国債と言うと「1100兆円の国の借金」とか、「令和7年度歳出115兆1978億円で、国債費28兆2179億円、社会保障38兆2938億円、防衛関係費8兆6691億円、地方交付税交付金等18兆8728億円、公共事業6兆858億円・・・・・・」。一方、「令和7年度歳入は、所得税22兆6660億円、法人税19兆2450億円、消費税24兆9080億円、特例公債21兆8560億円・建設公債6兆7910億円・・・・・・」などがすぐ頭に浮かび、「長期金利が上昇している」などが話題となる。
本書は「国債の基礎知識について包括的に解説する」としたもの。表題の通り、日本の国債の仕組み、債券や証券、日銀の市場操作などの金融政策、銀行や生命保険の運用等を通じ、日本経済の変化を理解できるようにと丁寧に解説する。
「『金利』は利子(クーポン)を意味するのではなく、債券のリターンを指す」「だから、金利が上がると債券価格が下がる」「イールドカーブ(年限と金利の関係、利回り曲線)」・・・・・・。「証券会社と国債市場の重要な関係(財務省による国債の入札、証券会社は国債の営業を担う)(国債のマーケット・メイク)」・・・・・・。「日銀の役割と公開市場操作(オペレーション)」・・・・・・。
「国債からわかる日本の金融政策史:量的・質的金融緩和から、量的縮小へ」ーー2013年4月の量的・質的金融緩和(QQE)(マネタリーベースを年間60兆〜70兆円程度増やす目標)。2016年1月のマイナス金利政策(日銀の当座預金の1部にマイナス金利を付す)。イールドカーブ・コントロール(YCC)。そして「2024年3月、YCCを撤廃するとともに、マイナス金利政策を解除、利上げ」・・・・・・。
「銀行や、生命保険会社と国債投資の関係」「日本国債はどのように発行されているか(60年償還ルールと借換債)」「デリバティブを正しく理解する(レバレッジと証拠金)(金利スワップ)」「短期金融市場と日銀の金融政策(国債購入の減額と量的引き締め:QT) (短期国債の大部分は外国人投資家が保有) (大部分の日本国債は現在国内投資家に保有されているが、2024年時点でも日銀の保有割合を除くと、外人投資家による保有割合は3割弱で増える可能性も)」・・・・・・。
複雑で、デリケートな国債の世界から経済の動向を見る。
2004年刊行、今なお読まれる感動の著作。スポーツコラムニストとして活躍するミッチ・アルボムは、テレビで大学時代の恩師モリー先生が難病ALS (筋萎縮性側索硬化症)に侵されていることを知る。16年ぶりの再会。「憐れむより、君が抱えている問題を話してくれないか」――。毎週火曜日、2人の人生対話が始まる。テーマは「人生の意味」。日一日と身体の筋肉が衰え、死が迫っていくなかでのモリー先生の言葉は、経験のもとに語られる講義。毎回、「何を語るか」――。深さに満ちている。
「死ぬっていうのはね、悲しいことの一つに過ぎないんだよ。不幸な生き方をするのはまた別のことだ」「もうじき死ぬとはいっても、私のまわりには愛してくれる人、心配してくれる人がたくさんいる。世の中にそういえる人がどれだけいるか?」「人生は、前に引っ張られたり、後ろに引っ張られたりの連続なんだよ。・・・・・・どっちが勝つって? そりゃ愛さ。愛はいつも勝つ」「多くの人が無意味な人生を抱えて歩き回っている。あれこれ忙しげに立ち働いているけれども、半分寝ているようなものだ。人生に意味を与える道は、人を愛すること、自分の周囲の社会のために尽くすこと、自分に目的と意味を与えてくれるものも創り出すこと」・・・・・・。
