

「信長の代、五年三年は持たるべく候。明年あたりは公家などに成らるべく候かと見及び申し候。左候て後、高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候」(吉川家文書)――恵瓊の分析だ。
「わが栄達は、秀吉とともにあった・・・・・・」「毛利家を豊臣政権下での生き残りの道に導いたのは、ほかならぬ恵瓊と小早川隆景の二人である」――。光秀の謀反、中国大返しについて、本書では「拙僧も寝耳に水の話でございました。恵瓊はぬけぬけと言った」とある。知っていたという筋書きだ。関が原に向けて恵瓊、三成、大谷吉継の3人の密談が描かれ、毛利輝元を西軍の総大将と担ぎだすが、恵瓊の前のめり感がよく描写されている。いずれにしても怪物。公明新聞に「安国寺恵瓊」として連載された。