「人生はマラソン」「マラソンが人生」――。金栗四三はまさに「走って走って走り抜いた」人だ。日本人として初めてオリンピックに参加した二人のうちの一人。1912年のストックホルム大会。クーベルタンが日本人選手の派遣を、高等師範学校校長の嘉納治五郎に要請、金栗はそこの学生であった。国家主義への傾斜に落胆していたクーベルタンが、スポーツによる平和と友愛の涵養をめざし、「和」の国・日本の参加を求めたという。
「消えたオリンピック走者」と副題にあるように、金栗は日本からスウェーデンに行くこと自体に悪条件が重なり、当日の暑さもあり、意識が朦朧となって26.7キロ地点で脱落する。ペトレ家に助けられたが、感動的なことは1967年、ストックホルムからオリンピック55周年行事への招待が金栗に寄せられたという。
1912年、帰国後の金栗はそれこそ走りに走った。箱根駅伝(2004年から最高殊勲賞として金栗四三杯が授与されている)、福岡国際マラソンなども金栗の奔走によるものだ。それ以上に、現在のマラソン、長距離走の発展の起爆力はまぎれもなく金栗四三だ。「道をつくった男」の偉大な人生を描く。