1773019774472.jpg「音楽は、国境を超え、時を超え、人と人とを結び、命のただ中に光を灯す。このゆるぎない信念こそが、私を今日も指揮台ヘと立たせるのです」――。クラシック音楽の本場、ヨーロッパへ乗り込み、オペラの聖地、イタリアを拠点に活躍するマエストロ吉田の勇気と情熱と力の感動的な人生物語。

「日本人初」ばかりだ。2007年ローマ歌劇場カラカラ野外劇場にて日本人初のオペラ指揮者としてイタリア・デビュー。2010年、プッチーニ・フェスティバルで日本人で初めてブッチーに作品を指揮。2014年ボローニャ歌劇場フィルハーモニー芸術監督に就任、250年の歴史を持つイタリアのセリエAクラスの歌劇場を母体とするアジア人初のオーケストラ芸術監督に就任。ボローニャ歌劇場主席客演指揮者を経て、現在、モデナ・パヴァロッティ歌劇場フィルハーモニー音楽監督、ウクライナ国立オデーサ歌劇場主席客演指揮者。

あのコロナ禍で大変な状況にあったイタリアボローニャの病院や教会に音楽を届け、2023年、戦火に覆われるウクライナのオデーサで空襲でリハーサルを遮られながら、満員の観客のなか指揮棒を握る。演目は、ブッチーニ「ラ・ボエーム」。「舞台上ではオーケストラ、歌手、コーラス、ソリスト、子供役に至るまで全員が命を燃やすかのような熱意を繰り広げた」「(兵士が)明日、戦地へ戻ります。最後に、美しい音楽を聴けたことが何よりの幸せでした」・・・・・・

そして20252月、リハーサルのためにボローニャを発ち戦火のウクライナ入り、3月、ついにウクライナ国立オデーサ歌劇場オーケストラの日本公演(神奈川、神戸、北見)を実現させる。クラウドファンディングなどで自前の資金調達で。その情熱と強い意思に頭が下がる。「戦時下のウクライナ 魂の音楽よ、日本に届け」だ。

「高校の吹奏楽部部長時代、小澤征爾との出会いと衝撃----『素晴らしかったです。僕は、指揮者になりたい』」「指揮科の学生として――東敦子との『ラ・ボエーム』----音楽はただ美しいだけでなく、人の心を揺さぶり、物語を生き生きと描き出す力を持つ、それこそがオペラの真の魅力だと気づいた」と言う。

「本当に一流を目指すなら、熱中できるものにかけ、外に出て刺激を受け、舞台経験を積み重ねなければなりません。楽譜を家で読み込むだけでは、世界に通用する音楽家にはなれないのです。チャンスは待っていても訪れません。自分の足で動き、求め、掴みに行くものです。そして何より大切なのは『自分もかくありたい』と心から理想とする人物に出会い、その姿に学びながら、自らの舞台を重ねていくことだと思います」と語っているが、「ヨーロッパで『本物』と出会い」「イタリア、ローマで日々を送り」「イタリアオペラに賭ける日々を送り」「日本とイタリアを架ける」という情熱の日々が綴られている。直接、その魂の音楽に触れてみたい。 


1773019458283.jpg「江戸から令和の迷信と日本社会」が副題。今年は丙午。60年前の1966(昭和41)は本当にガクッと人口が減っている。団塊ジュニア世代は、1971年(昭和46年)~1975年 (昭和50年)で人口増となっているが、その前の丙午の時だけ136.0万人で、前年比でなんと46.3万人減。たった1年だけ丙午の迷信で減っているのだ。

「丙午の女性は、気性が激しい、7人の夫を食い殺す、嫁ぎ先に災いをもたらす・・・・・・」は、なぜ起きたのか。はじまりは八百屋お七。江戸期最初の丙午は1666年(寛文6、八百屋お七はこの年の生まれ。彼女の犯した天和の大火(1682)はお七16歳の時だった。井原西鶴の「好色五人女」(1686)で扱われ、坂本冬美の「夜桜お七」に至る。

その次は享保の丙午(1726)、夫を次々食い殺すという俗説で、「丙午の女性は再婚を繰り返す」という風聞が、ちょうど川柳が流行って次々流された。そして次の天明の丙午(1786)は、大飢饉の中にあり、次子以降は子流しや間引きの口実に使われた。弘化の丙午(1846)、明治の丙午(1906)も迷信が、社会通念、社会常識が草の根まで広がり、婚姻、出生両面にわたって明確な実態を持つようになったと言う。

明治の丙午は日露戦争直後で多く生まれたが、女児の届出操作がかなり行われたと言う。ちょうど経済も悪くなる昭和の初めに結婚期にあたり、縁談が破れ自殺が相次いだと言う。結局著者は、「迷信が拡大したのは、男尊女卑、儒教的家族観に基づく封建制度の旧来秩序、すなわち家父長制を維持する働きを持っていたためだ」と言う。

