世界のムスリムの総人口は約20 億人。21世紀に入り9、11 テロ、イスラム原理主義、中東情勢の複雑・困難などばかり、話題となりがちだが、「私がイスラームの研究を一生の業にしようとしたきっかけは、イスラームが持つ驚異の柔軟性と普遍性に強く惹かれたから」と言う。そしてイスラームの日常生活と信仰・思想、資本主義とは一線を画す仕組みを作り上げているイスラーム経済の独自の経済(お金)の知恵を紹介する。中学生にもわかるようにと工夫された「易しすぎず難しすぎない」入門書。本当にわかりやすい。
ムスリムは「自分の近くに常にアッラーがいらっしゃることを感じ取っている」「アッラーは人生の伴走者」「自分の身の回りに起こったことは全てアッラーのご意志」「自分の成功はアッラーのおかげだと感謝すると同時に、失敗も全てはアッラーのせいだと考えてよい」「アッラーの下した教えを守って生きているのはあの世での救済を受けるため、すなわち天国に行くためなのです」と言う。その教えが収められているのが聖典「クルアーン(コーラン)」だ。そこには、日々の生活の支えるすべてのことについての教えが収められ、政治も人付き合いも、家族も結婚も、遺産の分配も、金儲け、お金の貸し借りも全部書いてある。金儲けは許され信仰行為として直接的に肯定されている。
「イスラーム的な金儲けとは」――。「利子の禁止」「ギャンブルの禁止」「喜捨の義務」の3つにまとめられる。利子が禁止されているなら我々の日常の銀行は成り立たないし、ましてや金融資本主義はありえない。人間には運・不運があり、不慮の事態に遭遇するが、イスラームでは保険に入ることが禁止されている。「ギャンブルの禁止は、アッラーによって創造されたこの世界のあり方を、人間が自由に変えることができるという人間のおごりに対する警鐘である」と言う。「喜捨は、一年間に稼いだ儲けに応じて、決められた量をアッラーに納めるもの」。アッラーを介して人から人へ、豊かな人から貧しい人へお金を分配する機能が「喜捨」の重要な役割としてムスリムの日々の生活を支えている。
そこから「無利子銀行」が生み出される。利子のない銀行の仕組みだ。また「イスラーム世界は、社会の隅々まで思いやりの精神に満ち溢れている」「伝統と革新のイスラーム式助け合い」――喜捨が「ザカート」「サダカ」として展開される。とりわけワクフだ。これはお金に余裕のある人々が、社会のためになる病院や学校や孤児院などを作って、それを寄付して、助けを必要としている人の利用に供する仕組みを作っており、儲けを生み出すような商業施設(例えばショッピングモール)を同時に作る仕組みだ。老朽化したワクフを改装するお金を無利子銀行を通して集めるやり方が考え出され展開されていると言う。
全てを商品化し、飽くなき儲けと成長を求める資本主義が暴走する金融資本主義化していくとき、イスラーム経済の知恵から学び、現代資本主義を超える可能性を見出すことができるのではないか、活用できないかと著者は問題提起する。「資本主義の未来と現代イスラーム経済」の問いかけだ。
若者の間で「やばっ!」「可愛い」「ウソー」等々といった単純化した言葉が用いられ、軽い言葉の世界が広がっている。スマホ、ネット社会はそれを加速している。さらにタイパ、コスパの浸透は、単純化された言葉による自分の感情の直接的な表現と単純で直裁な受け止めの応酬という本来の意味を喪失した空間を形成するベクトルを持つ。「シン読解力」(新井紀子著)、「学力喪失」(今井むつみ著)など警鐘を鳴らす優れた著作が相次いでいるが、本書は日本の教育界、教育行政の中枢を担ってきた梶田叡一先生が、「言葉の力を鍛えて賢さの実現を」「論理の力を育てる言語論理教育を」と教育の本質と方向性を示す著作。
言葉をコミュニケーションの道具に矮小化する傾向があるが、それは理解が不十分。言葉は「認識の道具」であり、「記録」「思考」「伝達」の道具であるとともに、「精神の呪縛・解放・鼓舞の道具」であり、「文化の継承・創造の道具」であるという。まさに「言葉の力を育てる」――その教育の深さによって、人生の深さも日本の未来も決定するのだ。
