松永弾正久秀(1508年~1577年)、大和国の戦国大名――。「将軍・足利義輝殺害」「仕えた主家殺し」「奈良東大寺の大仏殿焼き払い」という人がなせぬ大悪を三つもやってのけたといわれる戦国の梟雄。信長に二度従い、二度謀反した稀代の極悪人ともいわれる男だ。その松永弾正久秀とは何者だったのか。
天正5年(1577年)、天下統一に突き進む信長の下に「松永弾正謀叛」の報せが入る。二度目の謀叛という信じ難い報せに、信長は少しも慌てず怒りも見せず、笑みまで浮かべたという。そして信長は小姓・狩野又九郎に、久秀本人から聞いた九兵衛と呼ばれた幼き頃よりの壮絶な人生を語り始めたのだ。
この世に放り出された孤児。幼き子ども同士の結合。主君・三好元長との出会い。そこで聞いた高邁な志「あるべき者の手に政を戻し、二度と修羅が現われぬ世を創るのだ。民が政治を執る」「堺の自治。人間の国を取り戻す」「戦が無くなり、武士を悉く消し去る」――。噂話の軽薄さで動かされていく世間。神や仏のエセ権威に逃げ込む人間の浅はかさ。「永禄の変の将軍義輝殺害の後に信長がもらった弾正からの初の書状――。信長はいう『思わず笑ってしまった。嬉しくてな。』『世に神はいない。当然仏もいない。それらは人が己の弱さを隠すため生み出したまやかしである。神仏がいないのに、どうして人に過ぎぬ将軍如きに阿らねばならない。将軍の権威なるものもまた、人が生み出した紛い物だと存ずる・・・・・・』という書状だった」・・・・・・。
悪名の噂が支配する理不尽な世間。それが人と人とが織りなす「人間(じんかん)」のこの世だ。久秀は弁明する道も迎合する道もとらなかった。"夢を追う道""己に正直である道"を選んだのだ。「人は己の一生に正直になればよい」「俺はつくづく人の縁に恵まれた男よ」と思ったのだ。自分を悪者にしても、恩を受けた三好家を守り、助けてくれた良縁の人々を助け、民を思い民を信じ、その正義を貫こうと思ったのだ。戦国の確執の二次元平面ではなく、時代を超えた異次元たる出世間の境地から戦国の黎明期を疾駆した。信長との共鳴盤が鳴らないわけがない。そんな松永弾正久秀が活写される。面白い。