千利休の自害は謎であり、奥深く、多くの解説がある。秀吉と利休の確執を、かなり鋭角的に描いている。そして、1582年の本能寺の変、1600年の関ヶ原とともに、1591年の1、2月、秀吉に直言できることができた羽柴秀長と利休が相次いで死亡したことが、いかに政権を衰退させていったかを感ずる。
「殿下は現世の天下人。それがしは心の内を支配する者です。互いの領分に踏み込まぬことこそ、肝要ではありませぬか」「いや、現世をも操ろうとしたのはそなたの方ではないか」「秀吉は、豊臣政権の政治面を弟の秀長に、軍事面を黒田如水に、文化面を利休に託していた。だが利休は謀略面をも担っていたのだ。利休の謀略は(本能寺をはじめ)、次々と功を奏し、秀吉は天下人となった。しかし秀吉は、欲という魔に取り付かれ、己一個に富を集めんとした。民への苛斂誅求は言語を絶するものになった。・・・・・・殿下の関心を大陸に向けさせ・・・・茶の湯によって、戦国の世を終わらせようとしていたのだ」「わしは(秀吉)大陸の王になり、現世と心の内の双方を支配する」「茶の湯の世界には別の秩序があることを、古田織部は世間に知らしめてしまった。現世と精神世界という二重構造が・・・・・・」「利休から精神世界の支配者の座を譲られた時から、こういう結束を迎えると、織部は分かっていた」・・・・・・。
信長において茶の湯は名物唐物を所有するわずかの"本数寄者"だけのものであり、それを政治的に利用しようとした。利休(宗易)はその面白さを民へと拡大しようと"侘数寄"を誕生させた。秀吉はその"侘数寄"を万民の秩序保護に利用した。しかし信長の大陸制覇を踏襲した秀吉と利休の「民の安穏と己の野心」「現世と精神世界」の溝が亀裂となり、補完関係にあった二人はしだいに割れ茶碗のように破局を迎えていく。牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、細川忠興を描きつつ、ぐいぐいと利休自害の謎に迫っている。