usotuki.jpg注目の坂崎かおるの初の単著。想像力豊か、各国を舞台にし、幻想小説からSF作品まで縦横に描く。文章の切れ味、時空を超え自在に描く手慣れともいうべき9つの短編集。

「ニューヨークの魔女」――19世紀末のアメリカ。屋敷の隠し部屋から魔女が発見されたのは1890年。エジソンが電気を発明した1882年、処刑方法として電気椅子が生み出される。その後の話。死を求める"魔女"は、処刑用の電気椅子を用いたショーに臨む。「僕はショーを本物だと信じてきた。どこまでが真実でどこまでがショーだったのだ。彼女は本当に魔女だったのか? いや、世を乱す者を魔女と呼ぶなら、誰が魔女だったのだ? 確かなのは孤独な女性がいたことと、そして彼女たちが消えたこと。僕はふたりの寂しい女性を思い出した」・・・・・・。

「ファーサイド」――「朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが『おはようございます。世界の終わりまであと7日になりました』と言う。1962年は、そんな毎日だった」から始まるキューバ危機の頃のアメリカ。

「私のつまと、私のはは」――A Rグラスを用いた疑似的な乳児の育児体験ができる「子育て体験キット(ひよひよ)」を育てることになった同性カップルの日常(非日常?)。じわじわと愛が芽生えてくる心象と、2人の関係の変化が描かれる。絶妙。

「電信柱より」――リサは電信柱を切る仕事をしていた。その夏の日、リサはある電信柱に激しい恋をした。「これほどの電信柱には、この先二度と会えないと思うんです。気品があるんです」・・・・・・。

「嘘つき姫」――第二次世界大戦下のフランス。ドイツが侵攻し、逃げまどうなかで知り合った2人の少女、エマとマリー。皆が生きるため、愛情があるゆえに「嘘」をついていた。人をつなぐ「嘘」、人が生き抜くための「嘘」が、戦時下の極限状況のなか、心に響いてくる。感動的な作品。

「日出子の爪」――小学生が爪を学校の植木鉢に植えたところ、1週間ぐらい経って、指が生えてきた・・・・・・。

その他、「リトル・アーカイブス」「リモート」「あーちゃんはかあいそうでかあいい」の短編がある。才能が縦横に光を放っている。 


kodou.jpg「身につまされる」ような小説。昭和50(1975)前後に生まれたいわゆる団塊ジュニアたちの見た世界。「24時間働けますか」の右肩上がり、高度成長期から突然のバブル崩壊、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、金融の崩壊、デフレへの突入・・・・・・。社会に出た時は、「就職氷河期」のど真ん中。彼らの親は、「男は男らしく、女は女らしく」、競争に生き抜くことを余儀なくされた団塊の世代。「80 50問題」と言われるに至った今、まさに団塊の世代と団塊ジュニアの世代の葛藤を背景にした社会派ミステリーが本書だ。自分自身が遭遇した世界だけに、我々の仲間世代には、あまりにも生々しく身につまされるのだ。

20226月、公園でホームレスの老女が殺され、遺体が燃やされる事件が起きる。逮捕された男・草鹿秀郎は18年も引きこもりで、高齢の父親を殺害したことも自供する。女性刑事の奥貫綾乃は、殺された女性の身元を調べるなかで、自分の未来を重ねるとともに、自分たちの育った社会の歪みと対峙することになる。犯人の草鹿も綾乃も、そして殺されたホームレスの女性の娘も、同じ1974年生まれ、まさに団塊ジュニアそのものだ。

草鹿は全面自供する。中学生の時、「オタク」とからかわれ、好意を持っていた女性からも「キモい」と言われ、いじめに遭う。大学は卒業したが、就職氷河期。就活、圧迫面接、巡り会ったのはブラック企業、職場を転々とし、そこで感じる惨めさ、馬鹿にされ、嫌われてしまう恐怖感。32歳になって仕事探し自体をしなくなった。「ニート」という言葉が流行った頃だ。捜査をする綾乃は「更衣室の中でしかし風を感じた気がした。草鹿秀郎が内側に抱えるがらんどうから吹いてくる風を。・・・・・・風が、今度は綾乃に囁いた。――弱いのは、おまえもだろう。唐突に、震災の日の記憶が蘇る。独りぼっちで泣いているわが子。その無事を喜べなかった自分。愛するべきものを愛せないことも、きっと弱さだ」・・・・・・。そして、殺され焼かれた女性の身元を調べるうち、その愛する娘・茉莉花が引きこもり、自傷行為に及び、母娘とも苦しんでいたことがわかる。皆、バブル崩壊後の不況の影響を受けた就職氷河期世代。この世代の苦悩や絶望、後悔や鬱屈が描かれ、親の世代として、その叫びが痛いほど響いてくる。親も悩み苦しみ、引きこもりの子供を殺害した事件があったことを思い起こす。

