内田さんのいっていることは大変深い。たとえば次のようにいう。学校教育の目に見える大きな変化は、校内暴力の頻発と師弟関係の崩壊から始まった。誰が犯人だ、ではない。われわれ全員が犯人だ。「協働」を失った。
教育は教師による。現場の教師たちをどう支援できるか。「今ここにあるもの」とは違うものに繋がること。それが教育というもののいちばん重要な機能。そして葛藤させる人が教師。知識を教えるのではない。
学校には「何をしに入ったかわからない」というすでにはじまっているゲームに巻き込まれることだが、生徒はアンテナの感度だけが最大値になっている。そこにメンター(先達)に会う。先輩、教師。そのメンターが「ブレークスルー」をもたらす。そして自分の限界を超えることになる。それが「学び」だ。自分の手持ちの価値判断の「ものさし」を後生大事に抱え込んでいる限り、自分の限界を超えることはできない。知識は増え、技術も身につくかもしれない。資格も取れるかもしれない。しかし「テイクオフ(離陸)」はできない。「学び」とは離陸することだ。
人生も投げ出されすでに始まっているゲームだ。そこでは、人生の師が不可欠だ。孔子のいう君子の六芸。礼(祖賢を祀る)、楽(音楽)、射(弓)、御(馬を御す)、書、教。礼、楽、そして武道は人間ならざるもの(人馬一体とか)とコミュニケーションする力だ。専門教育ではなく、教養教育がいかに大切か。
その教育の力。そこに「述べて作らず(先賢の祖述)」(論語)、仏法の「如是我聞」(の姿勢)が大切となる。師の師だ。
スーパーNISHIYAMA、カルビーの「三連番地主義」、カゴメの悪戦苦闘など、現地を歩きながら、農業を21世紀最大の成長産業にもっていこうと呼びかける。農業(コメ)、農政専門ではない財部さんだからこそ、新しい角度で見ることができる。
そこで問題となるのは、農地法で貫かれた「耕作者主義」。農地が「資源」ではなく「資産」になってしまっていると指摘している。
昭和35年にカロリー摂取量(これ自体は全2500kcalでそう変わっていない)の半分がコメだったが、今はその半分の4分の1。農家は606万戸が285万戸。従事している人は1445万人が335万人。農地面積は470万haだが、耕作放棄地は38.6万haにもなる。農地は余っている。
「農地を貸しやすく、借りやすくできるように」「減反せずに、そこで飼料米や米粉ができるように」「コメの農政だけでなく、各方面の地域性も生かす農業に」と私はいってきたが、そうした方向に今、間違いなくなってきている。
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