「日本外交の常識」と言うが、日本外交の構造、骨格、核心を骨太に示す。それも杉山さん自身が直接関わってきたものだけに切迫感、臨場感が満ちており、学術的でありながら抜群に面白い。現在、世界で起きている諸問題を読み解くために、絶好の著作だ。
「筆者は本書で日本外交の常識を学ぶ旅に読者を誘っている」「外交について学ぶときに、大局的視点で歴史についての見方を持つことはきわめて重要だと思う。日米同盟が日本外交の基軸だという認識を持つときにも、対露政策、いや、対中政策、朝鮮半島との関係を考えるときにも、日本が置かれてきた世界における立ち位置、特に明治期の近代化の際の日本の『欧化政策』と『アジアの一員』という基本的意識との関係など、本質的問題意識について、常に考えていることが不可欠である」「外交実務に携わった間、国際法との関係を深く考えさせられる機会が多くあった。外交に際しては国際法との関係が重要である」「(ロシアのウクライナ侵略やガザ地区戦闘、米中対立など)世界の激変するなか、新たな時代に向き合う『覚悟』を改めて持つこと。日本の知恵、経験が求められているのではないか」と言う。
戦後の日本外交を考える時、まず「『単独講和』と『全面講和』の違い――サンフランシスコ平和条約の意味」にズバッと入る。そして「日米同盟と安保体制(吉田首相の決断、日米安保第5条・第6条、日米同盟の深化)」を示す。著者が直接関わった「安倍首相の"積極的平和主義"」「トランプ現象の意味」「岸田首相の"反撃能力"」の意味に論及している。
「ソ連との国交回復と日露平和条約交渉、プーチン大統領(日ソ共同宣言、日露平和条約締結交渉、領土交渉の本質と教訓)」を示す。2014年6月、クリミア併合問題の時の「G7首脳をまとめた安倍首相」の姿、日本の外交力を生き生きと伝えている。
「日本と中国、台湾(日華平和条約、日中共同声明、日中関係の推移と台湾問題)」が示される。外交交渉における「言葉の力」と解決策、交わらない線を踏まえつつも解決に持っていく「知恵」の妙が随所で発揮されている。中国ときちんと向き合うこと、「封じ込め」政策ではなく、「関与」政策の重要性を示している。
「韓国と北朝鮮(朝鮮半島の独立と南北の分断、日韓国交正常化交渉、慰安婦問題・徴用工問題、北朝鮮との国交正常化交渉と、拉致・ミサイル・核問題)」を語っている。2015年12月の「日韓合意」は私も近いところにいたので、その努力がよくわかるし、その後の「約束を守らない」残念な事態、そして現在の改善など実感がある。
「中東と日本(湾岸戦争、中東和平問題、イランという存在、ガザ地区戦闘、そもそも中東とはアラブとは?)」が解説される。日本の立ち位置は重要である。
随所にある「外交小話」は面白いし、最後のサッチャー首相の主張に対しての賛否の問いかけは重い。世界の世論調査(世界価値観調査)でも「仮に戦争が起こる事態になったら、自分の国のために戦いますか」との質問に「はい」と答えた人は2019年の調査時点で、日本は13%と際立って低く、77カ国中最下位だったことを思い起こす。
「『危機』の時代を読み解く」が副題。2020年4月から2022年12月まで、西日本新聞で毎月33回にわたって連載したもの。それに朝日新聞で毎週連載したコラムを加えている。その時の時代状況、現実を人類学者の眼で捉える。自分たちの「あたりまえ」の外側に出ることで、「ずれ」から自分と社会と世界を見る。異なる場所で生きている人びとの営みを通して、自分たちを知る。それが「人類学者のレンズ」の土台だ。新型コロナもそうだが、世界は生命の連関の中で「制作」されていく。「人間の社会や文化は人間の力だけでつくられているわけではない。現代の人類学は、この脱人間中心主義の思考を深めようとしている。・・・・・・人間以外のものに視点を置くと、世界の見え方が変わる。そんな視点の『ずらし方』も、人類学的なセンスだ」と言う。「人類学者は、人びとの生活に深く参与し、巻き込まれながら研究する。人類学とは世界に入っていき、人々と共にする哲学である。それは客観的な『知識』を増やすのではなく、『知恵』を手にするためのものだ」「知恵があるとは、思い切って、世界の中に飛び込み、そこで起きていることに、さらされる危険を冒すことだ」と言う。極めて刺激的で示唆的だ。