48歳、無職、独身、恋愛経験なし、ずっと引きこもり」の男は何を考え、何に苦しみ、もがき、親を殺し、遺体を燃やすに至ったか。団塊の世代と団塊ジュニアの世代が抱え込んだ時代の暗い影を描く社会派ミステリー。考えさせられ、重い。


fukuzawa.jpg副題にある「最後の蘭学者」との観点から、福沢諭吉を捉え、蘭学を踏まえて日本の近代化に挑もうとした福沢諭吉の姿をくっきりと描き出す。

「文明化」と「独立」――19世紀後半の日本は、この2つが交錯するなかでがむしゃらに進んだ感がある。西洋の文明を憧憬のなか急速に摂取しながらも、西洋諸国はまた日本の独立を阻む脅威でもあった。「『文明化』と『独立』との間の緊張と矛盾を孕んだ関係性を、最も鋭く直視し、思索を深めた人物、それこそが福沢諭吉であった」「そんな福沢諭吉の思想の本質、キーワードは『蘭学』である」と言う。福沢は黒船来航後の安政年間に、大阪で緒方洪庵の適塾に学び、塾長まで勤めた。安政5(1858)、江戸に出た福沢が、築地鉄砲洲の奥平家中屋敷内の長屋に開いた塾も蘭学塾であった。今日の慶應義塾はこの蘭学塾を起源とする。

「文明論之概略」の中で、儒学が主流であった徳川時代と、西洋文明が洪水のように押し寄せる明治日本とは、大きくと異なるとし、「一身にニ生を経るがごとく」と福沢は言ったが、攘夷論を批判し、西洋文明の洪水にも溺れず、日本の国家的独立を維持するために国民の道徳的紐帯を醸成しなければならないと考えるに至ったのは、蘭学を通じて、いち早く西洋学術に触れていたからだと指摘する。蘭学は、徳川日本の「洋学」であり、ペリー来航以降の「洋学」の起源である。

「慶應義塾の教育理念の1つ『自我作古』(我より古を作す)は、初めて触れる西洋の概念と東アジアの文化的伝統との間の緊張関係の中で営まれる翻訳の作業と不可分であり、『文明』や『窮理』、『演説』『自由』といった概念もまた、翻訳を通じた思想的格闘の産物である」「福沢にとって、緒方は、独立の精神や平等の思想を体現した存在であった。そして何よりも、緒方に鍛えあげられるなかで、福沢は誰にでもわかりやすく平易に語りかける、独特な文体を身に付けた」と言う。さらに「『窮理』『物理』の学を文明の学術として重視、儒学に対して、陰陽五行説等古くからの妄説に惑溺していると批判した」「福沢は厳しい国際環境の中で、日本の国家的独立について危機意識を抱き、西洋兵学、最新の西洋軍事学を学ぶ。単なる軍備増強論ではなく、測量窮理の学、算数測量の学など学術・科学の発展を基礎としたものであり、それが国家体制や政治秩序の変革に大きな影響を与えていることを鋭敏に見抜いた。兵制と国制が連動した、近代『国民』国家の原理を見出した」「わが国を守るには、国中の人々に『独立の気力』『自由独立の気風』が充満しなければならない。自らの力で己の誇りを守り抜く。何事も政府に依頼し政府に媚びへつらう『卑屈の気風』を取り除く」ことを訴えたのだ。

福沢は明治15年、「時事新報」に「物理学之要用」「経世の学亦講究すべし」を掲載する。そこで「『不学者流』が非合理的な『情海の波』に呑み込まれ、『偽詐』フェイクニュースに踊らされ、社会の不安や分断、軋轢を招いている。今こそ、周囲に惑わされずに努力で真理を探求する、『実学』『窮理』の精神を涵養しなければならない」「書物を深く読むものは、決して軽率に行動を起こしたりせず、沈黙して熟慮する」「(国会開設論の展開にしても)学問を通じた深い叡智に基づく熟議の政治文化を養うことが重要である」と言っている。140年後の今も全く同じだ。愕然とする。

著者は「明治維新後、『近時文明』の急激な発展に狼狽し、膨大な情報に踊らされ、情念が渦巻く現在、日本社会を安定的な進歩の道へと誘うためにも、『窮理』の精神に根ざした『実学』の普及が肝要となる。こうした時代状況のなか、福沢は徳川期において蘭学が果たした役割と意義を再認識・再発見し、明治日本の文明化の起源として改めて位置づけ直した」と言っている。また、中国と朝鮮の文明化を開化派との交流によって模索したが、無念にも崩れ、「脱亜論」に至ったことも論述されている。

