nanyouno.jpg「あんたらは、パラオ人だけじゃなく、世界中の有色人種に希望を与えたんだ。非欧米圏の人々にエレアルを示したんだ。そのことを忘れるな。誇りを取り戻せ」「日本人は貧乏だったかもしれないけれど、精神は立派だったと僕は思っている。誇り高く生きることを僕らに教えてくれた。僕は日本人に謝罪なんて全く求めない」「日本人は一般に、自分たちの植民地経営が欧米のそれとは違うと自負してきた。欧米人はただ自国の利益のために植民地を利用しようとし、現地の人々の幸福など顧みないが、自分たちは植民地の人々も『天皇の赤子』と考えて統治を行うのだ、と。実際、台湾や朝鮮でも、教育水準や衛生水準の向上、食糧増産、産業発展等のために多額の投資を行ってきた。・・・・・・島民たちは日本国籍を持たないけれども、学校や病院を作り、発電所を立て、あるいは産業指導を行うなどして、あらゆる面での生活の向上が目指された」「パラオに来たスペイン人も、ドイツ人も、島民を家に入れませんでした。ご飯を一緒に食べるなんてことは、あるわけもないです。彼らにとって、島民は動物と同じ・・・・・・でも日本人は」「おばあさんこそ、日本人です。日本人の中の日本人です。人種や民族の違いにかかわらず分け隔てなく家族として受け入れ、がんばりなさい、胸を張りなさい、あきらめてはいけません、一生懸命やりなさい、と励ます人です。君のお母さんは、僕らニ人が協力して、よき南洋のエレアル(明日)をつくることを期待していた」・・・・・・。太平洋戦争の最中、パラオ諸島には多くの日本人が家族共々住んでいた。そこで育ったニ人の少年が、残酷な戦争を経て、約40年後再び出会う感動と涙の物語。

昭和17年のパラオ・コロール島。小学校教員である宮口恒昭の長男・智也は、パラオ人の少年・シゲルと親友になる。「男に七人の敵あり」「やむにやまれぬ大和魂」でシゲルを守ろうとした「南洋神社の決闘」からだ。しかし戦争は悪化し、南の島々は次々に陥落。「太平洋の防波堤」としたパラオ諸島も、大空襲に見舞われる。太平洋戦争のなかでも、ペリリュー島とアンガウル島の戦いは、小島におけるものであり、かつ、日本軍守備隊の圧倒的劣勢にもかかわらず、特筆すべき激戦となった。「陽がのぼるたびに、死体の数は増えていく。焼け焦げ、腐った屍の上に、また焼け焦げ、腐った死体が重なる。そしてしまいには、この島は屍と、それに群がる南風蠅で埋め尽くされることだろう。そのようなことを思いながら、恒昭は昏睡した」――。軍人はもとよりすべての民が悲惨な死を遂げた。必死に抗戦、助けようとする住民。智也の母が亡くなり、戦争に召集された恒昭も重傷を負い生死不明。戦争の悲惨さに心が潰される思いだ。これがあの戦争だったのだ。そのなかでの智也とシゲルのひたむきさがつらい。

そして時は流れ、昭和63年末、パラオ共和国独立準備のため、シゲルは訪日する。「自分の知る日本人は今とは違っていたように思う。もう少しゆったりと構え、弱い人を助けることを励まし、我欲のために粗暴な振る舞いをすることを恥じ、戒める日本人はどこに行ったのか」「どうして日本人は謝ってばかりなのか。どうして、日本人は自分たちの文化や歴史を誇らしく思わないのか。どうして言うべきことを、堂々と言わないのか」と思いながら、宮口家の人々を探すのだった。そして智也と会う。
戦争の悲惨さと残酷さ、日本人とパラオ人の歴史と心の交流を、ニ人の少年の純粋な心を通じて描く感動作。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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