614ny+-cfKL__SX336_BO1,204,203,200_.jpg江戸時代の末期、九州の豊後・日田の豪商・広瀬家の8男として生まれた儒学者・漢詩人の広瀬旭荘。長兄が詩人として著名な広瀬淡窓、家業を継いだのが兄・広瀬久兵衛。淡窓は温和で平明な詩を作ったが、旭荘は才気横溢の詩を作ったといわれる。旭荘の詩を斉藤松堂は「構想は泉が湧き、潮が打ち上げる様、字句は、球が坂をころげ、馬が駆け降りる様。雲が踊り、風が木の葉を舞き上げる様だ」と評したという。しかし、旭荘には情があふれる一方で、胸の裡にいつの間にか憤懣が溜まり、炎が吹き荒れ、苛立ちのあまり妻を打擲。はじめの妻は、去ってしまう。悔恨と自己嫌悪をもつ旭荘の下に2度目の妻・松子が来る。松子は、激情にかられ暴力を振るうこともある旭荘の心の奥底に優しさのあることを感知し、支え続けた。葉室麟の描く、至高の夫婦愛は心に激しく迫る。

旭荘の生きた時代は、幕府の衰えに天変・大火・飢饉が加わる不安定な天保、そして激動の幕末。日田を拠点としつつも、上方へ、江戸へと旭荘の舞台は移る。そこで遭遇する大塩平八郎の乱(天保8年、1837)、蘭医・緒方洪庵の滴々斎塾、田原藩・渡辺華山や高野長英らの逮捕(蘭学者を弾圧した蛮社の獄)、禁令が頻発される水野忠邦の天保の改革とその挫折・・・・・・。それらは旭荘の人生に直接、影響した。

「ひとは才において尊いのではない。人は慈しむ心において尊い」「ひとはおのれが手にしているもののことは思わず、持っていないもののことばかり考えてしまうようだ。わたしは、そなたを娶れて幸せであったと思っている。ほかの女人のことを考えたことはない」「わたしは妻のことだけを案じて泣く小人なのだろうか」「ひとりを懸命に救おうとするひとが本当に多くのひとを救えるのではないかと思う。ひとりを救わずに多くのひとを救うことはできないのではないでしょうか」「旦那様、話を聞かせてくださいまし・・・・・・桃花多き処是れ君が家 晩来何者ぞ門を敲き至るは 雨と詩人と落花となり」・・・・・・。松子の思い出を書いた「追思録」を旭荘は晩年に至るまで手元に置き続けたという。追悼 葉室麟。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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