悲しみの底で猫が教えてくれた大切なこと.jpg私は「目に見えない縁とか、天の仕業を感じるようになって初めて人生を知る」「諸天善神に守られているという実感を得る人生でありたい」と思う。また「運は連鎖だ」と松下幸之助は言っている。

「ネコは、ごはんを何回食べなければ死にますか?」と、パチンコ店の前に置かれた一冊の「里親探しノート」の"ぎこちない字"から物語が始まる。五郎、宏夢、弓子、門倉たちの運命が動き出す。

「今生きていることは、奇跡なのよ」「今こうやって生きていること自体が『奇跡』なんじゃないかなって・・・・・・。会いたい人に会えることも、再開したいペットに会えることも、みんな『奇跡』なんだと思うの」「会いたい―― 一目でいいから、宏夢に会いたい――」「五郎ちゃん、俺・・・・・・生まれてきてよかったのかなぁ」――。その奇跡を黒猫のシロが起こし、縁の結び役になる。悲しみの底をさまよった人々に、猫たちが諸天となり、縁の結び役となり、大切なことを教えてくれた。猫も縁あって家族の一員となる。いや猫こそが、かも知れない。感動作。


地方都市を考える.jpg「『消費社会』の先端から」と副題にあるが、大都市の従属としての地方都市ではなく、大都市以上に地方都市が「消費社会」の先端にあると指摘する。問題意識は"人口減少・高齢化"とか"地方消滅"ではなく、より深く「わたしたちが幸福であるために、地方都市は本当に必要か」「わたしたちにとって望ましい暮らしは地方都市の存在と深くむすびついているようにみえる」「大切になるのは、地域に固有とされる伝統や、地方生活のたんなる経済的気楽さではない。それ以上に重要なのは、消費社会の浸透とともに、地方都市に私的な欲望の追求を肯定する場がますます拡がっていることである」という。

そこでY市を具体的にモデルとしつつ、「空き家問題」「都市の感覚水準――高層マンション(新しい設備を備えたマンション・家がほしい)」「鉄道」「自動車と街の更新」「メディアや観光やまちづくり」「ロードサイドビジネスやショッピングモールと消費社会」「ローカル経済」「流動化する労働」などを分析。地方都市の消費にかかわる多様な「現在」の姿をあきらかにしている。

「コンパクト+ネットワーク」「対流促進型国土形成」を考えてきた私として、現状を如実知見する考察は学ぶもの大だった。


花森安治の青春.jpgNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は、ヒロイン小橋常子が練り歯磨きを作って家族のために儲けようとするところに来ている。そのモデルは、戦後に「暮しの手帖」を立ち上げ、国民的雑誌に押し上げた名物編集長・花森安治と苦楽を共にした盟友・大橋鎭子だ。

花森安治は1911年(明治44年)、神戸に生まれ、神戸三中、松江高校、東大の美学に進む。デザイン、カット、挿画、キャッチコピー、文章、宣伝、編集――その卓越さは、生来のものに更に磨きをかけた比類なきものといえる。しかし、その人生はくっきりと戦前・戦後と分かれ、断絶と継続。その陰影が本書の「花森安治の青春」だ。背景には、戦争、言論統制、滝川事件・美濃部事件、そして赤紙一枚で招集されて受けた兵隊いじめの「なぐる、なぐる、なぐる」「貴様らの代りは一銭五厘で来る」との私刑の毎日がある。

「欲シガリマセン勝ツマデハ」「足ラヌ足ラヌハ工夫が足ラヌ」・・・・・・。大政翼賛会宣伝部時代、広告制作を担った宣伝技術家・花森安治は日本宣伝道を走ってしまった。そして「人間は戦争に反射し、発熱し、疾走する動物なのだ」「戦争が起こってしまえば・・・・・・、人は戦争に加担する動物だ。一生懸命やってしまう動物だ」と・・・・・・。

そして戦後、大橋鎭子と妹たちと「暮しの手帖」を立ち上げる。「女性が太陽の暮し。女性が真ん中にある暮し。それが続けば戦争は二度と起こらないはずだ」「女性が太陽の暮し。それを実現するための暮しの工夫や暮しの提案をしよう」「もう時代と並走するのはやめよう。これからは揺るぎない暮しを作っていくのだ」・・・・・・。そして花森安治の国への批判、反戦意識は強く、激しくなっていった。青春時代の筆舌に尽くせぬ苦しい体験、にがい体験と反省、「女性が太陽」に込められた思い等がケタ違いに深く、内奥に刻まれていたことが伝わってくる。


