utawarenakatta.jpg1944年から1945年戦争終結に至るドイツ――。ナチ体制下におけるエーデルヴァイス海賊団の少年少女は、いかなる思いを持って戦ったか。そして大人たちは。極限状況に追い込まれた時、人は何を考え生きようとするのか。政治的レジスタンスを超え、人間存在次元から問いかける魂を鷲掴みにする感動的作品。

追いつめられ、残虐、過酷な統制を敷くヒトラー体制下のドイツ。父を処刑され居場所をなくしていた少年ヴェルナーは、ヒトラー・ユーゲントに戦いを挑むエーデルヴァイス海賊団を名乗る少年少女に出会う。町の名士の息子・レオンハルト、武装親衛隊将校の娘・エルフリーデ。その後加わる爆弾を愛好する少年・ドクトル。彼らは、愛国心を煽り、徹底した統制を図り、自由を奪い、密告を横行させ、ユダヤ弾圧を強行する体制に反抗する行動をとる。やがてヴェルナーたちは市内に建設されたレールの先に何があるかという不審を抱く。大人たちは車両を整備する操車場だと言い張り、口を閉ざす。ヴェルナーらは線路をたどる行動に出る。そこで強制収容所を発見、監視兵に足蹴にされる囚人たちがロケット兵器などを生産している死と強制労働の現場を目撃する。そこに着く貨物列車からは囚人服を着せられた人たちとともに、死体が異臭を放っていた。地獄絵図を見たのだ。衝撃を受けた彼らだが、やがてドクトルが見つけてきた巨大な長延期爆弾で、線路のトンネルと橋梁を爆破する計画を立てるが

少年少女の純粋な感性と、したたかとも欺瞞ともいえる大人の生き方を対比。過酷な戦乱の中での「歌」という文化の力。この2つが鋭角的に絡み合って最後の1ページまで緊迫した展開が、ぐいぐいと胸に迫ってくる。ハンナ・アーレントのアドルフ・アイヒマンの「悪の凡庸さ」がまず想起させられる。ヴェルナーは、「(大人たちは)あそこに強制収容所があり、人が殺されていることもうすうす気づいている。でも、だからこそ、気づくことを恐れている。他の誰かに嘘だと言われて、喜んで騙されていく」と思い、エルフリーデは、「私たちは何も見なかった、私たちは何も聞かなかった、私たちは、ただ自分たちが生きられるよう精一杯頑張っただけ。そうやって、他人をごまかして、自分をごまかして、本当の自分に向き合うのを避けて一生を送ることになる。私は嫌だ、私は見た、私は聞いた、私は人の焼ける臭いを嗅いだんだ。その責任を果たす」と叫ぶ。しかしシェーラー少尉は、「およそ青年は、道を踏み外しやすく、己の中の衝動によって人生を誤るものだ。けれども、戦争は、人を正しい道を歩ませてくれる」と戦争を合目的的に論理づけ、女性教師のアマーリエは、「ヴェルナー。自分が反体制的な人間だと考えているのなら、それを表に出すのは、もう少し後でもいいと思うのよ。私がそうであるように。どのみちもうすぐ、この戦争は負けて終わる」と言う。大人のおぞましい姿に、少年少女は吐き気がこみ上げてくるのだ。「爆破するしかない。俺たちが本物の人間であるために。そのためなら命などは惜しくない」と、ナチを憎み、エーデルヴァイス海賊団という居場所に居心地の良さを覚えるのだった。それはまた、政治的レジスタンスとは違い、「自分たちはただ、愉快に生きようと思っていただけで、あそこに強制収容所があることが気に入らなかっただけなのに」とヴェルナーは述懐する。それが"筋金入りのレジスタンス"ではなく、エーデルヴァイス海賊団だったのだ。さらに政治的支援がかき消され、処刑に追い込まれたレオンハルトが「武器や弾薬で戦うのはもう無理だ。だから市民に呼びかけて、ここを包囲してくれ。そして僕らの歌を歌ってくれ。それで僕を助けるんだ」「敵と味方の区別を無効化して、歌の下に人を集めることができる。文化の力で僕を助けてくれ。文化が、野蛮に勝つところを見せつけてくれ」と叫ぶ。ナチは、そして戦争は、ファシズムは、文化をなぎ倒す。野蛮に対し、文化の力で、まっとうな人間力で勝利する。「歌われなかった海賊へ」の表題は、武器袋弾薬ではない戦う力が、文化であることを少年少女の戦いに託して訴えている。強烈なボディーブローだ。力感と精神性のみなぎる作品。


