「俺はいつまでこんなことをしているのだろう」「俺は誰と、何と、戦っているのだ」――。秀吉の朝鮮出兵の濁流に飲み込まれる日本、朝鮮国、琉球国。島津の侍大将・大野七郎久高は、朝鮮国に攻め入る尚武を誇る島津の先兵となりながらも心に空洞をもつ。儒学でいうように「人は殺戮の禽獣でよいはずがない」「"天地と参なるべし"――人は天地と並び立つ崇高な存在たりうる」との思いを抱き、その境地を求めながらも戦乱の渦中に巻き込まれていく。
蹂躙される朝鮮国と琉球国。明鏡は朝鮮の被差別民である"白丁"の身分から脱しようともがく。儒学を教える道学先生との出会いと「師弟の精神」は明鏡の未来を拓く。そして琉球国の官人で"唐栄"なる集団に属し、密偵の任に携わる真市。文禄・慶長の役という理不尽きわまりない戦乱、阿鼻叫喚のなかで、3人の男が心奥からの葛藤を抱え込みながらも生き抜く姿、矜持を描く。
カギとなっているのは儒学の「礼」。国家に閉じ込められるアイデンティティ。そこから3人は脱出しようとし、「礼」に漂着する。それが本書の最後、「お待ちしておりました、島津の御大将。ようこそ、南海の勝地、守礼之邦へ」「久しぶりだな、禽獣」として示される。そして「たとえ天地と参なりえずとも。禽獣であろうと何であろうと。人が天地の間で尽くした思いや営みは、決して砕けず、褪せぬ煌めきを生むのではないか。天地に燦たる煌めきを」と結ばれ、昇華していく。権力者の誤った選択のなか、業火に焼かれる男たちはいかに折り合いをつけようとしたのか。悲惨な時代であればこそ哲学の意味が浮かび上がる。