思いもよらない奇想天外な展開と、爽やかで眩しい高校青春物語。感動的で素晴らしく、グッとくる。
夏休みも終わろうとする8月末、名門進学校の穂木高校2年の山田が、飲酒運転の車にはねられ死んだ。人気者だった山田の死。悲しみに沈む2年E組のクラス担任・花浦が席替えを提案すると、静まり返った教室のスピーカーから死んだ山田の声が聞こえる。山田はスピーカーに憑依してしまったらしい。そこでなんと「席替え、俺、ずっと前から考えてたんすよ」と、山田が2Eの「最強の配置」を提案する。それから誰からも愛され人気者だった山田と2Eの仲間との会話という不思議な日々が始まる。その会話がなんともくだらない、そして楽しい、「今時の高校生はこういう感じ?」という高校男子の生態が生々しく描かれ、面白い。
山田が死んで声だけになって2ヶ月、文化祭では「山田カフェ」を開いたり、12月24日の「山田の誕生日」祝いをしたり、3月の2年E組最後の日。「山田に、いなくなってほしくない声だけでも、ここにいて欲しい」「山田、お前、幸せだったな」「<はい>山田が力強く答える。<幸せっす> 盛大な拍手に包まれ、2年E組の最終回が閉じる」・・・・・・。そして1年経ち、さらに山田が死んで声だけになり迎えた卒業式・・・・・・。仲間は散り散りになり、山田から離れていく。取り残された声だけの山田の憂鬱が深くなっていくのだが・・・・・・。
ずっと山田を忘れない中学時代からの友・和久津は、山田との接触を図ろうとするのだった。「自分はなぜ生きているのか、自分はなぜ死なないのか、なぜ死ねないのか」――心情を吐露し合う結末。感動のラストシーンに心が激しく揺さぶられる。
派遣先の会社でセクハラに遭い、男の方ではなく被害者・敬子が解雇される。その後、彼女は笑わないアイドル× ×とそのグループに夢中になり、<推し>の日々に没入する。なぜアイドル× ×に、真面目で目立たない敬子が惹かれたのか。この男社会の中で、媚びない、笑わない、挑戦する姿勢に惹かれたのだ。敬子の他に、「おじさん」が作ってきた社会の理不尽と戦う女性たち。カナダで同性のエマと暮らす妹の美穂子、敬子がいた会社で今も働き、あのセクハラ男を倒そうとする歩など、幾人かの女性が戦いに挑む姿を描いている。
「おじさん」は私(女性)を見下す。物のように見る。道を歩いたりしてるだけで性的な存在と見る。女性が怒ると「感情的になるなよ」と小バカにする。自分より低い存在だとマウントを取る。俺様の方が偉いんだぞと思っている。意味不明に威張っている。品がない、醜悪な「悪いおじさん」がいる。女性の中にも「おじさん」がいる。
問題は「おじさん」社会。もっと言えば「おじさんアリジゴク」が形成されてしまっていることだ。女性も流され、合わせ、つい媚びざるを得ない状況に追い込まれがちだ。アイドルはその中で形成される。しかし、アイドル× ×はそのなかで異質だった。
「今の敬子に実感があるのは、『毎日がレジスタンス』だ。抗い続けなければ、どの瞬間にも、『おじさん』の悪意に、『おじさん』がつくったこの社会の悪意に絡め取られてしまう。常に防衛するのが当たり前の『普通の生活』を日々送っている日本の女性たち」「日本社会は、常に女性に制服を課しているようなものだった。女性に『望ましい』とされる服装とメイクが社会通念として存在し、それが人生のどの段階に進んでも、彼女たちを縛った」と描く。
アイドル――「そうやって、女の子たちが成長してしまうと、大人たちは、彼女たちを『未熟さ』のままにすることができません。・・・・・・アイドルグループを運営する立場の人々は、新たに女の子を募集し、各地に新たなグループを作り、『未熟さ』のシステムを長持ちさせようとした」「韓国の女性アイドルは、同時期の日本のアイドルが求められていたような『未熟さ』とは無縁だ」「なぜ恋愛禁止だったかと言えば、アイドル体系を維持する大人たちにとって、女の子たちは商品だったからだ。商品が傷物になると売れ行きに影響する」「× ×たちの楽曲の主なテーマは、社会や同調圧力への反抗、社会における生きづらさ、息苦しさについてだった」のだ・・・・・・。