kojouno.jpg2004年の発刊。「菅沼の城 奥平の城」が副題。「戦国時代の陽光と陰翳を今に残し、ひっそりと人知れず佇む古城たち」「日本史への熱い想いを綴る初めての歴史紀行」と帯にあるが、著者と私の故郷でもある東三河の城を中心にした歴史が描かれている。小学校1年生の時に校庭となっていた新城城のお堀にグラジオラスを植えたことを今でもはっきり覚えている。

飯田線に野田城という駅があった。元亀3(1572)12月、三方原で家康軍を破った武田信玄は翌年、宇利峠を越えて2万以上の大軍で菅沼定盈が籠る野田城を攻めた。守るはわずか400余人。徳川信康(岡崎城主)を誘い出す手もあり、織田信長との決戦を三河でするための兵站としての野田城を取っておきたいと信玄は思ったのではないかと言う。しかし野田城は1ヵ月も持ちこたえた。信玄にとって最後の戦いとなったのだ。私の生まれたのは新城で、新城小学校が新城城址だ。全国を見ても、堂々とした城門を今なおもっている小学校は他にないのではないか。築城したといわれる奥平信昌は、天正3(1575)の長篠城を守り抜いた城主であり、家康の長女・亀姫が嫁いだことでも名高いが、家康は「長篠城では、みすぼらしい」と思い、新たな城を築かせたのではないかと言う。信昌と亀姫の間には41女が生まれ、宇都宮10万石、姫路18万石などを領したというが、亀姫の威力であったようだ。奥平氏の本拠は、今の群馬県吉井町にあるようで、それがやがて三河の作手に移ったという。今橋城(吉田城)を築いたのは牧野古白。今川の家臣である牧野一家は牛久保あたりに住んでいたが、永正2(1505)に今川氏親から三河の国に新城を築き治めよと言われ、牧野古白が今橋城を築いた。

この東三河の地は、今川、岡崎の松平、渥美の戸田、さらには武田など、激しい攻防の中に常にあった。やがて徳川の時代になって、この地の者が全国に遣わされ、重大な任を負うことになる。


murasakisiki.jpg世界最高峰の文学作品である「源氏物語」を著した紫式部と、日本史上最高の権力を長期間にわたって保持した藤原道長とのリアルな生涯を、確実な一時資料のみによって時系列的に復元する。確実な一次資料ということは、「後世に『紫式部』と称される女性の正式な呼称は『藤原為時の女』であり、本名は不明」「藤原彰子に女房として出仕した後は、おそらくは『藤式部』という女房名で呼ばれたものと思うが、(「栄花物語」「兼盛集」「河海抄」)、諱は彰子や朋輩の女房たちも知らなかったのではなかろうか」など厳密に読み解く。

「紫式部は、道長の援助と後援がなければ『源氏物語』も『紫式部日記』も書けなかったのであるし、道長は紫式部の『源氏物語』執筆がなければ、一条天皇を中宮彰子の許に引き留められなかったのである。道長家の栄華も、紫式部と『源氏物語』の賜物であると言えよう」「その意味では、『道長なくして紫式部なし、紫式部なくして道長なし』ということになる」と語る。本書を読めば、そのことが鮮明にわかる。