「言葉の力の基礎づくり」――。学校教育を通じて「言葉の力」の獲得と基盤作りをする。語彙の豊富さと言葉の確かな理解が大切となる。「体験から知識へ、知識から体験へ――言葉に導かれて」――。学力と呼ばれるものは、海面に浮かんだ氷山のようなもの。海面から出ている「知識・理解・技能」は、海面下の「関心・意欲・態度」や「思考力・表現力・問題解決力」に支えられ、さらにその人自身の「人間性」が「体験」「実感」を伴って形成されていなくてはならない。いちばん底辺にあるのが「体験」だ。「体験」から「知識・技能」へと向かう上向型学力形成(耕求表創)と下向型学力形成(開示悟入)が示される。上下が噛み合った全体的総合的な学力をつける本当の教育が提示される。
「体験の経験化と言葉」――。「我の世界」と「我々の世界」の梶田先生の指摘は印象的なものだったが、自分の使う言葉が自分自身の体験・経験に裏付けられて初めて言葉は力を持つ。
そこで提示される「古典的な名句・名文の暗唱を」は納得する。江戸時代以降に大坂、江戸、京の子供たちの間のことわざを用いた「いろはカルタ」は面白い。「百人一首の秀歌」「論語などの古典」も懐かしい。自分自身、いつの間にか子供の時代に馴染んできたことが思い起こされる。今の若者に残っているだろうか。「文学作品との出会い」もわかりやすく、具体的で面白い。「テキストの世界・作者の世界・読者の世界」を、これほど具体的に授業で習えば、「言葉の力」を養うことは間違いない。コラムにある「最短最小の定型詩『狂俳』」は知らなかった。李御寧の「『縮み』志向の日本人」に触れていたのは、あまりに懐かしく嬉しくなった。
「確かな読み取りで豊かな受け止めを」――。芭蕉の俳句の豊かな言葉の世界の味わい。島崎藤村の「初恋」の味わい。残念ながらこのAI時代、日本人としての豊かな感性や情緒、言葉の多義的な面が切り捨てられていることは既視のものとなっている。「『読み』『書き』の力を3つの水準で」――。暗誦も多読も熟読も書くことも確かに減っている。そして「論理の力を育てる言語論理教育を」――。文部科学省が2006年に設置した「言語力育成協力者会議」の座長を務めた梶田先生が具体的に語っている。
「言葉の力を鍛えて賢さの実現を」――。自分自身の人生が、子供の頃から多くの人に支えられ、「言葉の力」が育てられてきたことを改めて思う。まさに人生そのものが「言葉の力」だ。
禁門の変の後、幕府は長州残兵隊を追って捕縛、斬殺を続け、エゲレスなど四国連合艦隊は長州を攻撃。次第に「士民の気分を長州への同情、幕府への反感」へと変化させていく。幕府が次第に崩壊していくことを悟った弥一は、薩摩藩の御用商人・満井屋雅右衛門と面会し、富山の薬売りによる清国との直接交易を画策する。満井屋と清国との直接の干し昆布交易だ。「いまの倍の唐薬種が手に入れば、富山の薬は日本の7割を占めることができる」との戦略だ。懸命に工作。川上家の家訓「苦楽が合わさって、ひとつの人生になる」「人の幸不幸にも消長がある。それゆえに何事も時が至るのを静かに焦らずに待て」を思い、「一生涯見ていてあげる。安心していなさい」と、枕崎で月の声を聞く。
長州征伐に加わるように命じられた各藩も本音は迷惑で、なかなか腰を上げず、「禁門の変も会津と長州の喧嘩じゃないか」という声もあった。そんななか水戸の天狗党の乱で、三百五十人の尊王攘夷派の浪士が斬首され、「処罰のやり方がひどい。降伏してる者を」の声が上がるなど、幕府の威光は落ちてゆく。「一橋公がいつ将軍後見職を投げ出すかわからないのと同じく、各藩主も佐幕、勤皇、開国、鎖国という旗印をいつ変節させるかわからない」、日本中が右往左往している状況になる。
長州征討軍の引き揚げ、新撰組の台頭、朝廷の勤皇派と反勤皇派の暗闘・・・・・・。そして将軍家茂の死、慶喜が15代将軍に。しかし公武合体、攘夷思想、慶喜を信任する孝明天皇が突然崩御する。「これで何もかもがひっくり返る、と私は思いました」・・・・・・。
