sengokubusyou.jpg織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、松永久秀、石田三成の8人の武将をプロファイリングする。「八本目の槍」「じんかん」「塞翁の楯」「戦国武将伝(東西)」などの著作は、いずれも優れものだが、その小説の実際の人物像が描かれる。歴史上の人物は、どうしても勝者の歴史となり、面白く脚色され後世に伝えられる。この著作は真実の人物像に迫るだけに興味深い。

「織田信長――合理精神の権化」――。尾張という商業が盛んで経済的に発展した土地柄から、信長の合理的思考と判断能力が磨かれ、加えて父親の持ち続けたファイティング・スピリットが人物を形成した。既存の常識や慣習に囚われない起業家的発想。意表を突いた桶狭間の戦いもそうだし、比叡山焼き討ちもそう。発想も違い、方針転換もあり、仕事をしてないやつは容赦しないゆえに、裏切りや謀叛にあう「裏切られる男」でもあった。

「豊臣秀吉――陽キャの陰」――。「裏の汚れ仕事」で信長の期待に応えた。勤勉で地頭が良く、コミュニケーション力が抜群で、筆まめ。秀吉の乾坤一擲は、「金ヶ崎の退き口での殿軍」と見る。「家族愛」の暴走が豊臣政権の瓦解を招いた。

「徳川家康――絶えざる変化の人」――。織田の人質から今川の人質へと翻弄されたのは事実だが、「今川義元が竹千代を駿府に置いたのは、保護の目的があった(当時の三河は今川派と織田派が入り乱れる紛争地帯。幼い竹千代の命を奪い、自らが松平氏のボスになろうとしたものもいたはず)」「人質期間中に、臨済宗の僧・太原雪斎の英才教育を受けることができた」と言う。「20年間も信長と同盟を維持し続けた」ことは大きく、「信康と築山殿の処分について、私は家康が独自に動いたものと考えている」と言う。後継を関ヶ原の前に決めていた事は大きい。強運の持ち主。

「武田信玄――厳しい条件をいかに生きるか」――。「父・信虎による甲斐統一の地ならしは大きい(信虎の暴君のイメージは近年見直されつつある)」と言う。甲斐が平地が少なく厳しい土地柄である故に、信玄堤などを作り、平地のある信濃へ侵攻した。戦国武将中でも、屈指の教養。しかし、「後継を早く決めておかなかったことが悔やまれる」と言う。そのため勝頼は強さを見せるために焦った。

「上杉謙信――軍神の栄光と心痛」――。軍略に優れ、戦上手なうえに、信義に厚く、武田信玄も信頼に足る大将だと評価していた。父・長尾為景は越後上杉氏から実権を奪うが、越後には他の長尾氏がおり、関東管領の上杉氏も侵攻を図り、中越には、一向一揆勢が居座り、統治の難しい地域。豪胆な父・為景の下克上を受け、還俗した謙信(晩年の法号)(長尾景虎)は、越後の争乱を収束する。謙信には、領土拡大の野心がなかったところから「義将」と位置づけられる。室町幕府13代将軍・足利義輝から関東の鎮定を託される。謙信のしくじりは、武田信玄、豊臣秀吉と同様、後継者を明確に定めなかったこと。生涯独身だった謙信には実子がなく、景勝と景虎の2人の養子が家中を真っ二つにして争うことになる。

「伊達政宗――成熟への歩み」――。疱瘡により右目を失明した伊達政宗のコンプレックスを、臨済宗の僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)がすべての学問を教え支えとなる。父・輝宗の良き理解を得て、22歳で南奥州の覇者となる。ひどい母のように言われるが、本当は「子孫を愛する優しい女性だったことが伺える」と言う。「白装束姿で、小田原に参陣し、秀吉は喜んだとも伝えられるが、内心『ややあざといな』と受け止めたのではないかと思う」と言う。ヤンチャ、野心、奇想天外な発想と挑戦が成熟とともにうまく着地する人生だったようだ。

「松永久秀――なぜ梟雄とされてきたか」――。「じんかん」に描かれている。主君を殺し、将軍をも暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き尽くしたという悪のイメージの人物。しかしそれぞれには理由があり、「民を想う優しい人物だった」と言う。摂津の土豪とされる久秀が三好政権で活躍できたのは、三好長慶が、戦国大名の中で、革新的で柔軟な発想ができる人物だったからだ。久秀の能力を家格秩序に囚われることなく評価した。やっかみも多く、濡れ衣を着せられたが、「むしろ主家に対して忠義を貫いた」と言う。「天正3年――久秀にとって、許しがたかったのは、塙直政が討ち死した後、信長が大和支配を筒井順慶に任せたことだったと思う」と言う。