「PCR誕生物語」は面白い話で、はみ出し者で人望もなく、チームワークを嫌うキャリー・マリスのアイディアから始まった。「技術を使う現場でも、感情を持った生身の人間同士の泥くさい試行錯誤や調整が欠かせない。科学技術は人間の顔をしている。それが、科学が人類学の問いになる理由でもある」と語る。「感染症を見ても、興味深いのは、異変に気づいたのが、いずれも現場にいた医師だったことだ」「気付きは現場から、人びとの目線に立つ。その低い視点が人類学者のレンズの置き場である」と言う。極めて重要な指摘が続いている。
レヴィ・ストロースは、1962年刊行の「野生の思考」で、「未開」や「野蛮」とされてきた人びとが近代科学に匹敵する知性に溢れていることを理論的に示し、世界に衝撃を与えた。彼のいう「冷たい」社会は、「発展途上」でも「遅れている」わけでもなく、「循環的な神話の時空間によって、社会を不安定化させる変化への欲求をあえて制御してきたのだ」と言っている。ふつう人種差別への批判は「人類はみんな同じ(だから差別は良くない)」となるが、「レヴィ・ストロースは、逆に、人類には驚くほど多様性があることを議論を出発点とする」――。その言葉はそこに潜む「違うこと」への恐怖心を照らし出す。文明に進歩があるとしたら、違う諸文化の協働の結果であり、統合と分化を経て「進歩」するとする。「人種間に差異があることと、優劣があることとは違う」のだ。レイシズム(人種主義)の背後には、放置された社会の不公正がある。
人類学は客観的な数値ではなく、人間の個別で具体的な生にこだわる。「人類学者のレンズは、その水面下の動きを捉えようと、個別の生の文脈に潜り込み、この移りゆく世界で生きる意味を探ろうとしている」――現場でつかんだものを、既存の枠組みに頼って捉えそこなうなと戒める。
「物は固定した抽象的概念ではない。人間も単なる物体ではない。同じく風は物ではない。空気の流れであり、素材の動きであり、『吹いていること』である」と、ティム・インゴ、ルドの人類学、「世界の理解を解きほぐして、解体された万物をつなぎ直し、『生きていること』を鮮やかに蘇らせる人類学」を提示する。
ヤスパースの言う「枢軸時代――。「なぜ暴力の時代に哲学や宗教が開花したのか」について、グレーバーは、「貨幣による市場取引が発展するなかで『利己的な人間像』が生まれ、その反転した鏡像として、仁愛や慈悲を説く議論が活発化した」と言う。
資本主義にしても、民主主義にしても、国家にしても、婚姻儀礼にしても、当たり前を捉え返す視点――「未知なるものを身近なものに、身近なものを未知なものに」捉え返す視点、「社会的沈黙に耳を澄ますこと」が、先の見えない不確実性の時代に大事であることを、しっかりした軸を持って示している。日常に紛れている自分の思考を省みる、重要な視点が心に深く定置した。
「大相撲の不思議」シリーズの2。当たり前に思ってきた大相撲の世界だが、長い伝統の上に築かれてきたたことがよくわかる。
「土俵を彩る舞台装置」――。徳俵は「得」が「徳」に。雨が降ったときの「排水口」「水流し」の意味とともにに、修験道の「違い垣」(忌垣)。塩は「清めの塩」だ。太鼓は「寄せ太鼓」「跳ね太鼓」、街を巡回する「触れ太鼓」の3つある。
「土俵を支える人々」――行司の仕事、呼出の仕事、床山の仕事はたくさんある。「まるで昔話? 知られざる力士の日常」――大相撲の根幹をなす部屋制度。五つの一門、相撲部屋は44 (2022年3月)。外国人力士の日本語がうまいのは「必死」だから。内舘さんと朝青龍のバトルは「巡業さぼり事件」から。巡業や花相撲の時行われる「初っ切り」の名人だった勝武士のコロナ死。相撲列車が発着する東京駅は、大変な好角家だった辰野金吾が不知火型の横綱土俵入りをイメージして造った。
