーロッパの食糧供給を担ったドイツなどの『ゲルマン人』(ノルウェー、スウェーデン、デンマークなどのノルマン人は、ゲルマン人の一派)(ノルマン人が建国したロシアとアングロ・サクソン人が定住していたイギリス)」・・・・・・。
「インドにはドラヴィダ人がいたが、アーリア人が侵入し、バラモン教を持ち込み、カースト制をしいた」「バラモン教は、4世紀ごろに、従来の儀式主義を廃し、民衆生活と密着した宗教に変貌。ヒンドゥー教と呼ばれるようになる」「チンギス・ハンの死後、モンゴル帝国は息子たちに分割継承。中央アジアでは、モンゴル人政権のティムール帝国となり、シルクロードを支配し発展。大航海時代で陸路のシルクロードが衰退、インドへ南下しムガル帝国(モンゴル=ムガル)をつくる」・・・・・・。
「イラン人はインド・ヨーロッパ語族、イラク人はセム語族でアラブ人」「トルコ人はもともとモンゴロイド人種だが、アラブ人とヨーロッパ人の血統を継承している。ウイグル人はトルコ人の一派」「民族の離散(ディアスポラ)のユダヤ人は、アラブ人の同系民族」「1917年、ギリス外相バルフォアがユダヤ人財閥ロスチャイルド卿に宛てた書簡(バルフォア宣言)に基づき、イギリス主導で、ユダヤ人のパレスチナ移住が進められ、パレスティナ人が追い出される」・・・・・・。2018年の本書から6年、現在はなお厳しい状況にある。
「複雑に入り組む東南アジアの諸民族」――。「全盛期を迎えた12世紀のクメール人(カンボジア人)による。クメール王朝(アンコール遺跡)」。ほぼ10年前にアンコール・ワットに行ったが、確かにすごかった。
「アメリカ、アフリカ、民族に刻まれた侵略と対立の傷跡」――。「アメリカの先住民インディアンはモンゴロイド」「インカ帝国・アステカ帝国を滅ぼしたテロと病原菌」「15世紀以降、ポルトガルやスペインがアフリカに進出し、黒人は奴隷としてヨーロッパに連行。そしてイギリスが黒人奴隷貿易、砂糖プランテーション」「アメリカが独自に進めた黒人奴隷の『増殖政策』」「強制混血で生まれた『ブラック・インディアン』」・・・・・・。
最後に「世界をつないだモンゴル人」「満州人はなぜ覇権を握ったのか」「300年に及ぶ民族平和の代償(オスマン帝国による他民族協調主義、文明の交差路・バルカンなどに噴き出す民族対立のマグマ」「グローバリズムに侵食される『国民国家』」などが紹介されている。
人種、民族、言語、戦いの攻防などが複雑に絡み合って、現在の世界がある。
「『もののあはれ』と『日本』の発見」が副題。著者はなぜ、本居宣長に注目するのか。「私が宣長に惹かれるのは、『西側』から到来する普遍的価値観にたいし、日本人がとった対応の最良の事例を提供してくれるからである」「人はだれしも、生きる時代を選ぶことができない。・・・・・・本居宣長の前にあったのは、日本を日本語以外の世界観で説明し続けてきた言論空間、すなわち、もう一つの『歴史』であった。西側から到来する価値を普遍的だとみなし、その導入に腐心することで国家として生き延びる。その立ち振る舞いは、自分の記憶を積極的に捨てることで、自分であろうとすることだった。だが、その国家とは、果たして日本だといえるのだろうか」「文化は文明に呑み込まれているのであって、固有の顔を失っている。・・・・・・だから、和歌を詠み、源氏物語を学ぶことで、宣長は『歴史』からの脱出をはかったのである」と言う。誰よりも根源的に、始原的に西側からの文明を撥ねのけ、日本文化、「日本」と「もののあはれ」を屹立させた本居宣長の独創的な「肯定と共感の倫理学」をくっきりと描き出す。
西洋文明の奔流を受けた明治日本の1900年前後、呻吟した知識人が世界に向けて「日本人」を発信した。1894年の内村鑑三「代表的日本人」、1899年の新渡戸稲造「武士道」、1903年の牧口常三郎「人生地理学」、1906年の岡倉天心「茶の本」などだ。深刻なアイデンティティー危機の中での叫びだろう。「西側」からもたらされる合理の風――勧善懲悪の儒教も形式化する仏教も、二元論とロゴスを基調に科学的な論理思考で組み立てられる西洋文明の世界観も、情欲を持って人間関係の中で生きる赤裸々な人間との間で生ずる摩擦は必然的であった。特に文明の衝突が現れるのが言葉の世界であり、宣長の「もののあはれ」論も、「そうした緊張関係を養分とし、歴史の堆積から生まれ出てきた思想である」と言うのだ。
