幕末の盛岡藩内――。京の都や江戸市中が、攘夷と開国、尊皇攘夷、勤皇だ佐幕だと激動するなか、盛岡藩では貧困と重税にあえぐ百姓が頻繁に一揆を起こしていた。藩財政の逼迫、一揆への弾圧、藩の重商主義対緊縮策の対立と反目、更なる不満の暴発と藩は揺れに揺れ、お家騒動を惹起した。百姓にも心を寄せた若き藩士・楢山茂太(後の佐渡)であったが、ペリー来航以来の日本の激動の渦に巻き込まれ、盛岡藩をカジ取りをする中心者に押し上げられていく。
官軍に抗する奥羽越列藩同盟。「列藩同盟の諸藩はいずれも尊皇の心をもっております。同盟するは、薩長の横暴に抗するため。薩長こそが奸臣、朝敵である」――。しかし、次第に切り崩され、盛岡藩は秋田の久保田藩に攻め込み、賊軍の汚名を着せられることになる。最も危惧した薩長が牛耳る世の濁流に飲み込まれ、その責任を楢山佐渡は一身に負うことになる。大罪人となって盛岡に護送された楢山佐渡を鞭打ちどころか、侍・民百姓は手を合わせ涙をもってその駕籠を迎えた。
「花は咲く 柳は萌ゆる春の夜に うつらぬものは武士の道」――辞世の句である。時は移ろっても武士の道は変わらぬと読めるが、「時は移ろっていくのに、なにゆえ武士は変わらぬであろうという厭世の気持ちを歌いました」と佐渡に言わせている。政を司る者の時代の先を観る眼、高潔な心、決定する覚悟。そして戊辰戦争とは何であったのかを楢山佐渡の生死の様をもって突き付けている。