大政奉還。「慶喜の大博打」ではある。「薩摩人は理では動かない」「まず朝廷を仰ぐ新政府を樹立して、この国の政体を正しい大義に復し、有力諸藩合議による政事で難局を乗り越えよう。これが安政のころからの倒幕論でございましょう。しかし、西大小(西郷、大久保、小松)の腹の内はそうではない。彼らにとっての勤皇は、徳川幕府をつぶすための方便なのです」・・・・・・。
慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが起きる。江戸城無血開城、彰義隊の乱、白河の戦い、長岡の戦い、奥羽越列藩同盟、会津戦争、箱館戦争・・・・・・。明治改元、そして版籍奉還へ。「いったい誰が、この干し昆布を中心とした密貿易によって得た金子が徳川幕府を倒すことになると想像しただろうか」「富山藩がなくなれば、反魂丹役所も消えていくことになる。富山藩が富山県になろうとも、売薬は県の最重要事業であることは変わりはありません。売薬業に関わる者たちの数も四千人を超えようとしております」――。
「越中三人衆」――「それは私どものことでございますか」「そうだ。弥一と長吉と才児だ。あの政変の時代に、町人でありながら京、伏見、大阪、兵庫、摂津と奔走して、薩摩藩に情勢を伝達し続けて、禁裏では『薬隊』を編成して、周辺の町人たちを流れ弾から救った功労者」と富山藩反魂丹役所の緒方喜重郎は言う。
新しい時代、近代化が始まろうとしていた。
まずこの本は誰が語っているのかがわからないと一歩も進めない。「私がヒトを担当するのはニ回目ですが、オス個体は初めてです」「ヒトって本当に、これまで担当してきた中でも珍しい種です」「尚成という個体の担当になって」――。この本は尚成というヒトの個体に宿る○○目線の突き放した人間観察記ということになる。
私(生殖器)が担当した尚成は同性愛個体であり、共同体との違和感を持ち続けていた。そのうち「同性愛個体を笑ったり気持ち悪かったりするのは"しっくり"くることなのだとなんとな~くの空気が読めるようになり、自分は同性愛個体であるという自覚と、同性愛個体は嫌悪されるべき存在であるという納得が、たったひとつの肉体の中で、何の矛盾もなく、両立していたのです」と語る。それが共同体内で生存していく上で必要不可欠だったのだ。しかしその後、故郷を離れて、大学に行き、就職をして暮らすうちに本当の"しっくり"を集めていくことになる。
共同体への違和感、「絶対にバレてはいけない」はどこから来るのか。それは「学校、家庭、企業、地域、社会、国、世界――どの共同体も、崩壊や縮小を目指して活動していない」と言うことから来る。そこで「神を設定していないヒトの生息地では、共同体が目指すものも阻害する個体は"悪"とみなされるからです。その共同体から追放される恐れがあるからです」。周りと違うというそれ自体を恐れるより共同体を阻害する個体として「認定されること」「追放されること」を恐れていたということだ。
私(生殖器)は、SDGsについても思うのだ。「完全に環境破壊の黒幕であるヒトが突然、"地球のために、できること"とか言い始めたのは、自分たちが快適に生息できることばっかり、ヒト主体の目標だった」と。そして「ヒトが絶滅さえしてくれれば、ほとんどの目標は達成される」と。「(マットを運ぶ)手は添えて、だけど力は込めず。これが、今の尚成の"しっくり"です」・・・・・・。
そして今の「尚成にとって職場は、拡大、発展、成長の文脈から金銭を吸い上げてくれる媒介であり、別の仕組みの星であり、出稼ぎ先である」「均衡、維持、拡大、発展、成長のために自分を封殺してきた共同体に、貢献なんてしたくない」「拡大、発展、成長で動いている社会をサバイブするために、身をつけた技が、"手は添えて、だけど力は込めず"なのだ」――。