「教師は未来永劫にまで力を及ぼす。貧乏を救う薬は教育だけだ」「他人を搾取するような仕事には絶対につかない、そして他人の汗でかねを稼ぐような真似はしない。それが将来守り続ける誓い」・・・・・・。こんなに物質的なものに取り囲まれているけれども、満たされることがない。愛する人たちとのつながり、自分を取り巻く世界、こういうものを、われわれは当たり前と思って改めて意識しない」――。究極は、妻、子供、愛する人々とのつながりだけが残る。「悲しむことには、癒しの力がある。その力を見つけることだ。愛を発生させるのは、人間の悲しさを知ることだ」「愛がなければ、我々は羽をもがれた鳥も同然。愛する人、見守っている人がいるかいないか。それらがいない時は、この病気ははるかに厳しいものになるだろうな」・・・・・・。
「今、私がやっているのは、『経験から自分を引き離すこと』。女性への愛でも、愛する者を失った悲しみでも、私が今味わっているような死に至る病による恐怖、苦痛でもよい。経験を自分の中に十分に染み込ませる。そうしてこそ、そこから離れることができる」・・・・・・。凄い世界、境地を語っている。
「老人が若者を恨まないなんて、そんなことありえないよ。ただ、問題は、ありのままの自分を受け入れ、それを大いに楽しむことだ。年齢は勝ち負けの問題じゃないんだ」「本当に満足を与えてくれるものは何だと思う? 自分が人にあげられるものを提供することだ。かねのことじゃない。時間、心づかい、話をすること。人を愛することに自らを捧げよ、周囲の社会に自らを捧げよ、目的と意味を与えてくれるものを創り出すことに、自らを捧げよ」・・・・・・。
「人間の持っている最大の欠点は、目先にとらわれること。先行き自分がどうなるかまで目が届かない。潜在的な可能性に目を注がなければいけない」「死が間近になれば、人間は始まりも誕生も同じ、死も同じ。違いようがないじゃないか。人類という家族に投資しよう。人に投資しよう。愛する人、愛してくれる人の小さな共同社会をつくろう」・・・・・・。
「許さなければいけないのは、人のことだけじゃない。自分もだ。自分を許せ。人を許せ」――。モリーが最後に口にしたセンテンスは、「死で人生は終わる、つながりは終わらない」・・・・・・。
そして、毎週の火曜講義を受けた著者は言う。「あなた方は、本当の先生を持ったことがあるだろうか? あなた方のことを、荒削りだが貴重なもの、英知を持って磨けば、見事に輝く宝石になると見てくれた人を。さいわいそういう先生のもとへたどり着けた人は、きっとそこへもどる道を見つけられる」と言う。私も「見ていてくれる人がいるのは幸せだよ」と言われた師の言葉が心に響く。
「日本国憲法第一条をめぐる闘い」が副題。大日本帝国憲法における天皇の地位は、「国ノ元首」であり、「統治権ヲ総攬」すると書かれていたが、日本国憲法では「象徴」となる。1946年2月3日の「マッカーサー三原則」の1つ、「天皇は国家の元首の地位にある」は、2月13日のGHQ憲法草案では、「symbol」となる。「昭和天皇は、幣原喜重郎首相の奏上に対し、これを承諾し、自らが統治権の総攬者を降りることを了解した」「陛下親ら『象徴でいいではないか』と仰せられた(吉田茂『回想十年 上』)」という「聖断」があったとされる。著者は「聖断は事実なのだろうか」「戦後の始まりとして信じられてきた"事実"が所詮は物語に過ぎなかったのではないか」と問いかける。憲法制定過程を徹底して調べ上げ、昭和天皇の真意を明らかにするとともに、「象徴天皇」「国民主権と国体護持」をめぐり展開される幣原喜重郎、松本烝治ら日本政府とその官僚、マッカーサー、ケーディスらGHQ、衆議院・貴族院議員、宮沢俊義、佐々木惣一、南原繁ら学者たちの激しい攻防を描いている。
GHQ案に基づいて、日本側が起草した三月ニ日案――「天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国ノ象徴及日本国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス」。そして4月17日の憲法改正草案では、「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であつて、この地位は、日本国民の至高の総意に基く」――。そして8月24日の衆議院修正で、「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」となる。「象徴」「元首」「君民共治」「国民主権の明示」「国体護持」等をめぐる攻防が、GHQの圧力や公職追放の危機迫るなか展開される。想像を絶する国を負う攻防が伝わってくる。