「石田三成――義を貫く生き方」――。「八本目の槍」は面白かった。理屈っぽく小賢しい策謀家・石田三成ではなく、情に厚い豊臣に忠義を尽くした「義」の人であることが描かれている。「三成の『義』が、三成を挙兵へと至らしめた。この『忠義に殉じる一途さ』『理の人でありながら、情義を重んじる人間らしさ』が三成の魅力であり多くの人の共感を得る要因になっているのかもしれない」と言う。三成の次男重成と三女辰姫は、津軽家に匿われている。「三成が生前、津軽為信に手を差し伸べた恩義があったため、津軽家は危険を顧みずに、三成の遺児を匿ったとされている」と言っている。

戦国の英雄8人をプロファイリング。語り尽くされた可能ある人物像を整理し分析してくれている。 


kosodate.jpg「非認知能力をはぐくむために何ができるか」が副題。現場での調査分析、エビデンスに基づくとともに、これまでの「子育て」についての世界の学術研究を踏まえた、極めて精緻かつ熱量溢れる著作。不確実な時代を生き抜くことができる子ども育てるために、これまでにわかっているエビデンスに基づく"確実な子育て"を詳述する。

子育ての目的は、子どもを自立させること。まず土台となるのは「アタッチメント」、安全基地の形成だ。アタッチメントが確立されて「自分が生きていてもいいんだ」という自己肯定感が醸成される。その土台を作ってこそ、その上に構築する認知能力も非認知能力(社会情動的スキル)が育つ。認知能力とは知能、知性、学力だ。認知能力が高いからといって、将来が保証されるわけではない。非認知能力は、具体的には「セルフコントロール(自分を律する自律)」「モチベーション(内発的動機づけ)(何のために生きるのか、使命は何か)」「共感力(他者を理解できる力)」「レジリエンス(逆境を切り抜けるしなやかな強さ)」だ。それらは互いに連関し、不確実な時代においてもたくましく生き抜く人間力、生きる力が育まれていく。そして重要なのは、これらは「健康・体力」があってこそできるということだ。子どもの成長に必要なのは3つの能力、「認知能力」「非認知能力」「健康・体力」であることを指摘し、子育てにおいて、特に育てるべきスキルを具体的に論述している。さらにこれらは「するべきこと」だが、「してはいけないこと」がある。それが「虐待・ネグレクト」だと言う。

子どもの成長は「遺伝子か環境か」――この分析は極めて精緻で面白い。「大雑把に言って、遺伝子の影響は約50%、個別の測定できない環境要因が約50%を占めている」となるが、「母親の遺伝子と子育て」「遺伝によって犯罪者になるか」「遺伝子―環境要因交互作用」などが分析される。しかし遺伝子は変えられない以上、子育てにおいて必要な環境要因を整えることが重要ということになる。

「アタッチメント」――。「2歳までのアタッチメントが、脳活動に重要な影響を与えている」「アタッチメントと甘やかす(過保護)とは違う。子どもが本当に求めてるものを感じ取り与えることが大事」「足立区の野菜から食べる『ベジファースト』や歯磨きを12回以上する要求は子どもの自己肯定感を高める」「愛情ホルモンのオキシトシン、やる気ホルモンのドーパミンが親にも子にも重要」と言う。

「セルフコントロール」――。「セルフコントロールの必要性とは、我慢する力をつけよではなく、自らを使いこなす力をつけよということ」「早い時期のセルフコントロールが将来にも影響する」「親の幸福度が高いほど子どものセルフコントロールが高い」と言う。「モチベーション」――。「マズローの欲求5段階説(土台として生理的欲求、上位の階層に承認欲求、自己実現欲求)は、実はモチベーションの説明である」「何に対してモチベーションを持つか――自分らしさとは、使命とは何か、が重要」・・・・・・。

