1853年のペリー浦賀来航から幕末――。日本を取り巻く外交環境は激しかった。アヘン戦争(1840~42年)を起こしたイギリスは1857年のインド大反乱(セポイの乱)に苦闘しながらもインドでの覇権を確定、1860年にはアロー戦争(第二次アヘン戦争とも。1856~60年)で北京を占領、その勢いは日本を震撼させていた。ペリー来航以来、アメリカは開国への強い行動を起こしていたが、1861年には南北戦争に突入する。イギリス・フランスとロシアの戦いであったクリミア戦争(1853~56年)は、極東においてもロシア艦隊とイギリス艦隊がぶつかり合い、アロー戦争では清とイギリス・フランスの講和にロシアは介入、広大な領土を清国から得た。当然オランダの力もある。米、露、蘭、英――攘夷・開国高まる日本のなかで、どの国と結び外交を展開するか、幕府内でも主張は乱れ、親米一辺倒の井伊直弼など親英・親米・親露が激しく対立した。
そして1861年、ロシア艦隊・ポサドニック号の対馬占領事件が起きる。小栗忠順の日露同盟論に対し、老中安藤信正は親英路線を立て対立する。安藤信正、水野忠徳ラインが指名したのが勝海舟だと著者は見る。勝海舟、横井小楠は、道義を説き、かつ全島民を失うともどちらの国にも対馬は渡さないとの断固たる覚悟に立っての外交を行う。
列強のバランス・オブ・パワーを利用して、イギリスにもロシアにも対馬を取らせない――。「外交の極意は、誠心正意にある」と言う勝海舟のギリギリの攻防を、文献を精査して浮き彫りにする。