ロンドン狂瀾.jpg1929年7月、田中政友会内閣が、張作霖爆殺事件(1928年6月)の処理に失敗して総辞職、民政党の浜口雄幸内閣が誕生する。1927年3月の金融恐慌の始まり(東京渡辺銀行)、1929年10月のニューヨーク株式市場の大暴落(暗黒の木曜日)でいよいよ世界恐慌へと突き進む。一方、1928年8月にはパリで不戦条約が調印される。そして1931年9月18日、奉天の郊外・柳条湖付近で満鉄の線路が爆破され(満州事変)、暴走が始まる。

そうした世界の激動のなか、1930年1月からロンドンにおいて日米英仏伊が参加して行われたのがロンドン海軍軍縮会議だ。浜口首相、幣原喜重郎外相が、主席全権として選んだのが首相経験者・若槻礼次郎。拒む若槻を説得し、随員としてピタッと付いたのが雑賀潤外務省情報部長だった。米英列強との激しい攻防のなか、雑賀は激しくも巧みな外交戦を展開し、起死回生の案をまとめ、ついに4月には海軍軍縮条約の調印に迄もっていった。

欧米列強との激烈な攻防、日本国内での軍部との軋轢(随員のなかでも山本五十六ら)、浜口内閣の「緊縮財政」と「協調外交」の2大柱への批判――。それは「弱腰外交だ」「緊縮財政が日本経済にもたらしたのは景気悪化だ」、さらには軍令部の反対を無視して軍縮条約を調印したことは「統帥権干犯」であるとの犬養毅率いる政友会等の追及を浴びる。批准をめぐって、元帥・軍事参議官会議、枢密院の審査の関門はさらに厳しかったが、浜口、幣原そして走り回る雑賀はそれを突破する。「外交は、武器を使わない戦争だ」「交渉を決裂させてはならない」との気迫、そして「これほどの不景気となりながらも、国際協調と平和、国民負担の軽減を謳う民政党政権と、そのためのロンドン海軍条約の成立を大衆は支援した。とりわけ国民が信頼したのは、浜口首相その人の清廉さと不退転の意思であった」という。国民の強い支持あっての成果だ。

しかし、浜口首相は11月14日、東京駅で狙撃され重傷を負い、31年4月内閣総辞職、8月に死去する。若槻礼次郎が組閣するが、関東軍の暴走を収拾できず12月には総辞職。あとを継いだ政友会の犬養も32年5月15日、射殺される。「二大政党制」「国際協調」「緊縮財政」は急転し、日本は戦争へと進んでいく。本書は日本の分水嶺となった浜口内閣の2年弱と最重要案件のロンドン海軍軍縮会議を緊迫感をもって描く。


狗賓童子の島.jpg幕末を、松江藩の圧政下にあった日本海に浮かぶ隠岐「島後」から、じつに綿密に描いた重厚な書。時代の激流に離島であるがゆえに翻弄される島民。しかもその地に、大塩平八郎の挙兵(天保8年、1837年)に連座した西村履三郎の息子・数え15歳の常太郎が流人として到着するところから物語は始まる。

救民の旗を掲げた大塩平八郎の挙兵だけでなく、「江州湖辺大一揆」「福知山大一揆」の関係者・杉本惣太郎や豊之助も加わり、「数万の農民を凶作と苛政の塗炭の苦から救う」「義に斃れることを栄誉と信じ、誓って奸吏を退ける」という義挙が、底流に流れ続ける。

島民は激動にさらされる。「世間は"御一新"などともてはやしていたが、やはり何ひとつ変わっていなかった」「無能で怠惰な郡代や藩役人個々を追放したかったのではない。島民が、自ら生きることのできないような治世の仕組みそのものを拒否し、それを追放しようとした」はずなのに、島民の苦難は少しも変わらない。しかも島内は「出雲党」だの「正義党・尊攘派」などと敵視しあう緊迫した状況まで生まれる。

医師となった常太郎の「維新政府なるものに対する失望ばかりが募っていた」「31年前、父履三郎が大塩平八郎とともに挙兵したのはいったい何のためだったのか」との思いは、時代を超えて続く。「民の憂い募りて国滅ぶ」「民の欲する所 天必ず之に従う」ということだ。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任、公明党前代表。前国土交通大臣、前水循環担当大臣。

現在、衆議院議員、党全国議員団会議議長、東京第12総支部長、首都直下地震対策本部総合本部長、現代中国研究会顧問など。

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