
「女の学校」では、若い娘が島を出る、家を出ての長い旅の習慣が出てくる。宮本常一の「忘れられた日本人」にも描かれる世界だが、背景として渡辺京二の「逝きし世の面影」にふれている。
「平田篤胤と片山松斎」では平田の「霊の真柱」について「この本は実にばかばかしいものである」「日本尊しの狂信」とし戦時教育において行われた「日本は神の国である」などの源流を解き明かしてくれる。
「ラバウルの戦犯裁判」では、戦後裁判がアジア各地で行われ、いかに戦後が苦しみのなかにあったか、丁寧に調べて、息苦しいほどだ。
「閔妃殺害」は1895年、まさに日清戦争の時だが「日本・朝鮮・清・ロシア」の支配の背景を抉りだしている。
「昭和十年代外地の日本語教育」も侵略と統治を考えさせられた。日本(人)は、どうもイデオロギー、思い込み、思考停止、に走ってしまう。一つ一つ現場を、文献等を、そして聞き、歩いて、積み上げて、物事を全体的に、また内から把握することがいかに大事かを思い知らされる。