昭和史の本質.jpg「良心と偽善のあいだ」が副題。「国民の九割は良心を持たぬ(芥川龍之介)」「自己ハ過去ト未来ノ一連鎖ナリ(夏目漱石)」「森林太郎として死せんと欲す(森鴎外)」「吾生の曙はこれから来る(島崎藤村)」「山椒魚は悲しんだ(井伏鱒二)(身の丈に合った国づくり)」「お父さんを呼び返して来い(菊池寛)」「風立ちぬ、いざ生きめやも(堀辰雄)」「夜の底が白くなった(川端康成)」「などてすめろぎは人間となりたまひし(三島由紀夫)」「私は何故か涙ぐんだ(泉鏡花)」「痰一斗糸瓜の水も間にあはず(正岡子規)」・・・・・・。西欧を受容して走った日本の近代、戦時下社会、昭和の戦争、敗戦とともに始まった戦後民主主義――。日本人は、どこで何を間違えたのか。昭和は何を間違えたのか。近現代の作家や評論家の作品中の一節を抜き出して、それを手掛かりにして日本近代、昭和史の本質を剔り出したユニークな試み。味わい深く、考えさせられた。

「戦後の、裸の王様たちよ――体がゆらゆらするのを感じた(開高健)」――。近代日本の最大の偽善とはどのようなものか。たとえば戦後のある時期に良心的だと評された教育評論家や新聞記者。戦時下で徹底した皇国史観の教育を行ったり、軍の提灯記事を書き、敗戦と同時に反省をする。そして戦争に反対する教育現場の先頭に立ったり、民主主義万歳の新聞を発行する。どんな時代になろうと常に「正義派」の側に位置して生きていく輩。「表向き誰も反対できない。しかしその言い分はまさに裸の王様ではないか」「戦時下社会は分析すればするほど、偽善が横行していたことがわかる。負けているのに勝っているとの国家的キャンペーンから日常のモラルまで、その全てが偽善化していた。その結果、どうなるのか。麻痺状態になるのである。客観的判断が失われ、主観的願望が社会の常識となる。まさに妄想性人格障害そのものの症状になっていく」「戦争に負けるというのは自己否定と考えていたのだ。自分が全否定された時、人は泣く以外に方法はない。なんのことはない。自立精神に欠けているという意味になる。もう一つは、戦争に負けるというのは自分たちの作ってきた神話が崩れるということだ。この場合の神話とは、不敗日本、神国日本、世界に冠たる帝国、そんな神話がまるで根拠もなかったと実証された。現実を知るのが怖いのである」「再び作った神話とは、経済大国日本という語に仮託されている日本人の団結力とか英明さである。やがてそれが思い込みと知った時に・・・・・・」「男子が本当に泣かなければいけないのは、信念のために生きる姿を見た時だ」「日本軍の軍事指導者は、日本文化、日本の伝統("戦"は存在しない)に対する背反者であり、無礼極まりない粗忽者である。・・・・・・痛切に思うのは、先達の残した文化的遺産を己が身に徹底してたたき込むことである」という。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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