「南洲翁遺訓」の刊行は明治23年1月。戊辰戦争において西郷隆盛の寛大な処置にふれた荘内の人々が、礼と指導を仰ぎに次々と鹿児島を訪れる。そこで西郷隆盛の大きな人物と教えにふれ、感動をもって書き遺したのがこの「南洲翁遺訓」だ。酒井玄蕃は名高いが、とくに菅実秀と門弟等によって集録、篇纂。西郷の賊名が除かれたことを契機に明治23年1月刊行となった。
感ずるのは、人間の思想的骨格の太さ、ゆるぎなさだ。当時を反映し儒教等がその中核を成しているが、死線をくぐり抜け、維新回天の大偉業を成し遂げただけに、実践知、まさに知識・見識・胆識、まさに胆力を伴った見識が滲み出る。第21章、第24章にある「敬天愛人」――。「道は天地自然の物にして、人は之れを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給うゆえ、我を愛する心をもって人を愛する也(第24章)」。「君子と小人(徳が才に勝る者と才が徳に勝る者)」「講学の道は敬天愛人を目的とし、克己を以て終始せよ」「命ちもいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」「道に志す者は、偉業を貴ばぬもの也」「平生道を踏み居る者に非れば、事に臨みて策は出来ぬもの也」「誠はふかく厚からざれば、自ら支障も出来るべし(誠というものは深く厚く)」――。西郷南洲の大きな人物像、その仁徳、豊かな庶民的人間味、私に堕せず道に生きる、処分(対応力)・実践の人、「敬天愛人」の人間学が表出する。