さて昭和の1966年の丙午・・・・・・。「前年からの過熱報道(週刊誌なども)」「第一子が多い(第二子の出生がずらされた)」「苦しんだ前の世代がまだ生きていた」「主な手段は受胎調節」などを指摘。「このときの想定を上回る大出生減は、計画出産の合理性と、受胎調節の正しい知識が、密かに浸透していたところに、それを試みる絶好の契機として、『ひのえうま』というメディアトレンドの注目キーワードが『降臨』したためにもたらされた現象だった」と言う。

しかし、この丙午の女性は、財前直見、小泉今日子、松本明子、鈴木保奈美、斉藤由貴、秋篠宮紀子妃、酒井順子、国生さゆり・・・・・・。活躍しており、しかも人数が少なく、高校・大学受験も有利で、大学就職期は就職は絶好調の時代で恵まれた。後の世代の就職氷河期の人とは全く違う「バブル世代」である。

まさに「禍福は糾える縄の如し」。「令和のひのえうまでは、大規模な出生減が生じる可能性は極めて低いと断言できる」「もはやひのえうまの出生減すら起こせないほどの少子化状況にあるということを図らずも描き出している」と結んでいる。 


1772607119258.jpg歴史家では語れない生々しい感情・主張の込められた濃密な書。安倍官邸で内閣官房副長官補、国家安全保障局次長として重要な役割を担った兼原氏と対中外交に人生を捧げてきた前中国大使の垂氏の日中近現代史。「日中は隣国同士。日中関係、米中関係を安定させ、台湾有事の勃発を防ぎ、アジアの平和と繁栄を守ることは、今世紀前半の日本の最す重要課題である」「近代以降の中国の歴史は、日本からの広範な影響抜きに語ることは考えられない。特に辛亥革命の主人公たちは、ほぼ全員が日本に滞在したり学んだりしており、その母体となった団体(中国同盟会)も東京で設立されているほどだ。・・・・・・しかし、中国では、こうした日本からの広範な影響や交流の記憶は漂白され、自国中心主義のプロパガンダに置き換えられてしまっている」と言う。「日中の歴史を相互影響を与え合った一体のものとして見る」との視座だ。

「日清戦争と日露戦争」――。「海からの脅威に気づいた李鴻章」「三国干渉は李鴻章が仕組んだが、『なんでこんな島(台湾)に関心があるのか?』と言った」「日露戦争での日本の勝利と科挙廃止が同じタイミング(日本に学ベの機運)」「アジアの平等な連帯を目指した頭山満らの玄洋社(アジアの近代化、アジア主義)・・・・・・。植民地が世界に広がる中でのアジア。戦後70年談話の冒頭に兼原氏が触れている(世界中の植民地支配は悪だった、と言い切っている)

「孫文と袁世凱」――。「孫文、宋教仁らを支援したが、外交的資産になっていない。日本外交には昔から戦略的思考がない」と嘆く。「外交は表も裏も使う連立方程式(加賀の前田、真田家)、まさに戦略的思考」「正統政府と付き合うばかりが外交じゃない。動乱期には幅の広さを」と言う。

「盧溝橋事件が、中国共産党を救った」――。「戦う国民党、逃げまくる共産党」「蒋介石は抗日よりも共産党征伐を優先すべきだと行動していたが、盧溝橋事件で『抗日』を優先せざるを得なくなった」「日本の自滅が蒋介石を助けた」「日中戦争を『世界戦争』にした日本」・・・・・・

そして戦後。大躍進政策の失敗、文革、米中国交正常化、日中国交正常化・・・・・・。そして「日本をモデルにした改革開放」を語る。さらに「戦略的互恵関係と尖閣問題」――。歴史的経過を流れの中から詳述する。緊迫の連続でもある。

「台湾有事よりも恐れるべき『平和的統一』」「香港の本当の問題は、民主化ではない」「習近平の中国」の各章で現在の課題を抽出している。「ここで求められるのは、過去の教訓を踏まえた戦略的思考だ。そうでないと日本は、米中という超大国の狭間で翻弄され続ける」「長期的戦略的視野を欠いた外交は、短期間で場当たり的な対応に終始することを、過去の歴史は静かに教えてくれている」と日本外交において欠如してきた戦略的思考の重要性を語っている。


1772605269524.jpg「箱根駅伝のケニア人留学生」が副題。山梨学院大学のオツオリは1989年から、ステファン・マヤカは1993年から――もう30年以上前かと感慨深い。最近の東京国際大学のヴィンセントやエティーリ・・・・・・。箱根駅伝、ニューイヤー駅伝、高校駅伝などで異次元のスピードで走り抜けるケニア人留学生ランナーたち。彼らは一体、どんな環境の中で育ち、なぜ来日し、どんな気持ちで生活しているのか。その姿と背景を、ケニアに何度も足を運び、多角的な視点で明らかにするノンフィクション。

