
ドストエフスキーの巨大さ、偉大さは「人間とは何か」の問いに全精神力を傾注して、人間実存にひそむ深淵を明るみに出した点にある。「地下生活者の手記」「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフ兄弟」は、悪徳の跳梁する事件の人間心理の日常性をはるかに越え、人間の業、霊性の深奥の次元から人間実存の深刻な問題性を意識させる。「ロシア最大の形而上学者」(ベルジャーエフ)といわれるゆえんだ。
本書では、まず「人間学―社会主義社会の蟻塚と人間的自由」を示す。そこには「神と人間」の苦痛に満ちた問題が常にあり、当時ロシアを風靡する人間理性に基づく科学的、合理主義的ないし功利主義的世界観とそこにふくまれる人間観への批判がある。人間は非合理的存在であり、その主要な目的は、自分自身の恣意によって生きること、自由な意志にある。「功利主義者、実証主義者、科学的社会主義の理論家たち――ベンサムやコントやマルクスたちが提示する理想社会の青写真は眺めている場合にだけ美しいのであり・・・・・・"蟻塚"にすぎず、住まうのは人間ではなくて畜群」なのだという。
その自由探究の途は、背徳とニヒリズムへの"人神"に導くことを、キリーロフやラスコーリニコフ、イワン、カラマーゾフたちの悲劇の人物として描く。「神がなければ全ては許される」――神と最高善とに対する叛逆の途だ。イワンらの悲劇的運命を通して、バクーニンやシュティルナー的無神論の陥弄を暴露している。それは大審問官の「自由(天上のパン)と地上のパン」「人類愛が人間蔑視に堕すこと」「自由の重荷」「従順な畜群と全体主義的権力」に凝縮される。「神と人間」の問題だけではなく、無神論的社会主義、さらにはスターリンの独裁、ナチズムの心理構造としてのエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」へと連なるものだ。全体主義的民主主義の精神的弁証法を指摘したニーチェ、民衆にやさしく、ていねいで、人道的な全体主義的福祉国家が民衆を幼年のままにおく民主政治の危険性を指摘したトクヴィル――ドストエフスキーは早々と世俗的・自然的ヒューマニズムの陥る袋小路を摘発したのだ。「悪霊」の人神、キリーロフはニーチェの哲学を先取りしていることは明らかだ。
神を見失った現代人は、神なき世界のなかで、その空虚を満たすべく一時の思想や理論をあみ出し、また思考停止に日常を委ねている。本書は1968年に書かれた。哲学不在、問うことさえかき消された今日だが、昨年は、ニーチェが静かなるブームを呼んだという。その意味でも本書の意義は大きい。驚嘆すべき力作。