「明治日本の文明化と独立を先導した福沢は、生涯にわたり、前野良沢や杉田玄白をはじめ、緒方洪庵ら蘭学の先人たちが守り発展させた『運命の炬火』を継承すると言う強い自負を持ち続けた。福沢にとって、蘭学は常に立ち戻るべき文明化の起源であり、帰るべき場所、自らの学問の故郷だったのである」「明治維新の動乱期、暗黒の世の中で唯一、洋学を掲げて『文明の炬火』を守り、日本の進むべき方向を示したのが、慶応義塾であった。福沢は最晩年の『福翁自伝』でも、同じ話を語っている」と結んでいる。本書は短いが、一本の骨太の骨格が気持ちが良いほど貫かれている。


odajima.jpg天才コラムニストによる深遠なる文章術、コラム論。「コラムは、道であって、到達点ではない」「だから、コラムを制作する者は、方法でなく、態度を身に付けなければならない」「コラムは、常に挑戦であるはずのものだ。『慣れ』や『手順』から生まれる文章は、コラムとは別の規格品に過ぎない」――。「道」は進む過程、日常の生き方・態度だ。また「いずれにしても、コラムは発見ではない。むしろ、発見のために用いる顕微鏡や望遠鏡に近い。視点の限定。拡大。あるいは目眩それ自体」とも言う。文章を書く、特にコラムを書くという構造分析・思考の幅と深さに感嘆した。かつ読んでいて、5分程度の短いスピーチも多い自分自身に重なる思いもあり、極めて面白く、共感した。

コラムとは、「画家がキャンバスの中に風景を封じ込めるごとく、特定の枠組みの中で、言葉の小宇宙を形成する作業」と言う。「会話と文章の能力は違う。会話の魅力的要素は、ボキャブラリーの華麗さや反応の速さといった瞬発的な能力、人格的な魅力や美貌や声そのものの豊かさによる。文章はひらめきや想像力よりは『根気』や『忍耐力』みたいな、地味な能力による(石積み作業)」「技巧もアイディアも枯渇しない。書き手にとって唯一の有効な才能は『モチベーション』だ」「書き出しはそれほど重要な要素ではない」・・・・・・。

「文章を書く人間は、書き手の頭を備えていると同時に『読み手』の眼を持っていなければならない。『自分の文章を他人の眼で読んで批評する能力』だ」「結末、結語、落ち、余韻、着地について」「コラムにメモはいらない?」「文体の問題は、半ば以上は主語の問題である」「主語を定める事は簡単な作業ではない。理由はなにより日本語がそもそも主語と相性の悪い言語だからだ。英語のように主語を明示すると、文章が主語だらけになり、文体は驚くほど押し付けがましくなる」・・・・・・。

「推敲について」――。「文章を書く人間には、『創造性』と『批評性』が必要で不可欠。創造性だけで書かれた原稿は独創的ではあるかもしれないが、独善的に見えるし人々に理解されない。といって批評性の名において全面的にカドをとられた文章からは、独自性が姿を消してしまう。常識的で、平板で、保守的で、当たり前な、わかりやすくはあっても、少しも面白くない没個性な文章では、コラムにならない」・・・・・・。

「裏を見る眼」――。「世界には、二通りの人間がいる。(同じ景色の中に)妖精を見る人間と見ない人間だ」「司馬遼太郎の見解によれば、妖精を見る眼は、輪郭の裏側を見る能力に依っている。普通の人間は、木々の形や11枚の葉っぱを見るが、ある種の人々は木の枝の輪郭によって区切られた青空の形に注目している。枝と枝の間の形を見る能力。ひとつの形を多様な見方で捉え直す『眼』の力が不可欠だ。複眼的な視点だ」「小田嶋さんは説明の名手だ。説明がうまい人というのは、物事を見るときの『焦点距離』を自在に操れる人、接近と後退を繰り返すその運動が見事です(内田樹)」「接続詞はいらない。それをやると台なしになる。アイディアから、アイディアにポンと跳ぶところが面白いのに(内田樹)」・・・・・・。内田樹との対談で、小田嶋さんは「落語を聞いても、『ところで』とか『さて』とか何もなく、いきなり話に入る」と応じている。スピーチでも落語でも演説もリズムが不可欠。小田嶋隆の「コラム道」は、とても刺激的で面白い。


mane-monsu[.jpgカラ売り屋シリーズ。元官僚の北川靖とアメリカ人のホッジス、グボイェガ、トニー等のカラ売り専業ファンド、パンゲア&カンパニー。標的とした企業の株式を、持ち主から借りて市場で売却し、その企業の内実を告発するレポートなどで、株価を押し下げたところで買い戻し、借りていた株式を返却して利益を得る。資産の過大計上や嘘で塗り固めた製品開発と事業計画、契約書類の改ざん、阿漕な手法で暴利を貪る企業を相手に宣戦布告。潰すか潰されるかの大勝負に挑む迫真の経済エンタテインメント。息詰まる攻防を描く全3話。

