保科正之の偉大さは、「名君の碑」に明らかだが、名家老・田中正玄、そして正玄から5代目の江戸中期の家老・田中玄宰(はるなか)、さらに幕末の最も困難な時代、京都守護職についた松平容保(かたもり)ら、会津に積み重ねられた結晶たる武士道は一条の光芒を放った。いかなる逆風のなかでも武士道を背骨として毅然として生きていく姿勢、ひたむきに国家の為、領民の為に尽くす清冽な生き方が会津武士道。悲憤慷慨のあまり自刃するような「滅びの美学」が会津武士道ではないと中村彰彦さんはいう。
あの徳島の板東俘虜収容所のドイツ人俘虜を愛国者として待遇した第9の初演奏の軍人・松江豊寿所長(中佐)も会津だ。
「骸骨を乞う」――職を辞す(全て国家に捧げ尽くしたため今の自分はもう骸骨に過ぎず、その残骸を引きとって引退したい)
他者に優しく、己を律するに厳しい。きちんと生きてきちんと死ぬ。毅然と生きて毅然と死ぬ――と中村氏は結びで記している。