赤坂喰違の変(明治7年)岩倉具視暗殺未遂事件、紀尾井坂の変(明治11年)大久保利通暗殺事件、板垣退助岐阜遭難事件(明治15年)、森有礼暗殺事件(明治22年)、大隈重信爆弾遭難事件(明治22年)、星亨暗殺事件(明治34年)等の明治の暗殺事件。大久保利通の暗殺は、不平士族の巨大な怨恨の噴出によるものだが、犯人の島田一郎は小説が刊行されるなど大衆に親しまれ、「憲政功労者」にまでなる。板垣退助の「板垣死すとも自由は死せず」はこれに近いことが言われたことは事実。爆弾を投げられた大隈重信は犯人・来島恒喜の勇気を称賛し、そのことで大隈の人気も上がった。
大正に入っての朝日平吾事件(安田善次郎暗殺事件)(大正10年)、同じ大正10年の原敬首相暗殺事件。この2つの事件が構造的に詳しく解説される。
安田善次郎暗殺事件は、朝日平吾が短刀で善次郎を刺殺し、その場で自分も剃刀で咽喉部を切り自殺。「斬奸状」には「奸富安田善次郎 巨富を作すといえども富豪の責任はたさず、国家社会を無視し 貪欲卑吝にして民衆の怨府たるや久し。・・・・・・よって天誅を加え世の警めとなす 朝日平吾」とある。「大久保利通の死、森有礼の死、星亨の死、それぞれの時代色を帯びた死であるが、安田翁の死の如く思想的の深みは無い」「安田翁の死は、明治大正にわたっての深刻な意義ある死である」(読売新聞 1921年9月29日)とあり、吉野作造は「朝日の行動には徹頭徹尾反対だ」とその短見を批判しながらも、「けれどもあの時代に朝日平吾が生まれたと云うその社会的背景に至ては深く我々を考えさせずには置かぬものがある」と言う。明治の暗殺の多くは政治的理由による暗殺であったが、「大正の朝日による暗殺は、対象を貧困な社会的弱者のための救済事業の意義を解しない大富豪としており、暗殺者の動因としては、家庭的不幸ということがあった」と指摘、貧富の差と生い立ちからくる不遇が前面化していると分析している。北一輝、昭和初期の暗殺事件につながるものだ。合わせて「マスメディアをしきりに気にしていて」と言い、マスメディア時代の暗殺の起点となっていると分析している。
一方、原敬暗殺の真因は、犯人中岡艮一の抱えていた個人的行き詰まり、挫折感、゛恋の艮一゛にあり、現代の暗殺にそのままつながるものだと言っている。大正時代の2つの暗殺事件が異なりを見せつつも現在に流れてくることの指摘は納得するものだ。
さらに、暗殺に同情的な日本の庶民文化、意識の背景を分析。「判官びいき」「御霊信仰に由来する非業の死を遂げた若者への鎮魂文化」「仇討ち・報復・復仇的文化」「暗殺による革命・変革・世直し」の4つを挙げている。
安倍元首相襲撃事件から3年が経とうとしている。到底許すことはできない。