kojouno.jpg2004年の発刊。「菅沼の城 奥平の城」が副題。「戦国時代の陽光と陰翳を今に残し、ひっそりと人知れず佇む古城たち」「日本史への熱い想いを綴る初めての歴史紀行」と帯にあるが、著者と私の故郷でもある東三河の城を中心にした歴史が描かれている。小学校1年生の時に校庭となっていた新城城のお堀にグラジオラスを植えたことを今でもはっきり覚えている。

飯田線に野田城という駅があった。元亀3(1572)12月、三方原で家康軍を破った武田信玄は翌年、宇利峠を越えて2万以上の大軍で菅沼定盈が籠る野田城を攻めた。守るはわずか400余人。徳川信康(岡崎城主)を誘い出す手もあり、織田信長との決戦を三河でするための兵站としての野田城を取っておきたいと信玄は思ったのではないかと言う。しかし野田城は1ヵ月も持ちこたえた。信玄にとって最後の戦いとなったのだ。私の生まれたのは新城で、新城小学校が新城城址だ。全国を見ても、堂々とした城門を今なおもっている小学校は他にないのではないか。築城したといわれる奥平信昌は、天正3(1575)の長篠城を守り抜いた城主であり、家康の長女・亀姫が嫁いだことでも名高いが、家康は「長篠城では、みすぼらしい」と思い、新たな城を築かせたのではないかと言う。信昌と亀姫の間には41女が生まれ、宇都宮10万石、姫路18万石などを領したというが、亀姫の威力であったようだ。奥平氏の本拠は、今の群馬県吉井町にあるようで、それがやがて三河の作手に移ったという。今橋城(吉田城)を築いたのは牧野古白。今川の家臣である牧野一家は牛久保あたりに住んでいたが、永正2(1505)に今川氏親から三河の国に新城を築き治めよと言われ、牧野古白が今橋城を築いた。

この東三河の地は、今川、岡崎の松平、渥美の戸田、さらには武田など、激しい攻防の中に常にあった。やがて徳川の時代になって、この地の者が全国に遣わされ、重大な任を負うことになる。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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