「勝負は、こうして始まる」――取組編成、張出、顔触れ言上。スタートの合図がない"呼吸"で立つ立ち会い。「熱戦の本場所」――力士の過密日程と休場者の続出を憂う。決まり手は48手どころか82手。勇み足や腰砕けは82 手に入らない「非技」・・・・・・。
このシリーズはとても面白い。
17人の作家・文筆家・漫画家・発明家が自らの「身体」と向き合い、それぞれの切実な体験を激しく、直截に、真摯に語るエッセイ集。「男は煩悩即菩提、女は生死即涅槃」と説かれるが、女性の生死がいかに激しく切実なものか、衝撃的に迫ってくる。
死ぬまで離れられないこの身体。性、性被害、自慰、妊娠・出産、タトゥー、痴漢、売春(性の商品化)、自傷、トランスジェンダー、SM、暴力、他者の視線と内側からの視線の衝突、変化していく肉体と心・・・・・・。あまりにも赤裸々な独白で圧倒される。身体と向き合うなか生死の無明の淵底が浮上する。
「タイトルの『私の身体を生きる』を、私はまず自分について肯定できない。肯定できる日が来るとも思えない。極力私は、私の身体なんか生きたくない。捨てられるものなら捨てたい」(能町みね子)、「生身の身体はなくなってほしかった。自分がこの身体を持っていることを意識しないで生きていきたい。ねじでできた、無機質なものになってほしかった」(柴崎友香) ・・・・・・。離れようがない自分の身体という厄介なものとどう付き合うか。17人それぞれが全く違う視点で述べる。
「B e t t e r l a t e t h a n n e v e r(島本理生)」「肉体が観た奇跡(村田沙耶香)」「『妊娠』と過ごしてきた(藤野可織)」「身体に関する宣言(西加奈子)」「汚してみたくて仕方なかった(鈴木涼美)」「胸を突き刺すピンクのクローン(金原ひとみ)」「私は小さくない(千早茜)」「てんでばらばら(朝吹真理子)」「両乳房を露出したまま過ごす(エリイ)」「敵としての身体(能町みね子)」「愛おしき痛み(李琴峰)」「肉体の尊厳(山下絋加)」「ゲームプレイヤー、かく語りき(鳥飼茜)」「私と私の身体のだいたい五十年(柴崎友香)」「トイレとハムレット(宇佐見りん)」「捨てる部分がない(藤原麻理菜)」「私の三分の一なる軛(児玉雨子)」の17のエッセイ。
時は永禄12年(1569)、織田信長は満を持して上洛、足利義昭を室町幕府の15代将軍に据えた。明智光秀を呼び出し、武田と毛利の資金源である湯之奥金山と石見銀山の現在の採れ高、先々の採掘量を調べてこいと命ずる。現実主義者の信長は、「武門の戦いは所詮は銭で決まる。戦費を賄い続けられる者だけが最後には勝つ」と考えていた。同行するのは光秀の朋友である愚息と新九郎。長くとも2月で帰京せよとの命令だ。
光秀は2人を伴ってただちに隠密裏に甲州へ向かう。駿河湾の田子の浦に辿り着いた3人は、そこで土屋十兵衛長安と名乗る奇天烈な男と遭遇する。この男、元は大和の猿楽師の息子で、甲斐へと招聘され、今は武田家の出納や河川の普請、黒川金山の採掘などを手がけていると言う。そして湯之奥金山の採れ高、甲府への搬入量などを教え、石見に連れて行ってくれと求められる。
毛利は毛利元就の下、隆元、吉川元春、小早川隆景の3兄弟で勢力を伸ばし、石見金山も手中に収めていた。隆元が早逝し苦労知らずの輝元がわずか11歳で後を継いでいた。そこへ4人が入り、毛利の追手が迫るなか石見銀山に潜入、月ごとの銀の搬入、搬出の冊子にたどり着く。永禄9年の総搬入は1593貫、総搬出は1590貫。それらと街の状況をつかみ脱出に成功する。あたかも戦記物、隠密の画策物のようで面白く、ユーモラスでもある。
3人は信長に報告する。成果とともに、土屋十兵衛長安の正体については口裏を合わせる(九兵衛とか)。それを聞いた信長は「よくやった」と喜ぶが・・・・・・。
最も面白いのはこの点。「信長は何を考えて、武田の金、毛利の銀を調べさせたのか」「報告をどのように聞いたのか。喜んで見せたのか」「土屋十兵衛長安の正体をどう見抜いたか」・・・・・・。信長の戦略性、人物監視眼・・・・・・。なんとも恐ろしいほどで、面白い。なお、土屋十兵衛長安は後に徳川に仕えて歴史に名を残した大久保長安のようだが・・・・・・。