usagiha.jpg冤罪事件、それも父と子のニ重の冤罪に迫る緊迫感ある力作。兎にワかんむりを付けると冤となる。兎が薄氷の上を逃げる。猟犬が追う。果たして水に落ちるのはどちらか。犯罪者か警察・検察か。リズミカルな文章で迫力ある攻防を描く。知略みなぎる長編力作。

ある嵐の夜、資産家の男性が自宅で命を落とす。死因は所有する高級車・ボンティック・ファイアーバード・トランザムによる一酸化炭素中毒。古い車はまれにエンジンキーを切った後も、エンジンが動き続け一酸化炭素を発生する「ランオン」現象が起きるという。ガレージに充満した一酸化炭素が上の寝室に上がったということだ。容疑者として、自動車整備工の日高英之、被害者の甥が取り調べを受ける。暴力的な強引で執拗な取り調べが続く。英之が資産家の叔父・平沼精二郎の遺産を狙って、一酸化炭素中毒死させたと決めつける強引な取り調べで、捏造に近い供述調書に押印させられてしまう。しかも英之の父・平沼康信は15年前、高齢女性を殺害し服役、そこで死亡していたが、本人は無罪を主張、英之も冤罪を確信していた。しかし殺人犯の家族として、バッシングに遭い、言葉に尽くせない苦しい人生を余儀なくされていた。ニ重の冤罪事件が起きたのだ。

かつて、父親の冤罪事件を担当し、苦い思いを抱え込み執念を見せる弁護士・本郷誠が今回も担当、英之の無実を信じる恋人の大政千春、本郷の依頼で事件調査を手伝う元リストラ請負人の垂水謙介らが必死で奔走する。

検察と弁護側の激しい法定闘争。英之の無実を主張し、見込み捜査の穴を鋭くつき、検察をたじろがせる弁護側、強引な違法取り調べを暴き出す弁護側・・・・・・。痛快極まりない法定闘争の結果は・・・・・・。事件の真相は二転三転していき・・・・・・。見えてくる真相は、かなり複雑でぐいぐい引き込まれる。か弱い"兎"は何を考えたのだろうか・・・・・・。

無実であることを主張し、「自分はどうなってもいい。でも家族、特に英之にだけは、どんなことがあっても、殺人者の息子という汚名を着せたくない」と父親。「親父がひどい拷問で自白させられたこと。そしてそもそもが冤罪だったこと。実際何があったのかを法廷で明らかにしたい」と復讐を誓う英之。冤罪の構造をくっきり、浮かび上がらせる力作長編小説。 


banjounisaku.jpgゴッホに恋焦がれた青森の貧乏青年・棟方志功を懸命に支えた妻・チヤが語る苦難と栄光の物語。「ワぁ、ゴッホになるッ!」「弱視の版画家。顔を板すれすれにこしりつけ、這いつくばって、全身で板にぶつかっていく。見るものをおのれの世界へ引きずり込む強烈な磁力の持ち主。版画の可能性をどこまでも広げる脅威の画家。ゴッホに憧れ、ゴッホを追いかけて、棟方志功はゴッホの向こう側を目指し始めていた。何人たりとも到達し得なかった高みへと」「果てしなく長い旅路をともに歩もうと誓った人。力に満ちた大きな人。板画に全てを賭けた人。逸脱を恐れず、まっすぐ、まっしぐらに、全身全霊で板木にぶつかっていく人。挑戦の人。希望の人。夢を夢のままで決して終わらせない人」――それが棟方志功であり、「自分はひまわりだ。棟方という太陽を、どこまでも追いかけてゆくひまわりなのだ」とチヤは思うのだった。

棟方志功は1903(明治36)、青森の鍛冶屋の家に生まれる。ねぶたの地だ。1924年、画家への憧れを胸に上京した棟方志功は帝展の入選を目指す。しかし、絵を教えてくれる師もおらず、画材を買う金もない。弱視のせいで、モデルの身体の線を捉えることが難しく落選続きだった。やがて、木版画こそが、自分にとっての革命の引き金になると信じ、油絵をやめ板画に力を注ぐことになる。「木版画だば、日本で生まれた純粋な日本の技術だ。油油は、西洋の真似コにすぎね」「いかにしてゴッホがあんなにも情熱的で革新的な絵画を創作するようになったか。――浮世絵があったからだ。日本の木版画・浮世絵が、オランダの田舎町に生まれた名もなき青年を『画家ゴッホ』へと生まれ変わらせたのだ」・・・・・・。