はたして天皇はどう考えていたのか――。1946年6月7日の第2回両議院有志懇談会。これは衆議院本会議上程に向けての最重要会議だ。「この回は政府の憲法草案により、国体が維持されたか否かで紛糾した」「国体変革という結論に至らない文章にせねばならないと、国体維持が最重要視されていたことがわかる」と言い、馬場恒吾(読売新聞社長)の発言に注視する。
「陛下はKing in Parliamentを希望して居られるから其処へ持って行けば良い」(参議院事務局所蔵の記録)――。「これまで昭和天皇は『第三の聖断』により、第一条の『象徴』を了解したと描かれてきた。しかしながら、馬場が伝えた『昭和天皇の希望』発言は、第一条に関して、昭和天皇が具体的な要求を行ったという驚天動地の内容に他ならない。端的に、馬場発言は聖断神話を真っ向から否定するものであり、これにより、従来の憲法史や昭和天皇像は、根本的な見直しが必要となる」と言う。「希望」があり、それも英国型の「外交使節の接受・条約締結などの外交大権を有する国王の存在を前提とし、君主主権でも国民主権でもない英国型の君民同治」の考えをしていたと言うのだ。「英国憲法では、『強いて言えば"キング・イン・パーラメント"が主権者』であり、『主権は在君か在民かなどという愚問』(猪木正道)」であり、「英国のような立憲君主国がよい」「国民主権を断言しないかたちでの元首型君主」との意向を昭和天皇は持っていたことを徹底した調査分析によって検証しているのだ。「聖断」によって「口をつぐんできた」歴史の闇を、著者は、「天皇自身の心」に迫ることによって剔抉する。凄まじい迫力ある論考に、引きつけられた。
「GHQを恐れ、天皇の宸襟を畏れ」、敗戦日本から立ち上がろうとした先達。それが日本国憲法第一条の文言の変遷に滲んでいる。昭和天皇の「敗北」でもなければ、「加工」「変節」「保身」の政治家・学者たちの「成功・失敗」でもない。この憲法制定から戦後が始まった。昭和天皇にとっても「象徴天皇」を模索する旅が始まり、その現実の行動によって権力ではない「権威」を実感させ、平成から令和の時代を迎えている。本書に出てくる一人一人の「攻防」という以上に「苦衷」に思いを馳せた。
アグネス・チャン、沢田研二、山下久美子からBUMP OF CHICKENまで手がけた名音楽プロデューサーが、プロデュースの基本、経験から編み出した「法則」を惜しみなく語る。音楽の世界だけでなく、あらゆる世界でためになる素晴らしい著作。面白さと深さと一体感を創造的に作り上げる急所が心に響いてくる。
「いいなと感じて、つくりたいと思ったら、分析して、答えを見つける」――。「なぜ面白いのか、理由を分析する。自分の『好き』を分析する」「自分が好きと思っても伝える上での理屈がないと、より多くの人には理解してもらえない」と言う。そして「天才的な人は、意識しなくても、物事を逆から見ることができる」「もっと良いものを作りたいという視点を常に持つ」・・・・・・。
「『新しいもの』とは、新しい組み合わせのこと」――。「意外な組み合わせが面白さを生む」と言い、例えばアーティスト、歌詞、曲で三角形を作り、距離が離れているほど大きな三角形ができ、そこにたくさんの人=リスナーが入ることができる。セクシーなアーティストには、例えばワイルドで男っぽい詩を作る。ビートルズは存在がハイブリッド、ラーメンに味噌を入れ味噌ラーメンを作り上げる。そして「ストーリーがあると新しい価値が生まれる。ライブにも、ディズニーランドのジェットコースターにもストーリーがあり、コンセプトがしっかりあるから楽しい」と言う。その新しい組み合わせも「切羽詰まっているときに結びつくことが多い気がする」と言う。