しかし、論点はさらに進む。その「『もののあはれ』論の最大の発見は『色好み』、すなわち男女関係と国家の関わりを論じた点にあった」「多くの国文学研究者は 『近代』文学の発見だとみなし、勧善懲悪の儒教的文学観から解放された自己主張、自我解放の文学論の登場だとみなしてきた。しかし恐らく宣長最大の功績は、和歌と物語世界が肯定と共感の倫理学を主題とし、恋愛から『日本』という国家が立ち上がってくることを証明した点にある」「宣長は人間の実存ではなく、『関係』に注目したということだ」と言っている。
そして本書では、そこに至った本居宣長の人生の歩みが語られている。特に若き頃、江戸の「あきない」と京都の「みやび」に触れたこと。不向きな「あきないのすじ」を逃れ、「医者」に転身したこと。この江戸中期の時代、急激に貨幣経済が浸透、農本主義から重商主義への劇的な変化が起き社会が流動化したこと。何よりも宣長自身、女性・ 民との恋愛があったこと。契沖らの学問に触れ、賀茂馬淵と出会い(松坂の一夜)があり、古事記研究にのめり込んでいくこと。そして源氏物語は何を描いているかの考究・・・・・・。その思考過程は、極めて面白く、しかもたおやかで揺らぎない。
「しき嶋の やまとごゝろを人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」には、死の匂い、男性的なイメージが伴いがちだが、熱い息づかいの恋愛も含め、移ろいゆく事象を多様性のなかで柔らかに受け入れる宣長の「もののあはれ」「肯定と共感の倫理学」は、むしろ女性的だとする。
「国学」とは、「復古的であると同時に、『西側』への懐疑から始まった学問」であり、「儒教や仏教を外来思想として退け、和歌と物語文学に日本人の原型を探る学問」だと言い、宣長はそれを万葉集や日本書紀ではなく、古事記、古今和歌集、源氏物語に見出したのだった。
「日本」の精神的古層を掘り起こした本居宣長自身の心の深層に迫るとともに、常に「西側」のパワーにさらされる日本、日本人の思考を刺激する熱量ある論考。
ノンフィクション作家の佐々涼子さんが9月1日、亡くなりました。人間の生と死をテーマとした作品は、いずれも心に迫り、感動的で、多くの気づきをいただきました。「エンジェルフライト 国際霊柩送還士」「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・ 日本製紙石巻工場」「エンド・オブ・ライフ」、そして昨年暮れに出した「夜明けを待つ」では、自らが悪性脳腫瘍であることに触れており、心配しておりました。56歳という若さで、本当に残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。
今年3月、「私の読書録」にこの「夜明けを待つ」を載せています。ここに改めて載せさせていただきます。
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<2024年3月11日「私の読書力」掲載分より>
夜明けを待つ 佐々涼子著 集英社インターナショナル
ノンフィクション作家・佐々涼子さん初のエッセイ&ルポルタージュ作品集。この10年の作品から厳選したもの。心を揺さぶられ感動した。静かで丁寧に深く生と死を見つめる姿が心に沁みる。しかも、「あとがき」で佐々さんは今、悪性の脳腫瘍「グリオーマ」に罹り、「この病気の平均寿命は14か月といわれている」と言う。「グリオーマは『希少がん』と呼ばれているが、『希少』は、私には『希望』に見えてくる」「誰かが私を導き夜明けを照らしてくれるだろうか。・・・・・・そして遺された人たちには、その限りある幸せを思う存分、かみしめてほしいのだ」と言っている。
さらに亡くなったお母さんは難病にかかり、「約10年間、母は24時間、父に介護され、下の世話をされ、入浴の介助をされて、人の手を借りながら生きてきた」と語り、「死」と、向き合いながら生きてきた。そして遺体や終末期医療等、多くの「死」を取材してきている。すべての取材に、描くエッセイに、生死の世界が現場から生々しく、しかも温かく、自身の実感を込めて開示される。開示悟入、明らかに観る諦観だ。「『長生きして幸せ』、『短いから不幸せ』、といった安易な考え方をやめて、寿命の長短を超えた『何か』であってほしい」「私たちは、その瞬間を生き、輝き、全力で愉しむのだ。そして満足をして帰っていく。・・・・・・だから、今日は私も次の約束をせず、こう言って別れることにしよう。『ああ、楽しかった』と」――そう言っているが、佐々さんの健康・長寿を心より祈るものである。