駅伝を走るケニア人ランナーの素顔。「エティーリの実家で、(現在の400万円の豪邸の奥に)古い掘立て小屋を見せてもらったとき。ジョセフの家族が貴重な鶏をさばいて私を迎えてくれたとき。カロキが街の人々に声をかけられ、その都度立ち止まって、会話を交わす姿を見たとき。日本で見せる走る姿とは異なる、一人ひとりの生活を感じられるようになった」----。「エージェントと呼ばれる仲介業者たちが、ケニアの才能ある若者たちを発掘し、日本の高校や大学、実業団に送り込む。学生であっても、事実上の給料として金銭を受け取り、『仕事』として走る『走り屋』という職業の従事者たちだ」「走ることが単なるスポーツではなく、生きるためのテクニックであり、家族を救う手段であり、貧困から抜け出すための可能性にかけているのだ」----。世界の主要大会での賞金、アメリカの大学チームへの所属、そして日本の駅伝の存在は最も安定性があると言う。今、日本で走るケニア人ランナーは、ざっくり150人を超えると言う。

このスカウトシステムのルートを開発したのはカメラマンとして潜入した小林俊一。あのタンザニアのイカンガー、ケニアのワキウリを引っ張ったのが小林だ。北京五輪でマラソン金メダルのワンジルも小林がエージェントだと言う。もう一人の日本人がランナー育成の世界に足を踏み入れた丸川正人。「幻の名門校『ガル高校』」は、出生届すらないこともあるケニア事情がよくわかる。

一方、受け入れた「日本人監督の葛藤----山梨学院、仙台育英、世羅、神村学園」などの苦労。受け入れ、学業のある留学生、勝てば勝ったで反発・・・・・・

「尊敬される町の兄貴分のビダン・カロキ(世羅高校、SB食品を優勝に導く)」もあれば、「24歳でこの世を去った金メダリストのワンジル」もあり、駅伝スターの「その後」の明暗を語っている。

なぜ中長距離界でケニアは強いのか、強くなったのか。そこには高地トレーニングだけではないものがある。著者は陸上の聖地「イテン」とその有名キャンプに潜入する。ケニアの田舎町にあるとは思えないほどの洗練された空間。商業化する「キャンプシステム」と「商品化するランナーたち」を紹介する。「勝たなければ、結果を出さないと家族を養えない」の中で、禁止薬物に手を出す姿が浮き彫りにされる。

著者は最後に日本の外国人に対する偏見や差別に触れる。留学生ランナーによって、高校駅伝などで大逆転があり、その非難の矛先が留学生や関係者に向けられることへの危険性だ。入管の留学生受け入れ審査の厳格化が、留学生ランナー受け入れに影響のあること、歪みをもたらすことを危惧している。「メリットだけを享受し、デメリットは受け入れないというのは、あまりに都合が良すぎる」と、外国人排除の感情的な結論に飛躍してしまうことの問題。まさに留学生ランナーを通じ、社会全体に関わる問題提起をしている。


1772155251241.jpg夫と離婚しスーパーのパートで働く女性・榊冴子、52歳。ノッポで、猫背で人付き合いが苦手。実家とは折り合いが悪く、いつも弱気で「スミマセン」が口癖。オバさんになったら、もっと図々しく、怖いもの知らずになれると思っていたが、全然。仕事でもいまだに誰かに怒鳴られたり馬鹿にされたり5円玉を投げ付けられたり、スミマセンを連発しながら生きている。ある日、レジで迷惑客を撃退するど派手なジャージを着た72歳の毒舌女性に遭遇する。この女性の正体は? なんと山田グロリアという名の凄腕の殺し屋だった。これが誠に痛快。ストレスを抱え続ける女性たちの鬱屈を吹き飛ばす。

「私、今からでも強くなれますか?」――冴子は老人ホームで働いているグロリアに弟子入りする。そこには、チーム殺し屋があった。そんな時、高校時代の同級生、ただ一人仲の良かった朝美に出会い、夫の直樹から精神的虐待、DVを受けているとの相談を受ける。スパルタ訓練を受け見違えるようになった冴子は、親友を救うために立ち上がる。また実家では、母が認知症になるや、父と兄がおとなしい冴子にその介護を押し付けようとする。

「カスハラ」「モラハラ」「介護は娘に」・・・・・・。「殺し屋」に鍛えられた冴子は、啖呵を切る。「舐めてんじゃねえ」・・・・・・。その鮮やかな豹変ぶりが実に痛快。

これまでひたすら「〇〇なんだから我慢しなさい。女の子なんだから、男の子なんだから、子供なんだから、若いんだから、大人なんだから、いい歳なんだから」・・・・・・。いつもみんな我慢、我慢の我慢大会。確かにそうだ。ちゃんと怒ることの大事さ。「今まで長いこと、50年以上、怒らなきゃいけないタイミングは山ほどあったはずなのに」・・・・・・。「しょうがない」の呪縛から立ち上がれ! 面白すぎるアクションスリラー。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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