大転機が訪れる。1936年、国画会の展示会場で巨匠である柳宗悦、濱田庄司が偶然廊下を通りかかり、棟方志功の「版画絵巻」に、「私たちは君の作品に心底感じ入った。いや、ほんとうに・・・・・・すっかり持っていかれてしまったよ」と絶大なる期待を述べたのだ。棟方志功は「ワだば夢見でるんでねが?」とぴょんぴょん飛び跳ねたという。

棟方志功はさらに没入する。びっくりするほどまっすぐで、呆れるほど一生懸命で。心と体の全部をぶつけて描いた。そして彫った。たった1枚の板と、1本の彫刻刀で、世界に挑み、世界を変えていく。ゴッホに憧れて、ゴッホに挑み、ゴッホに追いつき、ゴッホを越えて、どこまでも伸びていったのだ。

棟方志功の全身全霊をかけた没入姿勢が迫ってくる。それを支えた妻・チヤもまた、まっすぐで全身全霊をかけた一生懸命の人だった。


hyouryuusuru.jpg「どこで、なにを、間違え、迷走したのか?」が副題。日本経済の長期にわたる低迷を、政府の経済政策から論ずることが多いが、日本企業の経営そのものに大きな原因があるとする。それはアメリカ流の株主資本主義に惑わされて、株主への過剰配当に偏し、投資を抑制、従業員を大事にする経営を怠ったからだ。日本企業の50年を明快に経営分析してくれる。そして、つくづく「もったいない」と言う。

「日本企業の経営がおかしい」――。1990年代まで、圧倒的に設備投資の方が株主への配当支払いよりも多かった日本の大企業だが、2000年代に入り、配当がうなぎ上りで増え、2021年には史上初めて設備投資が配当より少なくなってしまった。財務省の2022年度の法人企業統計によれば、配当が24.6兆円、設備投資が22.0兆円だ。2001年には、アメリカ型コーポレートガバナンスへの進軍ラッパが吹かれ、「設備投資、海外展開投資、人材投資等を抑制しつつ、配当を増やし続ける経営、従業員への分配(つまり賃金)を抑制したまま、株主を優遇する経営が進んできた」「3つの投資の過剰抑制が起きてしまい、企業は自分の首を自分で締めるという間違いを犯してきた」と指摘する。

また「積み上がる自己資本と手元流動性」の状況がある。「設備投資を抑制し人件費も抑制してきた日本企業は、利益率を改善する一方で、財務体質の改善に2001年前後からかなり熱心であり続けている。つまり自己資本(内部留保中心に)を積み上げてきた。日本の中小企業は1999年頃から自己資本比率を高める経営に一気に変わった。1998年の金融危機後、いざという時のメインバンクによる支援が期待できなくなったため、企業側の防衛策としての自己資本の充実と自己資金の準備に注力、利益が増えても設備投資は積極的に行わないというリスク回避姿勢の強い経営に変わってしまった」と「失われた30年」の日本企業全体の姿を解説している。バブル崩壊や金融危機の心理的な傷は、日本企業の漂流をもたらしたことになる。日本におけるバブル崩壊、そしてソ連邦の崩壊は「アメリカ型資本主義の勝利」となり、「アメリカ流に従うことが正しい道ではないかという方向感覚を無自覚のうちに多くの日本人に植え付けた」と言う。

