オルテガの大衆社会論と、ウェーバーの官僚論がまず提起される。「官僚の反逆」とは、オルテガの「大衆の反逆」をもじっている。オルテガの大衆批判は辛らつを極めるが、今なお鋭い。オルテガのいう大衆とは「個人としての特定の意見をもたず、附和雷同、大勢に流される人間」という。一方で「エリート、貴族とは決して現状に満足することなく、より高みを目指して鍛錬を続け、常に緊張感をもって生きている存在」であり、オルテガ大衆社会論に依れば、当然ながらエリートは大衆に嫌悪されることになる。この困難な道を引き受けて進もうとすれば、官僚バッシングを蒙ることになるが、その道を逃げれば(エリートからの逃走)凡愚に屈する大衆的人間となり果てる。
ウェーバーは、官にも民にも及ぶ近代社会の「官僚化現象」――「官僚は規則の拘束の下で職務を執行し、"非人格的"な没主観的目的に奉仕する義務を負う」「そのためには批判基準の定量化・数値化や、主観的価値判断・感情の排除が随伴する」ことを示す。人格的、主観的な「政治」とは対極に位置する。
私自身が長く意識してきた「大衆社会論」「ファシズム論」には、1930年代のオルテガ、ウェーバー、ホイジンガ、アドルノやベンヤミンらのフランクフルト学派、その後のE・フロム等が常に基底にあった。
本書では、70年代頃から日本の大衆社会化が顕著になり、80年代には決定的になったと見る。「政治の上に立つような"国土型官僚"は60年代までは多数存在したが、70年代には"政治的官僚""調整型官僚"が優勢となり、80年代にはそれとは全く異なる"吏員型官僚(非政治的な官僚)"が現われるようになった。それはウェーバーが抽出した官僚像だ。90年代にはグローバル化の進展とともにその官僚制的支配の拡大が顕著になる」。そして「非政治化・官僚制化による自由民主政治の破壊」となると指摘。
現代社会は、オルテガの大衆社会化状況、ウェーバーの官僚制化現象、ホイジンガの小児病化が顕著になっている。そして中野さんは、リーマン・ショック、ユーロ危機、日本の失われた20年等で、官僚制的支配の破綻が明らかになった今、「自由民主政治」を復活させなければならない。「政治とは何か」を考え、「政治主導」なる意味を真に蘇らせなければならないという。