短いエッセイが続く。「『こんな私は嫌でしょう?』とお父さんに聞いたら、それでも生きていてほしいと言ったのよ(「死」が教えてくれること)」。「私は死に方を知らないが、きっと体は知っている。・・・・・・だから命のことは体にゆだね、まかせていればいいのではないだろうか(体はぜんぶ知っている)」。「(アルコール依存症の治療で)こちらが無理やり直そうとするとたいてい失敗しますね。医師が治すんじゃないんです。まず本人が今のままではだめだと自覚しないと。・・・・・・依存症患者もある種の断念をくぐって、受容に至るのかもしれない。つまり一度『死ぬ』のだ(諦念のあと)」。「父は母の分まで幸せになろうと決めているのだろう。幸福でいるためには時に強い意志が必要だ(幸福への意志)」。「日本が実習生を安い労働力だと思っているなら、私はベトナムからの実習生はあと数年で来なくなると思うの。日本はどうなっちゃうんだろうって思うわ(ハノイの女たち)」。「終末医療の取材では亡くなりゆく人が、私にだけ胸の内を明かすこともあった。今ならわかる気がする。近くにいる人に言えば、その人にも苦しみを背負わせてしまう。・・・・・・街にはそういう距離の人がいる。飲み屋の店主、タクシーの運転手、かかりつけの医師に看護師・・・・・・(いつもの美容師さん)」。日本経済新聞の連載が多いが、確かに、なるほどと思うばかりだ。
「片方の手ぶくろたち」「誰にもわからない」では、「どうか、目の前にいる人を大切にしてほしい」「いくら自分の外側を探しても答えは見つからない。自分の内側に戻って自分なりの生き方を見つけよう。今を生きなさい。自分の内側に戻りなさい」と言う。
「ルポルタージュ」では、外国人技能実習生を指導する日本語学校の現場をひたすら歩く。特に「ダブルリミテッド」の問題。日本語の言語体験が圧倒的に少ないまま小中学校を過ごし高校生になっている現実。抽象的概念の言葉は理解不能。親の言葉さえわからない子供はどうして生きていけるのか。「あんなにシャカリキに自分たちと向き合ってくれた日本人がいた、と思い出してもらえたら、私はそれだけで満足なんです」と奮闘している日本人女性をルポしている。また生と死、宗教的なるものを求め続ける世界の旅、バブル時代の若者がどうなったのかを巡る旅。サリン事件の若者たちに触れつつ、「閉じ込められたものは何でも腐る。空気も、水も、人の集団も」「やることがあるだろう、人の中へ帰れと」と語っている。
本当に心に沁み入る作品集。
「日本経済の再生プラン」が副題。財政政策と金融政策――。「財政政策の安定化機能、そして、金融政策におけるマネタリー・ポリシーは、ともに好況・不況の波を縮小するという類似の目標を持つ。かつては、財政政策・金融政策の役割分担には、一定のコンセンサスがあった」「抑制的な財政政策と機動的な金融政策の組み合わせは、1990年代から2000年代前半にインフレなき成長の時代をもたらした。・・・・・・このような世界の潮流のなかで、景気対策を主に公共事業によって行ってきた日本の経済政策は内外から強く批判されていく」。しかし、その常識はリーマンショックで、主要先進国が大規模な金融緩和によって対応して揺らぐ。さらにコロナ禍ではどの国も巨額の財政支出を行った。加えてロシアによるウクライナ侵略はサプライサイドの問題を深刻化させ、また産業間のばらつきへの対応として財政政策の出動となる。つまり現在は、「均衡財政主義や財政再建路線は、かつてのコンセンサスある経済政策指針ではなくなりつつある」のだ。今、日本の財政・金融政策に求められるのは、その「統合運用」と「高圧経済」だと言う。
「高圧経済」とは、経済に金融、財政両面から圧力を加え、経済を需要超過気味に運営することだ。そのことによって、労働者は失業状態から雇用され、雇用されている労働者は、より高いレベルの仕事に就く。労働者の能力増強が行われ、長期的な成長に導くことができる。高圧経済は、雇用の拡大、雇用の質上昇、資本蓄積の強化、R&D投資の拡大を通じて成長率を高める。「アベノミクス」「新しい資本主義」もこの方向性にある。現在、目標とした2%をはるかに超える物価上昇にあり、出口論が議論されるが、日本の物価高が世界のコロナ禍後の急性インフレとウクライナ侵略などによるエネルギー価格や穀物価格の上昇によるものであり、需要増による本来のデフレ脱却ではない。
