
徳川時代の文明の理念は、「静謐」であり、それが「武士の世界」を支配していた。徳川時代260年間は停滞と捉えがちだが、そうではなく、急ぐことなく、ゆっくりとした、静かな変革をめざしていた。家康の「人の一生は、重荷を負うて遠き路を行くが如し。急ぐべからず」――。そして藤沢周平は、その「静謐」な日本が好きであり、信長の猛々しさを嫌い、「武士道は死ぬことと見つけたり」の「葉隠」をもてはやした昭和戦前を「おぞましい光景」と感じたのだと、松本さんは言う。そこには、人間をつつみこんでくれる故郷・荘内藩があり、架空の海坂藩があり、支配権力の「正義」「武士道」からは一定の距離を置いた市井、庶民の生活がある。人間の心のやさしさ、はげしさ、哀しさ、ひだにも推理を働かせ、人情風俗をたっぷり書き込む。
山本周五郎の時代小説・人情物、司馬遼太郎の歴史小説にはない男と女、その心理をも描く藤沢周平の世界。その魅力を松本さんは鮮やかに読み解く。
本年、逝去された松本健一さんに哀悼の誠を捧げる。