「ミスター液晶」――液晶ディスプレイに使うバックライト製造子会社を持つ投資スタンダード上場の城西ホールディングス。苦労して、車載用の液晶パネルの開発に成功した畑中良嗣はアップルの「iPod」にも寄与。その後、大阪の大手家電メーカーにヘッドハントされ、液晶部門の幹部を務めていた。そんな時、液晶ディスプレイに必要なバックライトのメーカー、城西バックライトの創業者・ 重松幸三に城西ホールディングスに入って右腕になって助けて欲しいと誘われる。液晶と有機ELのシェア争いが始まっており、液晶のシェアが落ちれば、それと一体のバックライトのシェアも落ちるとの不安を抱えていた。畑中が入ってみると、技術開発の遅れも甚だしく、熱意も感じられない。しかし重松は過去の栄光にすがり、銀行等にも法螺話と長広舌で対処してしのいできた。いかにものし上がってきた大物風のたぬき親父だが・・・・・・。その脆弱性を見たパンゲア&カンパニーは、新技術が生まれていないことや資産の過大計上を突いた。パンゲアの重ねてのカラ売り推奨レポートで株価が暴落、激しい攻防が展開される。

「水素トラック革命」――。舞台はアメリカ。ターゲットは、燃料電池トラック・メーカー、トラックテック・コーポレーションのジェイク・トラヴィス。まだ38歳で、田舎大学のドロップアウトで元アラームのセールスマン。「そんな男が、革命的な燃料電池トラックを開発して、今やビリオネア(10億ドル)って根本的におかしくないか」とパンゲアの面々は思うのだ。調べてみると、トラヴィスは「天性の嘘つき」「ある意味でモンスター」。華々しいプレスリリースを次々行い、騙しに騙しを重ねていくが、現場の作業場を見ても全く作業が進んでいない状況であることが判明していく。GMなど名だたる大企業まで騙されていくが、ついに破局の時が・・・・・・。

「地銀の狼」――。標的としたのは、「ゴールド住建」と「あかつき銀行」。ゴールド住建は、サブリースで30年もの家賃保証をするという危ない会社。あかつき銀行は、それと一体となってハイリスクローンを組ませ、不動産関連ローンや仕組み債等個人向け商品に特化している乱暴な会社。あかつき銀行の優秀な銀行マン仁村清志は、節度を守る信頼される男だが、人材抜擢にも積極的。アウトローで外されていた柳沢悠次を引き上げた。狼の血が身体に流れている男だ。

ゴールド住建の30年のサブリース、アパートの採算見通し、火災保険料やアパート経営によって増える固定資産税、所得税、国民健康保険等が反映されてない説明、ましてや入居者が集まるとも思えなかった地域など、その悪質さは広がっていく。一方、あかつき銀行は仕組み債・仕組み預金を推進、顧客に借り入れをさせ、それを投資させるレバレッジ取引を積極的に推奨。まさに大損を出して次々と倒れる顧客の屍を踏み越え、収益至上主義で猛烈に突き進んだ。その推進役に柳沢がなってしまったのだ。ゴールド住建の案件に融資をつけ、大金利で甘い汁を吸っているのがあかつき銀行。これは人口が増加し、経済が右肩上がりの時代にのみ可能、地銀が人口減や経済の右肩下がり、ゼロ金利政策による利鞘縮小では通用しない。仁村は「顧客を深く理解し、様々なニーズに、付加価値のある助言やサービスを提供していリレーションシップ・バンキングしかない」と主張するが、左遷される。歯止めを効かせる者はいなくなった。
「ありゃめちゃくちゃな会社だな」「ゴールド住建とあかつき銀行は、客を罠に引っ張り込むアリジゴクみたいな連中だな」と北川らパンゲアはカラ売りを敢行する。追い詰められた行員が自殺、被害者が立ち上がる。それに対してあかつき銀行らは仕手筋を動員して対抗する。激しい戦いの行方は・・・・・・。

マネーモンスターは常にいる。日経平均が歴史的バブル越えとなり、激動する市場でカラ売り屋は、マネーモンスターといかに戦っているか。迫真の経済エンタテインメント。 

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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