平安宮廷の権力闘争、摂関をめぐる争いは凄まじい。まず道長にとって一条天皇を産んだ姉の詮子の存在は大きかった。花山天皇が986年、出家入道し7歳の一条天皇が即位する。そして道長は宇多天皇の三世孫・倫子と結婚。倫子は永延2(988)に彰子(後に一条天皇中宮)、正暦3(992)に頼通(後に摂政・関白)、正暦5(994)に姸子(後に三条天皇中宮)、長徳2(996)に教通(後に関白)、長保元年(999)に威子(後に後一条天皇中宮)、寛弘4(1007) に嬉子(後に敦良親王妃)と、24女を出産。激しい権力闘争の中で、女子を入内させ、揺るがない摂関政治を築いていくことになる。疫病による兄の関白藤原道隆、それを継いだ兄の藤原の道兼の連続死により、長徳元年(995)に道長はいきなり政権の座に就く。一条天皇生母の詮子の意向が強く働いたと言う。しかし一条天皇の定子への寵愛が深く、彰子も成人に達しておらず、道長と一条天皇との微妙な関係が始まっていく。やがて定子は皇后、彰子は中宮になる。そこに「源氏物語」がある。「『源氏物語』という物語は、初めから道長に執筆を依頼され、料紙などの提供を受け、基本的骨格についての見通しをつけて起筆したものと推定される。道長の目的が、この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげるつもりであったことは言うまでもなかろう」と解説する。紫式部が彰子の許にいつ出仕したかは明らかでないようだが、寛弘3(1006)だと言う。源氏物語は、それ以前に書き始められていたようだ。

「定子サロンと全く違う彰子サロン」――「清少納言を非難し、定子が遺した敦康への皇位継承を拒絶し、『枕草子』で謳歌されている定子サロンを否定することは、紫式部から知らず知らずににじみ出た政治的感覚であり、また彰子後宮の雰囲気でもあったのであろう」と言っている。極めて面白い。
寛弘8(1011)25年にわたった一条天皇が死去、三条天皇の時代となるが、道長と三条天皇の確執が始まる。皇統が違いもあるが、道長は姸子を中宮にさせる。2人の関係が悪化し、皇太后となった彰子の政治的役割は増加し、三条が頼りとした「賢人右府」藤原実資が、彰子との取り次ぎ役として紫式部を使った。実資と紫式部は「よほどの信頼関係」と言う。知識人同士という面もあったのだろうか。長和5(1016)、三条天皇が譲位して後一条天皇が即位し、道長は権力の頂点に立つ。道長の望月の世だ。「『源氏物語』の後宮世界、特に冷泉帝の後宮をめぐる『源氏物語』の記述は摂関期の政治史を貫く後宮原理をあまりにも鮮やかに描いている」と言う。凄まじい権力闘争のドラマと、「『源氏物語』以降、この国、いや世界はこれほどの文学作品を生み出してはいないのだし、道長以降、日本ではこれほどの権力を持った政権担当者は現れなかった」――。確かにその通りだ。それを凝縮した濃密な著作。 


nihonnjin.jpg1960年の断層」が副題。日本には1960年の大断層があって、今の日本人を大きく2つに分けている。1950年代に生まれた人と、1960年以降に生まれた人は、様々な局面で異なる光景を見、別の体験をしてきた――。食卓を中心に、日本人の家族を見つめ続けてきた著者が、「1960年の断層」として、35の視点を明らかにする。確かにと思う。従来から言われてきた世代論とは違う徹底した調査・研究の結果だ。

