赤ちゃんをわが子として育てる方を求む.jpg「急告! 生まれたばかりの男の赤ちゃんを我が子として育てる方を求む 菊田産婦人科」――。昭和48年4月17日、地元・石巻の朝刊2紙に掲載された広告だ。「実子として」と書くところを、「我が子として」と遠回しにして表現したもので、違法の「斡旋」をした産婦人科医・菊田昇が、悩み抜きたまりかねて出したものだ。「妊娠8か月以上の女性には出産してもらって、その赤ん坊を不妊症の夫婦にあげて実子として育ててもらう」「中絶を望んでもそれができない段階の女性と不妊症の夫婦をつなぎ合わせることで赤ん坊の命を助けられないか」「妊娠7か月の中絶を禁止すれば、医者が産声を上げた赤ん坊に手を下す必要はなくなる」「今回の問題の根本にあるのは、産婦人科医が違法行為をやらねばならねえ状況にあるという現実だ」・・・・・・。1970年代に起きた産婦人科医・菊田昇の「赤ちゃんあっせん事件」の真実を、ノンフィクションの騎手・石井光太氏が、小説として描いたもの。

新聞のスクープ、テレビ報道、国会への招致、日母からの除名処分等々のなか、菊田昇は母が営む遊郭で育ち、遊女の悲惨さを「小さな命を救う信念」に代え、闘い続けた。そして昭和62年(1987年)、「特別養子縁組制度」が成立する。それを菊田は自らのがんと闘うなかで聞く。


動き出した時計.jpg「ベトナム残留日本兵とその家族」が副題。1945年8月の終戦によって、日本軍は武装解除され引き揚げることになったが、ベトナムには少なくとも600人以上が帰国せず残留したと言われている。そしてその多くが、ベトミン(ベトナム独立同盟)からリクルートを受け、独立をめざしての抗仏戦争に兵士、軍事教官、軍医等で働いた。しかしこの戦いを終えた9年後の1954年、ベトナム政府は残留日本兵の帰国を促す。すでに家族がいたが、家族の帯同は許されなかった。そこには、東西冷戦、共産主義陣営の思惑もあったようだ。その後、帰った日本人兵士自身も苦難を強いられ、ベトナム戦争で敵国アメリカの同盟国と見なされた日本人を父親とする残された家族も「日本ファシストの子」と差別される日々を送ることになる。

「なぜ残ったのか」「なぜ1954年には家族を残して日本へ帰ったのか」の疑問を抱えつつ、小松みゆきさんは「引き裂かれた家族」の真実に迫り、救いの手を差し伸べるべく奔走する。自身がベトナムに住んで30年という。凄い、素晴らしい、粘り強い行動力だ。

ベトナムの人は「家族への思い、とくに父親への思い」が強い。しかし、思いが「出会い」に結びつくにはハードルは高く、帰った日本兵士の側も、苦しい事情があり口は固い。全てが、「戦争」によってもたらされたことを感じる。小松さんは私の世代、兵士たちは親や兄貴たちの世代だ。「理不尽」な運命をもたらした「戦争」を、自分の親を思い起こしながら読んだ。スアンさん、ロックさん、ズンさん・・・・・・。熱意が出会いの"形"となっていくのは感動的だ。


マンガでわかる落語.jpg春風亭昇太の弟子で、東大落研出身の春風亭昇吉が、「金明竹」から「初天神」までの50演目、古典落語のあらすじを、マンガを入れて徹底解説した落語攻略本。プラスして寄席の楽しみ方等を案内する。

「粗忽長屋」「時そば」「長屋の花見」「饅頭怖い」「目黒のさんま」「井戸の茶碗」「鰍沢」「ちはやふる」「たがや」「芝浜」「親子酒」「火焔太鼓」「厩火事」「寿限無」・・・・・・。いずれの「噺」も、江戸の町人文化の喜怒哀楽、人間のたくましさや意地やしたたかさ、人情が伝わってきて、面白い。たしかに「いますぐ寄席に行きたくなる!」・・・・・・。


イノベーションはいかに起こすか  坂村健著.jpg「AI・IoT時代の社会革新」という副題と、「第1章 なぜ日本からはイノベーションが生まれないのか」「第5章 いまこそ『変われる国・日本』へ」の表題で、本書でいわんとすることは明確だ。モノがインターネットにつながるIoT時代、そしてAIの時代。そこで大事なのは「オープンにつながる」こと。しかし日本は機器が作ったメーカーのアプリにしかつながらない「クローズ志向」。IoT化の核となるAPIのオープン化で初めてIoT対応機器となる。「イノベーションではチャレンジが必要。"絶対安全""絶対大丈夫"などということは複雑化した現代社会では無理だが、日本ではすぐ"誰が責任"とかになる」「日本は"変えることを恐れる"傾向が強い。責任感が強くて不安に弱い国民。ワクチンでも、接種した被害を過剰に捉え、何もしない傾向になる。法律も大陸法方式、やっていいことを書くポジティブリストの考え方で、それ以外はダメ。米国とは反対」「モノを売るのではなく、サービスを売る。IoTで機器がつながりサービスもオープンAPIで連携すればもう単なるIoTを越える」「重要なのは、技術の問題というよりどうシステムをデザインするか、そして社会のデザイン、会社のデザイン、生活のデザインをするか、という哲学。そこが日本は得意でない」「オープンデータ化で後れを取る日本。人が読む情報公開とコンピュータが読むのが前提のオープンデータは別物」「日本はいまだに政府も地方自治体もデータは紙ベース。紙もハンコも断捨離せよ」「日本の問題は技術ではない。リスクを取っても挑戦するというマインドセット、社会を変える勇気、覚悟だ」・・・・・・。まさに「手法でなくやり方レベルから根本的な変革を起こそうという姿勢こそがDXの本質」、その意味では新型コロナが強制的に「変わらざるを得ない」状況を作り出している、今がチャンスだという。