「共感力」――。「共感力とはエンパシー。他者の気持ちを想像して同じように理解し感じること。自分の目線で同情するシンパシーとは違う。共感力はその人の目線で状況を理解し感じること」「読書、小さい頃から挨拶をさせること、学校やニュースの話をすること、運動習慣をつけることなどが重要」と言う。「レジリエンス」――。「親の幸福度が高い。親子の関わりが多い。運動をする。歯磨きを1回より2回する」などがレジリエンスを促進すると言う。とても興味深いことだ。

「健康・体力」――。身体と精神の相互交流に基づく頑健性とバイタリティーが体力だ。私が文科省と一緒に推進した「早寝、早起き、朝ご飯」が大事であると改めて感じた。

地域社会も含め、本書の指摘は、極めて重要だ。


otonagaehon.jpg「絵本は人生の心の友」「大人こそ絵本を」と言い、絵本の世界を積極的に全国展開してきた柳田邦男さんの2006年発刊の感動的な本。「優れた絵本は、50年、100年と経っても、新鮮さを失わないものだ」――それどころか、人生経験が豊かになるにつれて、より一層内容深く味わえるようになる。人間の生と死、自然とともに生きる「いのち」の素晴らしさ、愛と涙、見えない世界の奥深さ・・・・・・。心から感動し、思索する時間を得た。

「心が砂漠のように乾ききった昨今の日本の大人――絵本の力は一人の人間の人生さえも変え得るほど大きく癒され、今日の生きる力を取り戻したという人も少なくない」「絵本は『心の基礎体力』をつけるのに役立つ、とても奥行きの深いメディア」「絵本は絵と言葉が共鳴し合うことによって、奥行きのある立体的な世界を創るメディアである」「絵本は子どもに読み聞かせをする時と同じように、ゆっくりと感情をこめて音読し、言葉と絵を味わいながら、ページをめくること。いつも座右に置き、暗誦できるくらいくり返し読むこと」と言う。

「ケアする人、ケアされる人のために」――「眠れない長い夜をどう過ごすか。夜を寂しく辛いものでなくする、何か良い方法はないものか。それは絵本」「(明かりが消えた真夜中)、くらやみくん、きみはどこに行くの? 明かりがつくと、僕は見えなくなるんだ。でも、ずっとここにいるのだ」・・・・・・。死んだ人は今どこにいるのだろうと私もいつも思う。宇宙生命哲学の世界に誘ってくれる。ガス室に送られる前に、ナチス・ドイツ軍の敗退によって解放され生き延びることができたフランクルの「夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録」。フランクルは「人間が過酷な限界状況に追い込まれた時、心の平衡を維持し得るかどうかは、内面的な拠り所を持てるかどうかにかかっている」「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる――ここに――いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ」と言う。そして写真絵本「わたしの庭」を紹介する。絵本「葉っぱのフレディ――いのちの旅」では死を怖がるフレディに対し、親友の葉っぱのダニエルが教えてくれる。「死ぬというのも、変化の一つなのだから、怖がることはない。葉は落ちて朽ちても、木の根から吸収されて木を育てる。"いのち"は、永遠に生きているのだ――と」・・・・・・。柳田さんは生と死について、次々と絵本を紹介し、そして語る。

「絵本は魂の言葉」――「星の王子さま」は愛することと、生きることの悲しみについて語った本。ユングの「意味のある偶然」を語る。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」を引きつつ、「人間が生きるうえで、いちばん大事なもの――愛や、思いやりや心の絆や、心の持ち方、といったものは、モノとしては目に見えない。キツネの言うとおりだ」と語る。言葉のない絵本「アンジュール ある犬の物語」を取り上げ、「存在を無視されたものが求めるものはやさしい愛であることを語っている」と言う。育児放棄や虐待や親が子供と向き合わない日常を見ると、「バンサンの発するメッセージは極めて重要だ」と語っている。また「エリカ 奇跡のいのち」で「母の決心の瞬間を推測する子の想い」を語っているが、衝撃的だ。

「絵本の森を散策すれば」――「絵本や少年少女読み物をあらためて読むというのは、悲しみや喜びのきめ細かな感情を取り戻すこと、心の砂漠にオアシスをもたらすことにつながるはずだ」と、絵本が子どもの感情の芽生えとともに、大人に今必要であることを述べる。

