「関ヶ原の戦い(慶長5年9月15日)」を一次史料を駆使して新進気鋭の執筆陣が最新の研究成果を示す。すると、「家康の小山評定」や「小早川秀秋への問鉄砲」などが、どうも怪しいことがわかる。歴史文書を残すということが、自らの人生や一族にとって不利か有利か、二次資料等は"勝者の歴史"となりがちだということだ。歴史研究はそうしたこともあって難しいし、面白いといえるだろう。
徳川家康(水野伍貴著)、上杉景勝(本間宏)、伊達政宗(佐藤貴浩)、最上義光(菅原義勝)、毛利輝元(浅野友輔)、石田三成(太田浩司)、宇喜多秀家(大西泰正)、大谷吉継(外岡慎一郎)、前田利長(大西泰正)、長宗我部盛親(中脇聖)、鍋島直茂(中西豪)、小早川秀秋・黒田長政・福島正則(渡邊大門)、そして「関ヶ原の戦いの従来のイメージの打破」「近衛前久書状」について白峰旬氏。14武将が描かれる。「関ヶ原」については、越後から会津へ移封された上杉景勝に対して最上・伊達との"北の関ヶ原"である「慶長出羽合戦」があること、そして家康と西軍の三成、大谷吉継、さらに宇喜多秀家、長宗我部盛親は勝敗がはっきりしているが、他の武将も関ヶ原の後、大変な激震に見舞われたことがよくわかる。「東軍が最終的に勝利をつかんだのは、小早川秀秋、黒田長政、福島正則の力なくして語れない。しかし、その後の命運は大きく違ったのである」と結ばれているが、小早川秀秋などは1602年には"酒の飲みすぎ"で20才で死亡している。
「豊臣七将による三成襲撃事件も一次史料にはない」「小山評定における福島正則の大演説は作り話」「石田三成と大谷吉継の"友情物語"は根拠がない」「小早川秀秋への"問鉄砲"はフィクション」「直江状はあったが"家康への挑戦状"と評される内容ではなかった」「政宗は秀吉への思いをもちつつ、家康の時代を認めた」「輝元は"お飾り"にはほど遠い独自の思惑で戦いに加担する"野心家"だった」「三成は福島正則が味方すると想定したことが誤算で敗因」「鍋島直茂の処世術」「抜け駆けを許した正則(井伊直政、松平忠吉)」・・・・・・。
イメージが先行、定着している「関ヶ原の戦い」も、史料に即してみると今も動いている。
今後20年、世界は「米中冷戦」「AI・IoTなどテクノロジーの加速化」を基本構造として激しい競争になる。経済ツールを活用して地政学的国益を追求するエコノミック・ステイトクラフト(ES)の応酬の時代が既に開始されている。「平和構築を錦の御旗に自国が優位となるルールを打ち込み合う経済安全保障の戦いが始まった」「自国経済の繁栄を目指した戦いは、技術、資金、人材の奪い合いであり、これを有する企業の競争優位の奪い合いが主戦場となる」「従来の競争相手は経営者同士。しかし今、競争相手の企業に国家が政策的後ろ盾を与える。もしくは企業の競争力を削ぐために想像を超える制裁を科すなど、競争への国家の関与や競争のルールを国家が革新することによって自国企業の優位を確実なものにする戦いだ」と、今後の世界の激震に国家が、企業が、どう勝ち抜いていくかを、さまざまな角度で指摘する。新興技術によるイノベーション、そのルール形成能力、そしてサイバーセキュリティをめぐる競争、産業競争力に直結するセキュリティ・クリアランス等々について実践的に論及する。
「国防権限法 米国が放ったルール形成戦略」「エコノミック・ステイトクラフト時代の幕開け(株価を下落させて買収、借金漬けにしてインフラ要所の獲得、データ異常を生じさせるサイバー攻撃)」「ES時代に不可欠な国家経済会議機能(日本のNSCに経済班、米国のNECの進化、日本版NEC創設の提言)」「米国防権限法が求める経営改革(日本企業はインテリジェンス機能という新たな慣行へシフトできなければ中長期的にグローバル成長力を失う)」「中国による一帯一路とルール形成」「欧州の経済安全保障戦略(EUの安全保障環境の構造変化、日欧の連携と構想力)」「新たな競争軸となるサイバーセキュリティ」「産業競争力に直結するセキュリティ・クリアランス(ゼロデイ情報の重要性、競争力に直結するSC制度=セキュリティ・クリアランス制度、参考にすべき豪のSC制度)」「ESG投資と監査に必要とされる安全保障目線(日本に呼び込むべきESG投資、問われる各国の経済安全保障政策への対応力)」「米中冷戦を梃子に市場を切り開くルール形成(米空母カールビンソンの港等のリスクシナリオ)」「産業競争力保全に必要な政策」「インクルエンス・オペレーションと産業スパイ対策(日本ゆえにコンサルティング業界に必要な業法)」「非ハイテク領域を定義するルール形成の必要性(環境問題解決にならないEV、EV化で弱体化する日本経済、非ハイテク市場化の可能性)」・・・・・・。
大きく変わり動いている世界と経済と企業、そして経済安全保障の最先端を開示する。
27年前の1994年4月29日、東京・奥多摩町の北氷川橋で女性2人が身を投げ、死亡する。大田区のマンションで同居していた私大時代の同級生だと報ぜられた。恩田さんは「2人は何者だったのか。なぜ死んだのか。ずっととげのように心に刺さっていた」という。このことを題材にした小説だが、「女性2人の日常を描くパート『1』」と「真相を探る小説家の『0』」とが交互に述懐するという類例のない構成、手法となっている。胸中の赤裸々な独白が続く不思議な面白さと新鮮さをもつ小説だ。
「なぜ2人は飛び降り死んだのか」――。「同性愛の辛さ」とか「1人が病気となるなど生活の行き詰まりと世をはかなんで」というのは、あまりにも陳腐な決めつけではないか、という。2人の生活は、かっちり歯車が噛み合い互いに助け合いつつも過剰には踏み込まないとしてきたが、どこかで軋みが生じたのか。「日常→平凡→平穏」な日々だったと思われるが、何がいったい2人の「日常」を断ち切るに至ったのか。小さなさざなみ、ちょっとしたアクシデント、微妙に移り変わる力関係が、小さく小さく灰のように降り積もり、時間の底に沈黙するが、「ただちょっと疲れちゃった」というような絶望なのか。老いと疲れ、究極の大事業である死と心中理由の多様、善悪・是非の二元論ではない生と死のあわいの世界を、小説家「0」と同居していた2人の女性「1」と作者の恩田さん自身が入り込んで描く。