
「生成的な言葉とは何か?」というテーマが、あたかも宇宙のかなたに一気に行ったかと思うと、緻小の素粒子の世界に入り込むかのように自由自在。「僕らの身体の中心にあって、言葉や思想を紡いでいく基本にあるものは、かたちあるものではない。それは言葉にならない響きや波動や震えとか、そういうような非言語的な形態で、死者たちから生者へと手渡される。言葉というのは、『言葉にならないもの』をいわば母胎として、そこから生成してくる。それを『ソウル』と言ってもいいし、『生身』と言ってもいいと僕は思います。そこから発してくる言葉だけがほんとうに深いところで人を揺さぶる」といい、「響く言葉」「届く言葉」「身体に触れる言葉」とはどういうものか、を語ってくれる。とくに「届く言葉」だ。
それにしても、「人間の言語能力は、われわれが想像しているよりはるかに深く、複雑な仕事を信じられないほどの高速度でこなしている」し、人間の底知れなさは、言語と世界の底知れなさに行き着く。ソシュールのアナグラム研究、ロラン・バルトの「エクリチュール」理論、村上春樹の世界性と司馬遼太郎の日本人のための美学、「大日本帝国の瓦解を怜悧に切り捌く丸山眞男」と「トラウマを抱えた人、大日本帝国に半身を残した少年、吉本隆明や江藤淳」、階層と言語、階層再生産に強い力を発揮する教養・文化資本、階層がない日本と言語、PISAと「広めの射程で自分をとらえる」能力......。
言語、人間、世界、宗教、宇宙、日本、世間、地域、階層、演説、そしてiPS細胞と生命など、さまざま考えさせてくれた。