最後に「絵本に月2000円を!」――「アフガニスタンの風景に魅せられて(『ぼくは弟とあるいた』)」「涙でできた憩いの池(『きつねのかみさま』『かたあしわだちょうのエルフ』)」「賢治・ゴッホと少年の心の旅(同じ37年の生涯だったゴッホと宮沢賢治の魂の振動と苦悩)」「戦場の中のサッカー・ゲーム(『オットー 戦火をくぐったテディベア』)」など素晴らしい絵本が紹介される。

本書では、感動的な80冊の絵本が推薦をされている。読みたくなり、何冊か注文した。ますます新鮮さを増す約20年前の著作。


fukuda.jpg「処世術から宗教まで」が副題。昭和51年(1976)~昭和52年(1977)までの1年の間になされた講演。63歳~64歳の講演だが、もっと年上だと思っていた。「戦後を代表する知識人である福田恆存は、近代化の弊害を問い続けた。その思想のエッセンスが詰まった伝説の『最後の講演』初の活字化」とある。

日本は西洋という異質の文明、文化を輸入し見事に適応した。それは「江戸時代という一つの立派な政治体制、社会体制ができており、素地ができていたこともあるが、成功を獲得するために『日本的なるもの(宗教でも長歌でも)』を潔く捨て去った。犠牲を払った」「日本の近代化は、分野ごとに進み方がデコボコで、精神の近代化は、うまくいっていない」「成し遂げたのは『西洋化』であり、機械化や合理化に過ぎない。組織化、画一化、制度化、官僚化だ」「近代化が進むと、人間関係は希薄になっていく。規則や風潮に乗っかる日本人。自己判断ができない、いい意味での個人主義が身に付いていない。昔の武士道には自己のことは自己が律する精神があった」「近代化に呑まれるな。個人が自立し、操る側にならないといけない」・・・・・・。

「人生は貸借関係。道徳論でいかないで、是非、処世術の問題からいった方が良い。若いうちは、観念的な理想に燃える。しかし燃えるあまり、自分が動いていると錯覚を起こす、あるいは自己欺瞞をすることが多い。それを避けるために、俺のやってることは全部処世術に還元できる、換算できると考えてみることだ」――。理想論や精神論に縛られず、政治も経済も社会も人生も、状況を深くリアルに読み、適応能力を訓練する。それを処世術と言っている。道徳(キレイゴト)を排し、自分のエゴイズムに沿った技術の問題に還元するのだ。現在の政治の迷走を見るときに、リアリズムとポピュリズムがわからなくなり、その波に翻弄される姿が浮き上がってくる。「政治は、庶民を幸せにする技術である」との恩師の言葉がよみがえる。

「苦しいときの神頼み」――。「弱者の悲鳴というものは、その人(子どもでも)が自分が弱いからあげる悲鳴である。それは人間の本当の悲鳴ではない。人間の悲鳴というのは、人間が、人間の限界に達した、それ以上に行こうとしたときに、出てくる悲鳴でなければならないはずだから、強者の悲鳴だけが、本当の人間の悲鳴になる。これはその人の個人の悲鳴ではない」「ホームドラマには悲劇はない。神というものは強者のみが知る。弱いことを特権とする人生観に立っていたのでは、神に近づくことはできない、あるいは感じ取ることもできない」「全部技術、人間が可能な技術という問題にして考えると、どうしても可能でないところにぶつかる。そうしたら、今までマイナス札ばかり集めたやつがいきなりプラスになっちゃうというカード遊びと同じように、そういう神が出てくることを今日お話しして――折り返し地点は、ここにあるんだと、裏返しするということ――それを申し上げたわけです」と言っている。

そして「戦後と戦前の違い」は、「自己絶対視ということが、だんだん戦後は強くなってきた。現代に理想を合わせたらいいんだということになる。むしろ理想はそのままにしておいて、現代を裁くという態度じゃなくなってくるんです。それは間違っていると思う」と結んでいる。