尚成は同僚の女性・樹の「子どもが欲しい?」との相談を受けたり、後輩の颯から「同性婚実現のために活動するNPOに行く」との話を聞いたりする。「同性愛個体の生産性」を語る国会議員の発言を問題視し自分自身の生きる意味を自問自答する。「多様性の時代」と安易に語ることにも複雑な感情がこみ上げる。「正直、このまま同性婚なんて実現してくれるなって思う自分もいる。その方がいっそ丸ごと諦められて、精神的には楽だ」「同性婚が実現しても、絶対に口外できない人とかどうしたってパートナーと出会えなかった当事者からすれば我慢の度合いが強まるだけ。制度が整っていくって事は、当事者間でも格差が生まれる」「誰にも言えない状況で、世間から隠れ続けて生きていたら、自分を差し置いて勝手に変わっていく社会にイラつくでしょうし、人類滅亡しろって思ってたかもしれません、俺も」「生殖医療が発展し、体外発生が可能になれば、異性愛個体にできて同性愛個体できないことは一つもなくなる」など、頭の中はぐるぐる回る。
そして、「異性愛個体から無意識的な特権意識が引き剥がされる未来に最速の体感でたどり着くべく、お菓子作りとダイエットを繰り返すことこそが、至上の幸福である個体の歴史、一個体分くらい残しておくべきですよ、きっと」とつぶやいている。違和感の正体に迫る令和の書。
ハリス来航以来、幕府は突然に朝廷の勅許を得ようと動くが、「幕府には天下を治める自信も実力もないのだ」と、全国の大名たちに思わせる結果となってしまう。「それに乗じて、とりわけ西国の神社の宮司や神官や尊皇派の国学者や水戸の学問に染まった武士や煽動者たちが活動を始めて、朝廷を擁する京で遊説を繰り広げたのでございます」・・・・・・。将軍継嗣問題は紀州派の勝利となり、井伊直弼は大鉈を振るい始め、安政の大獄となる。
お登勢を妻に迎え、薬売りとして一本立ちした弥一は、薬種問屋「高麗屋」の主・金兵衛から、京でニ、三年暮らして経験をさらに積むように言われる。安政から万延に変わる直前の3月3日、桜田門外の変が起きる。彦根藩は水戸藩に復讐しようとする。しかし尊王攘夷の勢いは増す。一方で、「公武合体 開国策」「和宮降嫁」が進む。そんななか島津久光が兵を率いて上洛し、天皇を奉じて幕府と対決するとの噂が流れ、京は騒然としていた。
「西国の激派の間では、いつの間にか尊王という言葉が勤皇に変わってたんだ。尊王は帝と朝廷を尊ぶことで、心の有り様ですが、勤皇は天皇に仕えることになり、幕府には勤めないという一種の反幕宣言になる。行き着くところは倒幕でございましょう」「久光様には、倒幕等という考えは毛頭ない」「薩摩藩をお取りつぶしにさせてはならない。藩士たちの軽挙妄動を未然に阻止するため、どうしたらいいか」・・・・・・。弥一、高麗屋の跡取りの半兵衛、京油小路の老舗薬種屋「一貫堂」に移った長吉、才児らは薩摩藩御製薬掛目付であった旧知の園田弥之助らと連携をとって情報収集をする。「時機はまだまだ熟していない。なんとしても、薩摩の過激派武士にことを起こさせてはならない」・・・・・・。
勤皇攘夷の嵐はますます吹き荒れ、寺田屋事件、幕府の綻び、生麦事件、馬関砲撃、薩英戦争、八月十八日の政変となる。「勤皇攘夷派の諸藩士が去り、王政復古派の公卿が去った京には、一気に公武合体の機運が漲り、倒幕派の勢力は京から一掃されたのでございます」・・・・・・。
「長州激派の御所に火をつけ帝を長州へ連れ去る。一橋公と会津侯を殺す」との計画に驚愕した会津藩、桑名藩そして新撰組は「6月5日に三条木屋町の旅籠『池田屋』で、首謀者たちが集まる」ことを突き止め襲撃。池田屋事件だ。そして禁門の変。「薩摩藩には恩がある。我々にはどんなことをしても薩摩藩経由の唐薬種が必要だ。尊王攘夷、佐幕開国。そんなことはどうでもいい。・・・・・・全国津々浦々で何十万、いや何百万もの人々が、富山の薬を待ってくれている。富山の薬と、『先用後利』という商いの方法はニ百年近く、この日本を支えてきたのだ。その富山の薬を支えてくれたのが薩摩藩だ」・・・・・・。「京の大火は下京のほとんどを焼き尽くしました」・・・・・・。
動乱の京都を命をかけて走る富山の「薬隊」。火の粉の中を右往左往、逃げる庶民の姿は生々しい。