内心被爆.jpg東日本大震災から10年になる。福島原発事故で放射能に怯え続けた相双地域。南相馬市は、原発の20km内の小高区、30km内の原町区、その外の鹿島区に分かれ、「警戒区域」「緊急時避難準備区域」「非避難区域」として3区域別々の原発被害対策をとらざるを得ず、退避も補償も別々となった。それぞれの地域住民の不安・戸惑い・不満は想像を絶するものがある。本書の副題は「福島・原町の10年」――。この間、原町区の人々はどう生きたか、4つの家族を取り上げたドキュメント。「懸命に生きる」「一所懸命に生きる」「皆で力を合わせて共に生きる」姿には感動する。それに比して「政府とか東電とかのいかにも遠い」こと。この10年も今も放射能に怯え続けた苦悩が胸に迫る。「コロナ禍の東日本大震災から10年」は、その心からまず考えるべきだと思う。

第一章「終戦記念日」は、相馬地域の創価学会婦人部のリーダー松本優子さん。「"自主避難""屋内退避"と言われてもどうすればいいのか」「学校の再開もできない現実」「放射能の危険と圧倒的情報不足」などの大混乱のなかでの闘いの実態。「外部被曝と内部被曝という言葉があるが、南相馬の人間はみんな一人ひとりがあの原発事故が深い"内心被曝"を受けたと思う」という。第二章の「未来の扉」では、㈱北洋舎クリーニング社長・高橋美加子さん(中小同友会相双地区会長)の闘いを紹介する。「南相馬からの便り」を発行し、「"ありがとう"から始めよう! つながろう南相馬」の運動、「鎌田實講演会(歌・さだまさし)」「ファシリテーション運動」「世界一のエコシティの建設」など走り回る。第三章「ほめ日記」は卒寿を迎えた羽根田ヨシさん、息子の妻・民子の看護師(鹿島厚生病院)としての"野戦病院"さながらの闘いを描く。原発事故で医療現場は大混乱、高齢者が亡くなっていく姿は深刻。放射能に怯え、ストレスの重なる浜通りで、6年間も住居を転々とし帰還した羽根田ヨシさんの「ほめ日記」は元気を与えた。復興はこうした庶民一人ひとりの "負けまいとする心" あってのことだ。上がやったのではない。

第四章は「新築開店」――。幕末からの魚屋「てつ魚店」を苦難のなか復活させ、最初は新潟からの魚、そして片道7時間の大回りしての小名浜からの魚の仕入れ、2019年に新築開店した「てつ魚店」の奮闘と福島の漁業、再生エネルギーの問題を抉る。


国難の商人 白石正一郎の明治維新.jpg幕末の豪商志士、尊攘運動家、一商人の枠を超え尊攘思想を深く理解し、志士たちを物心両面からつきっきりで世話をし、支援してきた白石正一郎。下関の荷受問屋「小倉屋」の八代目当主。白石邸は維新運動に奔走した尊攘志士の拠点であり、宿泊した志士は400人にも及ぶ。西郷隆盛、高杉晋作、平野國臣らを支え、「白石正一郎、白石邸がなければ明治維新は遅れていた」「奇兵隊は高杉晋作が構想を立て、白石正一郎が魂を入れた。白石正一郎は、高杉晋作にその生命を賭けた」。しかも、家業が傾き、借金に苦しみながらも支援を続け、維新後は名誉栄達を求めず、散った志士たちの慰霊・顕彰に専念したという。筋金入りの "愛国の覚悟"が伝わってくる。

まず、長州、そして下関という位置と白石正一郎だ。この地は地勢的にも情報の集約地、交差点であり、しかも欧米列強とぶつかった舞台であり、幕末から維新の歴史的出来事が集約された地であった。その拠点となったのが、白石邸であった。この地に白石正一郎という人物がいたことは、まさに宿命的。高杉晋作の奇兵隊、七卿の都落ちも、倒幕への転換も、この地この人あってのことだろう。

もう一つ、「あれほど維新に貢献した白石が、新政府樹立後に中央の東京に出ていかなかった」「名誉栄達よりも志士たちの慰霊・顕彰に専念した」ことだ。そこには、「明治政府の正体、明治維新というものへの不信感」「勤王を志し、王政復古に至るまで私財を投げ出したのは、功名心や己の利益ではない。ひたむきな勤王心の砦があった」「私財をなげうって支えた平野國臣、高杉晋作が死に、西郷隆盛も後に城山で自死する」・・・・・・。心中に横溢する維新へと突き動かした猛きナショナリズム、精神のもつ違和感はどうしようもないものだったのだろうか。

<<前の5件

  • 1  2  3

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

太田あきひろホームページへ

カテゴリ一覧

最新記事一覧

月別アーカイブ

上へ