新聞社を辞めて、フリーのジャーナリストになった太刀洗万智。海外旅行特集の事前取材のために訪れたネパールのカトマンズで、衝撃的な国王をはじめとする王族殺人事件に遭遇する(2001年のナラヤンヒティ王宮事件)。そして偶然、会ったばかりの男が目の前に死体となって転がっていた。自ら尋問を受け、捜索が始まる。記事を書くべきか、生々しい写真を送稿すべきか・・・・・・。緊迫感がどんどん募り、そして意外な結末へ。
「米澤ミステリーの傑作」といえるが、重厚で深さを増しているのは、全体に流れる「王とサーカス」の題名にあるジャーナリズム、記者に内在する「知る」「伝える」という宿命的苦悩だ。「お前はサーカスの座長だ。お前の書くものはサーカスの演し物だ。我々の王の死は、とっておきのメーンイベントというわけだ」「お前の心づもりの問題ではない。悲劇は楽しまれるという宿命について話しているのだ」「自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ」「このニュースを日本に届けたところで、どこかの国での恐ろしい殺人事件として消費されていくだけだろう。・・・・・・ひとときの娯楽として・・・・・・。後には、ただかなしみに晒されただけの人々が残る」「知ることと広めることは話が別だ。・・・・・・伝え広める理由はどこにあるのか」――。そして、釈迦と梵天の「梵天勧請」、孔子の「怪力乱神を語らず」などの哲学を描く。太刀洗万智のとった結末は「踏みとどまった」のだが・・・・・・。苦悩の深さが尊い。