kyakkann.jpg「その考えは客観的なものですか」「エビデンスはあるのですか」「「数字で示してもらえますか」――現在の日本社会では「客観性=数字=良い」との考え方が蔓延している。客観性・数値への過度の信仰だ。著者は「客観=真理というのは錯覚だ」「量的研究も研究のセッティングで恣意的なのだから、どっちが正しいとは言えない」と言う。

面白い話が出てくる。私たちは子供の頃から点数に基づいて競争を強いられている。しかしフィンランドでは「良い学校ってありますか」と質問すると「家から一番近い学校」と言われたと言う。「点数の高い学校に受験生が殺到するのではないか」と言うと、「それは他人の点数だ。しかも平均点だ。英語と数学の平均点を出して、何が出てくるのか。自分が何を学びたいかが重要だろう」と、「『良い偏差値』は多数の人のデータからなる統計で、自分の成績とは関係がない」と言うのだ。しかし、私たちは常に数値で比較され、競争を強いられ、序列化されているのが現状だ。それが生きづらさを生み出し、「普通」の圧力となり、社会規範に従順になることが合理的という「従順な若者」を生み出している。数字に支配され、社会の役に立つことを強制される。

そこで大事なのは、全体ではなく「個別の経験」。数値に支配された世界は一人ひとりの個別性が消える社会であり、客観性と数値に価値が置かれ、個別の経験の生々しさが忘れられがちであるゆえに、「一人ひとりの語りと経験を尊重する思考法」が大切となる。

ヤングケアラーについても一人ひとり違う。客観的データは結構だが、「客観的な視点から得られた数値的なデータや一般的な概念は、個別の人生の具体的な厚みと複雑な経験を理解して初めて意味を持つ。数値的なデータの背景には、人生の厚みが隠されているのだ」「生々しさを救い取ること、生き生きとした、生々しさ、切迫した経験こそが、受け手を触発するのだ」と言う。「一人を大切に」「大衆とともに」の公明党の精神をさらに現場で具体的に行うことが大事だとつくづく思う。客観性に対しての「経験の生々しさ」だ。

100人いれば、100通りの考え方がある」ということはわかりながらも、「客観」「標準」「数値」「普通」が時には圧力となる。「私ががんになったという偶然は確率の問題に見えるかもしれません。しかし、重要なのは『あること』も『ないこと』もあり得た『にもかかわらず』、けれど、私はがんになってしまったということ。・・・・・・偶然として感じる事柄の実態。『にもかかわらず』私が『ある』こと、これが私たちの存在の不思議であり、九鬼が原始偶然と呼んだものだ」「統計学とは、世の中が偶然の出来事で満ちていることを認めた上で、『偶然を飼いならす』ための学問だ(科学哲学者のイアン・ハッキング)」「経験の生々しさは、偶然性やリズムといったダイナミズムに現れる」と言う。そして「客観性と数値化への過剰な信頼が、経験の生々しさを消してしまう」がゆえに、「経験の内側からの視点」が大事であると指摘する。いつの間にか統治する側の視点に立って語ってしまうのは、国家権力等の論理に思考を乗っ取られてしまっていることだ。我々は一人の市民なのだから、自らの生活の実感からあるいは近くにいる家族や友人の視点から、社会課題を考えることが大事なのではないか。それが「一人ひとりの個別の経験」の視点にこだわることの大事さだ。多くの社会科学は、客観性を重視するがゆえに、困難の当事者に外部からラベルを貼って説明するが、弱者や差別された人の当事者の経験を可能な限り尊重することが重要だと言う。そして「他者の言葉と経験を尊重すること、そして他者を尊重する態度を尊重すること、このことは根本的な倫理的態度となる。現象学的な態度は、根本において倫理へと導かれるのだ」と、現象学の倫理を語る。「フッサールとメルロ・ポンティからインスパイアされつつ、私たちのグループが自分たちでデータを取りながら自力で進めている生き生きとした現象学実践のことである」と、その実践を開示している。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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