坂村健先生がけん引するINIAD(東洋大学情報連携学部)も視察し、この先駆的挑戦を体感した。まさに文・芸・理の融合、リカレント教育の必要・不可欠からきている挑戦だ。また歩行者移動支援、観光や災害弱者支援になる「東京ユビキタス計画・銀座」を視察、現場で説明も受けたこともある。坂村先生は1980年代からオープンなコンピューターアーキテクチャーTRONを構築し、このTRONは米国IEEEの標準OSに採用され、IoTのための組込みOSとして世界中で使われているものだ。デジタル化が全ての方面で叫ばれ、遅れている日本の変革が迫られている今、AI・IoT時代の本質を見誤らないように、そして遅れるな、変革できる、との指摘は重い。


孔丘  宮城谷昌光著  文藝春秋.jpg論語に描かれる"神格化"された孔子ではなく、不運や失意、失言や失敗もあった孔丘という人間の波瀾万丈の生涯を書いた大河小説。構想して20年、意を決して70代になった宮城谷さんが力業で書き上げた。「十五歳で学に志した孔丘は、休んだことがない。この死は、孔丘の生涯おける最初の休息であった」と結んでいる。「子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや――これが、いつ、どこで、いわれたのか、・・・・・・わからない」と「あとがき」で孔子を小説に書くことの難しさを語るが、私も宮城谷さんも、この言葉からとった時習館高校の同窓生、1学年違いだ。

「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」という言葉が、孔丘の人生そのものであることが活写される。父が孔丘三歳で亡くなり、母は孔家を去る。武勇を烈しく憎む母の本心、「十五歳になったとき、自分はけっして武人にはなるまい、学問で身を立てるべく懸命に学ぼう」という立志だ。三十歳を迎える時、「官から辞去し魯の曲阜に教場をひらく」ことを決断をする。妻は離婚を告げ、息子・鯉との対立が始まる。四十の不惑は「周文化がもっともすぐれていると確信したことにほかなるまい」。魯国から斉に亡命していた孔丘に「陽虎が内戦に敗れて、陽関の邑に逃避した」との報せが入る。「このとき五十歳の孔丘は、天に想像を絶する力があることを実感する」「斉を去り、魯に帰るべし。天が孔丘にそう命じている」と天命を知るのだ。「魯を文化国家にする。それを魯だけでなく天下の人々にみせる」――。しかし、理想の国づくりは困難をきわめる。そして再び魯国を去ることになる。五十五歳から十五年近くにわたる亡命生活があり、魯に帰国がかなうのは六十八歳であった。「六十歳の耳順は衛国の実情を観て大いに失望し、天命をより強く意識。どんないやなことでも、天が命ずることであれば順っておこなう」ことだという。七十歳は「自由自在を得たということであろう。・・・・・・七十歳でこういう心境に達した、という精神の推移を述懐したともとれる」という。

弟子との同志的結合には凄味がある。師弟は天の下での縁である。苦難に遭遇した時に発せられた言葉が「論語」となるが、それが苦難に直面する弟子にとって生き生きとした闇を打ち破る「希望」「光」であったことがよくわかる。机上の単なる名言ではないのだ。師弟の一体――仲由(子路)、漆雕啓、閔損、子説、顔回、冉耕、冉求、端木賜(子貢)・・・・・・。「いまだに孔丘の生年が確定しないのはふしぎであるが、非家の私としては、以前は信じなかった司馬遷の説を採って、孔丘が紀元前五五一年に生まれたとした。それが自分なりの割り切りである」(あとがき)を読んでも、いかに春秋時代の魯、斉、衛、宋、曹、鄭、周、晋、呉等々の攻防と人を調べ抜いて書いた小説かと、感動する。孔丘の人生の一本の筋がくっきりと見える。

<<前の5件

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任、公明党前代表。元国土交通大臣、元水循環担当大臣。

現在、衆議院議員、党全国議員団会議議長、東京第12総支部長、首都直下地震対策本部総合本部長、現代中国研究会顧問など。

太田あきひろホームページへ

カテゴリ一覧

最新記事一覧

私の読書録アーカイブ

上へ