murasakisiki.jpg世界最高峰の文学作品である「源氏物語」を著した紫式部と、日本史上最高の権力を長期間にわたって保持した藤原道長とのリアルな生涯を、確実な一時資料のみによって時系列的に復元する。確実な一次資料ということは、「後世に『紫式部』と称される女性の正式な呼称は『藤原為時の女』であり、本名は不明」「藤原彰子に女房として出仕した後は、おそらくは『藤式部』という女房名で呼ばれたものと思うが、(「栄花物語」「兼盛集」「河海抄」)、諱は彰子や朋輩の女房たちも知らなかったのではなかろうか」など厳密に読み解く。

「紫式部は、道長の援助と後援がなければ『源氏物語』も『紫式部日記』も書けなかったのであるし、道長は紫式部の『源氏物語』執筆がなければ、一条天皇を中宮彰子の許に引き留められなかったのである。道長家の栄華も、紫式部と『源氏物語』の賜物であると言えよう」「その意味では、『道長なくして紫式部なし、紫式部なくして道長なし』ということになる」と語る。本書を読めば、そのことが鮮明にわかる。

平安宮廷の権力闘争、摂関をめぐる争いは凄まじい。まず道長にとって一条天皇を産んだ姉の詮子の存在は大きかった。花山天皇が986年、出家入道し7歳の一条天皇が即位する。そして道長は宇多天皇の三世孫・倫子と結婚。倫子は永延2(988)に彰子(後に一条天皇中宮)、正暦3(992)に頼通(後に摂政・関白)、正暦5(994)に姸子(後に三条天皇中宮)、長徳2(996)に教通(後に関白)、長保元年(999)に威子(後に後一条天皇中宮)、寛弘4(1007) に嬉子(後に敦良親王妃)と、24女を出産。激しい権力闘争の中で、女子を入内させ、揺るがない摂関政治を築いていくことになる。疫病による兄の関白藤原道隆、それを継いだ兄の藤原の道兼の連続死により、長徳元年(995)に道長はいきなり政権の座に就く。一条天皇生母の詮子の意向が強く働いたと言う。しかし一条天皇の定子への寵愛が深く、彰子も成人に達しておらず、道長と一条天皇との微妙な関係が始まっていく。やがて定子は皇后、彰子は中宮になる。そこに「源氏物語」がある。「『源氏物語』という物語は、初めから道長に執筆を依頼され、料紙などの提供を受け、基本的骨格についての見通しをつけて起筆したものと推定される。道長の目的が、この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげるつもりであったことは言うまでもなかろう」と解説する。紫式部が彰子の許にいつ出仕したかは明らかでないようだが、寛弘3(1006)だと言う。源氏物語は、それ以前に書き始められていたようだ。

「定子サロンと全く違う彰子サロン」――「清少納言を非難し、定子が遺した敦康への皇位継承を拒絶し、『枕草子』で謳歌されている定子サロンを否定することは、紫式部から知らず知らずににじみ出た政治的感覚であり、また彰子後宮の雰囲気でもあったのであろう」と言っている。極めて面白い。
寛弘8(1011)25年にわたった一条天皇が死去、三条天皇の時代となるが、道長と三条天皇の確執が始まる。皇統が違いもあるが、道長は姸子を中宮にさせる。2人の関係が悪化し、皇太后となった彰子の政治的役割は増加し、三条が頼りとした「賢人右府」藤原実資が、彰子との取り次ぎ役として紫式部を使った。実資と紫式部は「よほどの信頼関係」と言う。知識人同士という面もあったのだろうか。長和5(1016)、三条天皇が譲位して後一条天皇が即位し、道長は権力の頂点に立つ。道長の望月の世だ。「『源氏物語』の後宮世界、特に冷泉帝の後宮をめぐる『源氏物語』の記述は摂関期の政治史を貫く後宮原理をあまりにも鮮やかに描いている」と言う。凄まじい権力闘争のドラマと、「『源氏物語』以降、この国、いや世界はこれほどの文学作品を生み出してはいないのだし、道長以降、日本ではこれほどの権力を持った政権担当者は現れなかった」――。確かにその通りだ。それを凝縮した濃密な著作。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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