「自宅か両親の実家でお産をする。それが1960年が転換点となり、病院等施設の出産が増えていく」「1960(昭和35)のお母さんは、戦後の新教育世代」「憧れの住まいは、ステンレスの流し台、水洗トイレの団地ブーム」「生まれた赤ちゃんは1950年に234万人、1960年に161万人、子供2人の方向へ」「見合い結婚よりも恋愛結婚へ」「サラリーマン家庭の多くが父親不在の母子中心家庭」「1960年型は余暇生活を楽しむことを肯定的に捉える親を持ち、ファミリーレジャー時代の始まり」「生まれた時からテレビっ子」「幼稚園がほとんど義務教育のように」「生まれた時から、インスタント食品(1960年はインスタント食品元年)」「肉と油脂とパン食へ 日本の食が大転換」「手伝いはしないが、バイトはする(山田太郎の『新聞少年』のヒットは65)」「共通一次試験は1979(1960年生まれの子供たち)」「家庭内暴力は1960年生まれの子供たちが受験期を迎えた70年代後半から」「70年代後半に青年の漫画ブーム」「70年代後半にオカルト、青年の新宗教ブーム」「地下鉄サリン事件(95)のオウム真理教幹部は6065年生まれが多い」

確かに1960年の断層。断層の前と後では、基本的な体験が違う。同じ言葉を使っていても、意味や背景の価値観にはズレがあると言う。「自由でも60年型は『何もしなくていいフリーな状態』を想像し、それ以前の旧型は『やりたいことが何でもできる自由』をイメージする」と指摘する。10年前に本書ができたときに「60年型はすでに日本人全体の約6割を占める」と指摘しているが、今や「60年型の感覚と価値観が物事を動かす時代になっている」と言えるだろう。昭和20年代生まれの団塊の世代などがまだまだ多いことが、大事なことかもしれない。60年以前生まれの「旧型」が頑迷固陋にならなければの話だが。国際的に「日本人の劣化」「我慢強くやる力、難問を乗り越える力、共感する能力という非認知能力が落ちている」と懸念されているようだが、「本質的に粘り強く考える力」を意識的に鍛えあげなければならない時だろう。特に政治家は主力が1960年以降生まれになっただけに。


tikyuu.jpg「味の素グリーンベレー」が副題。「味の素」が、世界の市場を開拓するために、いかに知恵と行動で戦い抜いたか――そこには米陸軍特殊部隊と同じ「グリーンベレー」の異名を持つチームの存在があった。

その戦いはすごい。立ちはだかる異文化の壁。テロや犯罪が日常化する政情不安。「仕事をすぐ休む」「約束が守られない」「商慣行の著しい違い」。代理店に一任するスタイルを止め、責任者自ら率先垂範、歩いて歩いて現場で直販する。そのためには小分けして現金の取引に徹する。各人の目標は売り上げではなく切る伝票の枚数。売り上げを目標にすれば大型店舗を回ろうとしてしまうからだ。とにかく現地スタッフ、現物取引、現金の「三現主義」。現場で喜ばれる味と商品を徹底して開発する。最前線から喜びの声が噴き上がる戦略をとる。「あなたの仕事のやり方を見ていると、トークしかしていない。これだと、売り上げが伸びにくい。トーク、ショウ、タッチの実践。次の店で僕がやってみせるから参考にしてください」と上司が実践してみせる。店主との距離が一気に縮まる。エコノミック・アニマルと言われたかつての時代ではない。ずっと知恵と工夫と誠実・正直な実践で、テロやクーデターやコロナ禍に遭遇する今日まで、とにかく諦めずに粘り強く、消費者目線、現場主義で乗り切っていく姿を、躍動感を持って描いている。凄い。

「フィリピン直販部隊創設」「ベトナム全省踏破」「中国市場開拓」「ナイジェリア再建請負人」「ペルーの大地に溶け込む」「インド炎熱商人」「エジプト革命と動乱の日々」「ナイジェリアの納豆調味料」――それぞれ驚くほどのドラマがある。ドラマを作り上げたのだ。「味の素グリーンベレー」の率直で開拓者精神溢れる古関啓一、宇治弘晃、小林健一、小川智らの凄まじい戦いを描く。感動する。 

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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