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貧しい浪人から儒学の道に入り、甲府藩主だった徳川綱豊に仕えることになった新井白石(16571725)5代将軍綱吉の死後、1907年、藩主綱豊は6代将軍家宣となり、白石は御側用人の間部詮房に請われ、政治顧問として権力の中枢に身を置くことになる。幕政に主導的に関与し「正徳の治」を取り行う。家宣の死後も、4歳の幼君・ 7代将軍家継を間部とともに支え抜く。庶民の怨嗟の的となっていた綱吉による「生類憐れみの令」の恐怖政治を覆し、武家諸法度の修正、財政・貨幣制度の改革、伴天連シドッチの尋問、朝鮮通信使接待の簡素化、長崎貿易の見直しなど、辣腕を振るう。儒学を進講する立場や政治的顧問というよりも、学問を現実の世に役立てたいと「天下有用の学」とし、「天下を経営するに足る心構えと理論」を行ずる政策立案者であり実行者であった。綱吉の政治の弊を一掃しようとしたが故に、林大学頭や悪質貨幣をばらまいた勘定奉行・荻原重秀ら多くの敵を呼び起こす。聡明な将軍家宣が健在であればこそ、新井白石は自由に改革を推進できたが、家宣が死を迎え、幼少の家継も8歳で急逝、8代将軍吉宗の世となって白石の居場所はなくなってしまう。「再び市塵の中に帰るべし」――その新井白石の激しくも覚めた知性の生涯を抑制的な筆致で描いた名作。

「もともと市井の一儒学者だった白石は、たまたま出会った間部、家宣に見込まれ権力への階段を上っていった。自身望んだことでは無いにせよ、学者では知り得ない世界を味わった。・・・・・・白石は権力の快さということを思い出していたのである。我が意見が天下を動かしていると感じたときの快い昂り。その地位に上ったものでなければ理解できない権力の快さは、白石のような人間にも、ひそかに沁みわたる毒のように時折り訪れる感情だったのである」・・・・・・。権力の中枢から全てを奪われ、「市塵」の中で生きる白石の等身大の姿が描かれる。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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