「投資の過剰抑制という大きな間違い」――。ケインズの「投資をするかどうかを最後に決めるのは、アニマルスピリッツだ」を紹介し、「まさにこの30年間の日本企業の歴史は、アニマルスピッツが湧き上がるような楽観がなくなり、新しいことを興すという動きが衰えた歴史だったのではないか」と言う。それは政治も同じだろう。このリスク回避の姿勢は、人材にも響く。「人材育成のための投資は、単に研修とかリスキリングだけではない。実は、設備投資を勢いよくやる、海外へ思い切って展開する、そうした投資の実行現場でヒトが育つのである」と言っている。納得する。伊丹さんは1987年に「人本主義企業」という本を出し、日本企業の成長の背後には「ヒトのネットワークを大切にして、そこに成長の源泉を求める」という原理を示したが、「しかし2010年代の日本企業では、人本主義は死んだ、と結論しなければならないだろうか」と、日本企業の経営の間違いを示す。そして「設備投資を抑制してまで、さらには労働分配率をかなり抑制してまで、配当を増やし続ける必要があるのか、日本の中小企業は決してそうではないのに」と言い、「そうなってしまった基本的な理由は、官主導のコーポレートガバナンス改革(2015年には、コーポレートガバナンス・コードの発表義務の制度化)の流れとそれを利用した株式市場でのアクティビストの動きだろう」と言う。銀行があてにならなくなり、株式市場が資金調達の場として機能せず、配当のみならず自社株買いという形で株主への資金返還の場となっていると指摘する。

「投資抑制と配当重視が生み出す負のサイクル」――。その投資抑制の犠牲者が、日本の半導体産業であり、リーマンショック後の電機敗戦の伏線となったと言う。日本は「従業員主権第一、株主主権第ニ」の経営をずっと行ってきたが、特にリーマンショック以降に「株主第一、従業員第二」に変わってしまった。従業員主権から漂流してしまったのだ。本書では、「従業員主権」経営で成長するキーエンスを紹介している。確かに凄い。「人本主義経営」の良質な実践例だ。そこで貫かれる経営は「従業員主権経営は、株主を無視する経営ではない。従業員中心の経営をすることで経営成果が上がり、それによって株主が株価の上昇で潤うという経営」なのである。配当が少なくても、株主はキャピタルゲインを得ることができる、かつての日本企業の姿である。

「歌を忘れたカナリヤ」――「日本企業が忘れた歌は、経営の原理としての従業員主権と投資の大きさの確保(と投資によるヒトの論理の駆動)」であり、心理萎縮と原理漂流の負のサイクルからの脱出の方途を示す。日本には「ひと配慮・ひと手間」という社会の質の高さがあり、ポテンシャルはある。「ガンバレ、日本企業」と声援を送っている。


hatibyou.jpg清々しい青春小説ど真ん中。「何か意味がなくても好きなことに打ち込むということが、どうしても書きたかった」と著者が言っているが、その通りストレートに伝わってくる。

あの輝かしい春高バレー。その県予選の直前、明鹿高校バレー部2年生の宮下景は、高校のフェンスを乗り越えようとしていた女性を目撃、驚いて自転車が転び右足を痛める。女性は同級生の真島綾だった。それを隠したまま翌日の練習試合に臨んだ景は最終セットで足首靭帯を損傷、試合に出れなくなる。準々決勝で強豪の稲村東高校に惨敗する。景に代わって出場したのは、中学からのチームメイトで、退部を決意していた北村走一だった。

クラスメイトの話によると、真島綾は美術部に所属し、有名漫画雑誌「月刊ブレイブ」で、史上最年少の新人賞を受賞した女性だという。

春高バレー予選が終わり3年生は退部、バレー部は新体制となる。松葉杖も取れ動けるようになるが、なかなか調子は戻らない。新主将の塩野透、副将の尾久遊晴、チーム仲間の伏見梅太郎、辻谷恭平(マリオ)らの思いも交錯する。辞めるつもりであった北村も、景に代わって出るようになり、意欲を取り戻す。一方、真島綾はその後の作品が作れず、悩み続けていた。

「少しは自分に責任があるんじゃないか、って感じなかったかよ?」「俺たちが稲村東にぼこぼこにされてるとき。負けたとき。三年生が、遊晴が、俺が泣いてたとき、お前はどんな気分で見てたんだよ」と梅太郎・・・・・・。「私、罪を滅ぼしたいって思ってる」と真島綾・・・・・・。