日本人の男性を基準にして考えられている社会、パワハラ、セクハラ、カスハラが問題となってる社会――。その中での女性の生きづらさと、息苦しさを、本当に自覚しなければならない。
葉室麟の初期の名作。第11回松本清張賞受賞作。テレビドラマ化され最近再聴した。寛政年間、西国の小藩である月ヶ瀬藩を舞台とした3人の男の友情、それも年齢を重ねた漢(おとこ)の命をかけた剛にして直の友情、それを支える女たちの哀切漂う毅然たる姿を描く。感動の物語。
藩の郡方の日下部源五(映画では中村雅俊)、名家老と謳われるまでになった松浦将監(柴田恭兵)、百姓の十蔵(高橋和也)の3人は幼なじみ。二人は同じ剣術道場に通い、その頃うなぎを買った相手が十蔵だったということだ。
源五と将監は40年前、将監の親の仇討ちを共に挑んだほどの友だが、20年前には十蔵を中心として起きた一揆をめぐっての意見で対立、絶交状態になっていた。十蔵は殺され、その娘の蕗(桜庭ななみ)は、源五の下で下働きをしていた。
名声を得ていた将監だが、次第に主君からも疎まれるようになり、暗殺命令があろうことか源五に下される。国替をしても幕閣にのし上がろうとする主君、それを止めようとする将監。暗殺しなければならない源五・・・・・・。将監は脱藩をし、江戸の松平定信に会おうとするのだ・・・・・・。
三人は昔、祇園神社に行き、夜空の星を見たことがあった。「銀漢声無く玉盤を転ず 此の生、此の夜、長くは好からず」(蘇軾)――。「あの一揆の時、十蔵はわしを助けたが、わしは十蔵を見捨てた。十蔵は、そんなわしをかばって、何も言わずに死んだのか」と、将監は言う。「十蔵は、お主の友だったのだ」と源五は言い、天の川を眺めながら「銀漢とは天の川のことなのだろうが、頭に霜を置き、年齢を重ねた漢も銀漢かもしれんな」と思う。「脚力尽きる時、山更に好し」(蘇武)――「人は脚力が尽きる老いの最中に、輝かしいものを見ることになるのだろうか」と描く。
担当編集者が、「葉室さんがよくおっしゃっていた言葉は『負けたところからが人生』『人生も後半に差し掛かったとき、その悲哀を越えでゆく生き方があってほしい』」と言っている。
「疲れているのは体じゃない 脳だった!」が副題。1、2、3の3冊のシリーズの1冊目。「体が疲れている」とは、実は「脳の疲労」に他ならない。仕事や運動をして、体の疲れを感じるのは、エネルギーが不足したからではない。「細胞のサビ」――すなわち、細胞への「酸化ストレス」、体内で活性酸素が過剰に発生することに関わっている。脳の細胞で活性酸素が発生し、酸化ストレスの状態にさらされることでさびつき、本来の自律神経の機能が果たせなくなる。これが脳で「疲労」が生じている状態の「脳疲労」。ヒトはその時に「体が疲れた」というシグナルを眼窩前頭野に送り、「疲労感」として自覚すると言う。運動などで体への負荷がかかると、「自律神経の中枢」もフル回転で心拍、呼吸、体温を調節しなければならない。この「自律神経の中枢」の疲労こそが、運動疲労の正体なのだ。だから、達成感のある仕事が過労死を招く。ランナーズ・ハイ、高揚感も危険。自律神経(交感神経と副交感神経の2系統)は、人が健康に生きていくために最も重要な器官。変調が起こると、質の高い睡眠が得られなくなり、心拍コントロールが困難となる。終業後のスポーツクラブ、土日の早朝ゴルフは危険だと言う。
「乳酸は疲労の原因ではない。疲れの直接の原因となるのは活性酸素である」「激しい運動とともに、活性酸素をたくさん発生させ、疲れの元になるのが紫外線。マラソン選手がサングラスをかけるのは重要」「疲労回復因子FRが疲労因子FFを抑制する」「疲労回復因子FRは加齢などによって反応は低下する」・・・・・・。