「高圧経済論と履歴効果は同一の現象――需要は、自らの供給を生み出し、需要不足は供給能力自体を損ねるという現象を、別の角度から観察したものともいえる」「高圧経済論が妥当する状況、つまり総需要が過大である状況では、持続的な供給能力や潜在成長率の上昇がもたらされる。そして過小な総需要はこれらの長期にわたる停滞を招く。このような対称性を踏まえると、経済が『適切な範囲で』需要超過状態のまま推移するような政策運営が求められることがわかる」と指摘する。かつてのマクロの安定化政策は、総需要と供給能力をできる限り一致させることを目標とすべきだと考えられてきたが、「その常識は覆されつつある」と言う。しかし、「需要の不足を補い、むしろやや過大な需要水準を維持するために財政は拡張的に運用される必要がある。しかし、その財政資金を特定の産業に選別的に給付する、または税制優遇することは需要、過剰環境のなかでは、有害である可能性が高い」と注意を喚起し、中立的需要促進策を述べる。
「ちぐはぐな政策運用が日本の長期停滞を招いた」――日本は金融政策と財政政策を別に考え、それぞれアクセルとブレーキを繰り返した。物価高、超円安、株の乱高下、GDP 600兆円、賃上げ・・・・・・。そして人口減少・少子高齢化社会のなか、人手不足、社会保障増大、地方衰退などの構造変化。本書は、それらについても論及、今求められる「統合運用」「高圧経済」を経済政策・理論として詳細に解説する。
2.26事件の真相とは、事件の"真の犠牲"は誰だったのか――あまりにも多くの証言、分析がされている2.26事件を真正面から扱った熱量ある力作。
憲兵隊の軍曹・林逸平は、叛乱を指示したと目された北一輝、西田税とともに逮捕された重要容疑者である陸軍歩兵大尉・山口一太郎の調査を命じられる。山口は、優れた技術者で、侍従武官長として天皇に近侍している本庄繁陸軍大将を義父に持つ。蹶起した青年将校ともつながり、武器弾薬の持ち出しについて見て見ぬふりをしたとされていた。しかも獄中においても特別扱いされ、ストーブのある部屋で兵器の開発を許され平然としていた。林は関係者と次々に面会し、山口の真意と行動を探っていくが、疑念は膨らむばかり。しかも、林になぜか戒厳司令部参謀・石原莞爾が協力するとしきりに乗り出してくるのだった。
「北一輝や西田税、山口一太郎が青年将校を唆し叛乱を使嗾した」という全体図で捜査が進められる。しかし捜査が進むなか、青年将校とのつながりは深いものの、「山口大尉殿は邪魔でした。散々革新を唱えながら、最後の最後で隠忍自重を訴えるばかりでした」と言う証言も出てくる。山口も「これまで色々とやってきてしまってね。叩けば埃がいくらでも出る身」と自嘲したり、事件後「しくじった」と漏らしたり、「今、俺は、皇國を変革できる瀬戸際に立っている。そのためには、喜んで犠牲になる」と言う。違和感が膨らみ拭えない。事件直後、本庄繁侍従武官長に天皇への願いを託したり、同期の田中弥通じて橋本欣五郎への連携など、山口の活発な動きもわかってくる。
何よりも調査の中で、皇道派と統制派の激しい権力闘争が背景としてくっきりと浮かび上がってくる。また陸軍技術本部が山口の手引きのもとで策動に参加していること、石原莞爾も事件における重要な役者の一人として策動を仕掛けたこと、山口の同期が十月事件を引きずっていることなどが明らかになっていく。
事件の分岐点は、天皇の決断であった。天皇が、昭和11年1月、山口一太郎の起こした内閣弾劾訓示事件について報告した本庄繁に、「本庄、一つ聞く。お前は、私の味方か」の発言。当初、陸軍は「蹶起軍を友軍と認めるとの決定」をする。その中途半端な態度をとった川島義之陸相に、「お前の話を聞いた限りでは、陸軍は鎮圧に当たるつもりがないようだな。陸軍がやらぬと言うなら、私が自ら近衛師団を率い、賊徒を鎮圧する」と言う。本庄にも「私の股肱を殺戮した兇暴の将校の思いを汲めと、お前は言うのか」と叛乱軍として鎮圧することとを示した。天皇の断固たる態度が、事件を収束させる。2月29日の朝、蹶起軍の原隊復帰命令が発令された。皇軍相撃つ事態とはならなかった。
2.26事件――山口一太郎の宿志、苦悩と行動を抉り出するなか、各人、各派の思惑と壮絶な闘争、軍や国家の歪みを描き出す。濃密な力感ある作品。