そして八秒の意味。「笛が鳴ってから八秒以内にサーブを打たないといけないってルール」とだけ思っていたが・・・・・・。冬の合宿で、春高バレー直前の稲村東と練習試合をすることになって・・・・・・。

あぁ、青春時代。何かに打ち込み、悩み、淡い恋。現役医大生が描く真っすぐの青春小説。


sengonihonshi.jpg「占領期から『ネオ55年体制』まで」が副題。憲法をめぐる対立に着目して戦後政治80年をたどり、日本政治の現在地を見極める。そこに見えてくるのは「ネオ55年体制」だと言う。昨年5月発刊の本。

「戦後70年談話」の際、「現在の日本の国の形は占領期に作られた」と安倍総理と話したことがある。憲法も自衛隊も税制も、そして沖縄も。本書では、「占領期7年間の『革命』」「非軍事化・民主化改革を日本に施した」として、特に「新憲法制定と農地改革の意義は格別に大きい」としている。そして「小作農の割合は全体の26%から6%へと激減。この『革命』は、農村での左翼政党の浸透を抑え、後の保守党による一党優位体制の確立に大いに寄与することになる」と述べている。「全面講和と片面講和」「改憲・自主防衛派と護憲・非武装中立派と、どちらの立場も採らない政府(吉田首相)」はその後、ずっと日本政治の底流を形成した。

「社会党統一と保守合同」によって、自民党と社会党が対峙する「55年体制」の構図が確立する。その保革対立の頂点が60年安保だ。そして、その保革の対立・分断を「資本家階級と労働者階級の対立としてのみ理解するのは単純化しすぎ。自民党は集票面では、小規模自営商工業者や農民の旧中間層を基盤とし、50年代の社会党は、ブルーカラー労働者だけでなく、都市高学歴層あるいは比較的所得の高いホワイトカラー層(新中間層)から多くの票を得た。新旧中間層の政治的志向の違いは、階級利益というより、両集団の文化、あるいは価値観の違いに基づくもの。旧中間層の自民党支持は保守的、あるいは伝統主義的価値観による部分が大きい。新中間層は革命を求めたからでは無論なく、自民党の逆コース志向を嫌ったためと考えられる。都市高学歴層は、他の階層に比べ近代主義的価値観を強く持っており、自民党の伝統主義的イデオロギーに違和感を持っていたのである」と分析をしている。

本書では「6080年代の政治を『実質的意味の55年体制』と呼び、5593年の期間を指す『形式的意味の55年体制』」と区別している。6080年代は55年体制的な特徴がよく現れており、特徴は野党の多党化、根強くも形骸化した保革イデオロギー対立、利益政治の全面化だとする。90年代には、利益政治に伴う政治腐敗、野党の断片化を一因とする政権交代の欠如といった55年体制の弊害に社会の厳しい目が向けられるようになる。

本書は「戦後憲法体制の形成」「55年体制――高度成長期の政治」「55年体制――安定成長期の政治」「改革の時代(55年体制の崩壊、政界再編、非自民連立政権、政治改革関連法の成立、自民党改革派政権の誕生)」「『再イデオロギー化』する日本政治」「『ネオ55年体制』の完成」の6章を立てる。学生時代からある意味、政治に関わってきた私として、一つ一つ実感を持って頭を整理した。そして今の現在地――「第二次安倍政権発足後、多くの選挙と政党再編が行われてきたが、結果としては、一党優位化と与野党第一党のイデオロギー的分極化が進んだ形となった。つまり、政党間競争の構図という点では、日本政治は一周回って(改革の時代を挟んで)元の55年体制に似た形に回帰した。与野党第一党の立場を分かつ中心的争点が憲法問題――特に9条と、現実の防衛政策の整合性をめぐる問題――であることも変わっていない」と、巨大与党と中小野党(特に野党第一党)が憲法・防衛問題を主な争点として対峙している状況を指摘する。55年体制から「改革の時代」を経てたどり着いた政治システム、それを著者は「ネオ55年体制」と呼んでいる。何を変えなくてはならないか、根っこを見つめなければならない。私が今感じるのは、政治への熱量の桁はずれの少なさだ。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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