それでは、疲労回復因子FRの反応性を高めて、脳の疲労を改善するため何をしたらいいか。第一には良い睡眠。良質の睡眠が得られれば疲労因子FFによる酸化・損傷を回復させるに十分な疲労回復因子FRが分泌されるため、脳の疲労は回復する。疲労回復の決め手は、睡眠開始の3時間。1時間ほどで深いノンレム睡眠に至る。いびきは疲労の大きな原因となる。帰宅後は強い照明は避け、入浴が良い。第二には脳疲労を改善する食事成分。疲労回復成分「イミダペプチド」が効果的で、鶏の胸肉がいい(マグロやカツオも)。「クエン酸」もいい。レモンやグレープフルーツ、梅干し、酢など酸っぱいものに含まれる。第三にはオフィスや住空間。「ゆらぎ」のある生活で脳疲労を軽減すること。森の木漏れ日、そよ風、川のせせらぎ、鳥の鳴き声・・・・・・。自然環境の「ゆらぎ」と人体の「ゆらぎ」がシンクロすることが心地よさをもたらす。同じ環境、同じ温度、同じ姿勢ではダメ。デスクワーク中に立ち上がるだけでも疲労が軽減する。ぬるめの湯に10分以内の半身浴。休日は犬や猫を見習ってだらりと。
そして最後に、「脳疲労を軽減するために、ワーキングメモリを鍛えること」。短期記憶に加えて、長期記憶を参照させリンクする。知的機能を担う大脳の前頭葉の前頭前野にワーキングメモリの中枢がある。脳全体を有効活用するということ。ワーキングメモリを強化するときに、大事なのは、記憶の「再生」能力。感動の記憶は「再生」力の向上につながる。物事を多面的に見る習慣、会話のコミュニケーション、多趣味で興味を持つことが重要だと言う。大事なことである。
頓知の「一休さん」とは大違い。そんな場面は全く出てこない。民衆の人気があったことから後世に作られたようだ。「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」「有露地より 無露地へかえる一休み 風吹けば吹け 雨降らば降れ」「嘘をつき地獄へ堕つるものならば なき事つくる釈迦いかがせん」「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って 後は死ぬるを待つばかりなり」・・・・・・。禅と詩偈に狂い、風狂、破戒の道を生きた一休宗純の異端の姿を描き出す。
室町時代、高僧になれとの母の願いを受けて、京都の臨済宗の寺で修行に励む千菊丸(後の一休)だが、五山に支配された禅寺は腐敗し切っていた。詩才は認められたものの、彼は怒りを持って反発、心身を害し、死に近づくほどの苛烈な修行に身をやつしていく。
母は後小松天皇の寵愛を受けていた、しかも南朝の楠木一族の女性。そうした帝の血をひく千菊丸の前に、将軍寵臣の赤松越後守が現れ、自らの権力闘争に利用しようとしてくる。
南北朝統一後、飢饉、疫病、災害が続き、屍を野犬が食う有様。土一揆が頻発し、やがて応仁の乱で京は焼け野原と化していく。一休の求めたまことの禅は五山の支配と腐敗・堕落のなか、どこにも見い出すことができなかった。本当の救いとは、人間とは、無とは何か。一休は民衆の真っ只中に身を投ずる。女も抱く。破戒もする。己の中に流れる南朝と北朝の血、野心と奸智の赤松越後守を殺害した山名宗全とのアンビバレント的関係、同じく禅を極めようとする師兄・養叟との相剋、傾城屋の遊女・妬月子(地獄大夫)と森(しん)との出会い・・・・・・。激しく生きる者達たちの接触には、火花が飛び、亀裂には血が噴出する。山名と細川の激しい抗争、いつまでも燻る南朝再興の動き、絶望的な民衆の苦悩。室町時代後期の窮状が破戒僧一休に収斂されるかのようだ。養叟との相剋はまことの禅の闘争だけに激しい。簡易な大衆禅が真なのか、破戒と修行に徹する風狂禅が真なのか。
愚道一休は長生きだった。「一休は己という容れ物が円に変わった様子を想像した。それが、究極の一点へと集約されていく様を、六根全てを使って感じようとした。美しい円は、極限の点へと変わる。刹那、一休は叫んだ。渾身の力を使って。己の六根を全て滅却して。無――と」と結んでいる。