近代化論争自体がなくなり、情報過多、SNS時代、タイパ・コスパの時代、そして哲学不在の時代――。今新たに考えさせられる講演。 


saigyou.jpg「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月の頃」「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」――歌のみならず、その人間的な魅力が多くの人を引きつけてきた西行。藤原定家などと共に、新古今時代を代表する歌人、「新古今和歌集」では、藤原俊成、藤原定家などを上回る最多の94首が選入されている西行。桜の美しさを多くの人に伝え、「人生無常」の自覚を促し、それを乗り越える「道」があることを力強く示した西行。仏教と神道が共存する思想を推進した西行――。西行一筋60年、西行歌集研究の第一人者がその本質的姿を開示した素晴らしい著作。全国に散在する数百本ある西行歌集の写本や版木をほとんど全て閲覧・調査、約30年の歳月をかけて校本を作成仕上げた著者が、「西行を愛好する一般の方々に読んでいただけるものを」と執筆したのが本書だ。最善本とされている京都の陽明文庫に所蔵されている「山家集」の写本も、「陽明本の本文が誤っていると見なされる例は、全部で約200か所余りあることが明らかになった」と述べている。まさに西行研究の第一人者が、「184首の名歌」に現代語訳をつけ、「西行の魅力の全て」を語る著作。

「出家の背景」――待賢門院璋子(鳥羽天皇の妃、崇徳天皇と後白河天皇の生母)との悲恋、潔癖説や風流の道に心を寄せる数寄説等があるが、「ただ一つの理由によってというより、いくつもの理由が重なって実行された」という。

「西行と桜」――「西行においては、桜の花はほとんど恋人にも等しい存在であった」「ひたすら美を憧憬し、遥か遠くに思いを馳せる、いわば浪漫的精神とでも呼んでよいもの」「生涯を貫く西行の重要な性格の一部をなしている」・・・・・・。「西行と旅」――2度にわたる奥州行脚、西国・四国への旅、高野と都と吉野の往来、熊野、伊勢、難波への旅・・・・・・。「僧侶としては『修行』の旅。日常性の絆を離れ、常に旅の状態に身を置くことで、精神の自由を確保しようとしたのであろう」と言う。「四国の旅」――敬慕する崇徳院の御陵に参拝することと、弘法大師の遺跡をめぐることが目的。「崇徳院の悲劇は、白河法皇と鳥羽院の確執に源があった」。「雨月物語」でも西行と崇徳院の崇徳院の霊の邂逅が出てくる。

「平家と西行」――西行と平清盛は元永元年(1118)の同じ年生まれで、それぞれ北面の武士として旧知だった。「鴫立つ沢」――中世を生きる人間の孤独な魂を飛び立つ鴫姿に見て歌ったこの一首は、人々に深い共感を与えた。「神道と西行」――治承4(1180)に、長年活動の拠点としてきた高野山を去り伊勢に移住、118 6年に2度目の奥州行脚に出発するまで伊勢で足掛け7年過ごす。天台宗、真言宗(高野山を中心にして30年余りを過ごす)を学ぶが、この時代には浄土教が急速に浸透していた。伊勢だけでなく、西行の日本古来の神に対する信仰は極めて篤いものがあった。

「円熟」――文治2(1186)の秋、69歳の西行は奥州に向かい、藤原秀衡に焼失した東大寺大仏殿を再建するための砂金を勧進に行く。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山」と、現在の掛川市の坂道を通るときの感慨を詠んだという。また、この後の頼朝とのやりとりは面白い。「西行と定家」――「人生派、抒情派としての西行と構成派、唯美派の定家」として、対立的に捉えられることもある。小林秀雄が「無常といふ事」で、定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ」を酷評して、対立的に捉えている。しかし著者はこの歌の「墨絵のような情景に定家は深い感動を覚えたのである。いわば無の中に美を見出す日本独特の審美眼」と言う。そして「総じて定家は、西行の歌に対し、父俊成に次ぐ高い評価を下している。西行の歌を最高に評価している。深い理解と敬意がにじみ出ている」と言っている。しかも具体的に、西行の歌をあげながら述べている。極めて興味深い。

「西行から芭蕉へ」――芭蕉は心底から西行に傾倒していた。「奥の細道」の旅にも西行の歌の影響は色濃く投影している、と言う。

文化史の巨人・西行」――「人生無常の思いは、西行の歌に流れる通奏低音である」。末法の世に入り、人々の心の中には無常感が強くなっていた。その無常のなかに、それを乗り越える人間の完成への「道」を目指す。諦観の中に自由を得る。宇宙と自然の中で「諸法実相」の境地を得る。西行の生き方と哲学の魅力が改めて伝わってくる。「願はくは・・・・・・」の通り、「如月」で、今でいうと3月末の桜の咲く頃に西行は死を遂げる。 

<<前の5件

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

太田あきひろホームページへ

カテゴリ一覧

最新記事一覧

私の読書録アーカイブ

上へ