「人と仕事するということ」――。「アーティストをまず肯定してあげる。良いところにスポットライトを当てる」と言うが、組織も同じだ。そして、面白い歌詞を書くには、「ものを見る視点を育てるのは、その人自身の積み重ね。言葉の感覚は急に身に付くものではない」と努力と貪欲な吸収力、そして「伝えたい気持ちの強さが大事」だと言う。「クリエイティブな人は、どんな相手も平等に扱う」「正論で人は動かない」とも。
「ヒットをつくるために僕がしていること」――。「そのアーティストの特徴を明確に把握する」「違うと思ったら、逆方向に行ってみる(山下久美子さんは、ブルースを歌っていたがポップスへ)」「アーティストと作品は寄り添わないことが大事(謹慎翌年の沢田研二の『勝手にしやがれ』。阿久悠三さんは僕らが思うのと逆のものを沢田研二にぶつけてきた)」「歌詞と楽曲も合わない方がよい(ギャップが惹きつける)」「基本を共有したら、後は自由に」「歌詞とは、心という見えないものも可視化したもの(ひとつの絵が見えたらそれが歌になる)」・・・・・・。なるほどと思うことばかりだ。「まずはタイトルを」「伝えたい相手を決める」「理知的な部分が先行すると、理路整然となってしまうことがあるが、歌詞は文章でなくていい。メロディーが感情を担う」と言っているが、話でも、演説でも全くその通りだと思う。
「クリエイティブなライフスタイル」――。「アルファ波、すなわちリラックスしている脳波が優位になっている状態の時に、宇宙とつながる感じがある。ゾーンに入ると他のことが無になる。宇宙のリズムとシンクロできる。邪念を振り払って集中していると無になってアルファ波が出てくる。曲が降りてくる」「うまくいっている時ほど何も考えない。リラックスするとアイディアが出る」「目標があればイヤなことも辛くはない」「自分が納得できた仕事だけが糧となる」「渡辺晋という指針」・・・・・・。
木崎さんは、「経験を通じて感じたり、考えたりして出してきた答えたちを整理整頓できて、何かスッキリした」と遠慮がちに言うが、読んだこちらの方がスッキリした。
親がいない、虐待を受けている子どもはどう生きる――。蛍が舞う祭りの夜ーー山間の小さな町に暮らす中学生のクラスメイト坂邑幸恵と桐生隆之は、生きるために、互いの重大な秘密を守り合うことを決める。幸恵の両親が火災で焼死、隆之の親父(内縁)の死にそれぞれが関わっていたのだ。共にひどい親だった。・・・・・・それから15年後、同じ蛍が舞う場所で、ニ人は偶然、嘘のような再会をする。「どうしてここに、またこの男がいるの」・・・・・・。
幸恵は涙をこぼす。「お腹の子の父親が・・・・・・いなくなったの。貯金も、金目のものも全部持っていかれた。しかもわたし名義の借金もある」「ここで死のうと思ったんだよ。わたしが知っている中で、一番綺麗な場所でさ」――。励まされて幸恵は子ども(正道)を産むが、自分は出血性ショックで亡くなる。しかも幸恵は去って行こうとする相方を殺害してしまう。
どぎつい、町田そのこの作品と思えないようなサスペンスまがいの導入で引き込まれるが、殺人を犯した親を持つ正道がどう生きたか、その周囲で展開される親子の愛憎が描かれる。息苦しさの中で、ごくありふれた家族の日常の「ありがたさ」「温かさ」そして「居場所の大切さ」が心に染みいる。蛍のような優しい光が人が生きるなかでいかに貴重なものかを思い知る。
正道の養父となって距離を置きながらも育てる隆之。「親に幸せを摘み取られた子ども」「子どもの頃から奪われてしまったものを取り戻すなんて簡単ではない」・・・・・・。隆之の葬儀には本当にお世話になったという人が自然と集まった。
人を救うのは、支える人の温かさ。「ずっと夜のままかもしれない。そう思ったあの日、あなたがわたしの光になった」・・・・・・。